葉隠は奇談集成の書とみつけたり 弐
2.「乱心」
鍋島綱茂(肥前佐賀藩の3代目藩主)の時代のこと。
参勤交代で綱成は江戸にいた。応対、お使い、お供などを勤めた者の中で、西二右衛門、深江六左衛門、納富九郎左衛門、石井源左衛門などが優秀だった。なかでも二右衛門は馬術の名手として名を馳せていた。しかもなかなかの洒落者であり、馬に乗る際の着物に凝った。馬乗袴というのはこの二右衛門からはじまったものであるという。身分は部屋住みである。裏では随分、辻斬りなどもやった男だ。
そんなときに国元から千住善右衛門という馬上若殿付きの身分の者が江戸に来た。二右衛門、六左衛門、九郎左衛門、源左衛門らは「あのような男が」と不満を抱き、江戸に不案内な善右衛門に数々のいやがらせをしては失敗させていた。いやがらせ受けた善右衛門も二右衛門らに対して強い敵意を抱くようになった。
いやがらせに堪えるうちに、遂に善右衛門の恨みは頂点に達し、四人を討ち果たすことを決めた。善右衛門は策を巡らし、二右衛門ら四人に「たまに歓談しようではございませぬか。拙者の住まいにおいでくだされ」と言うと、善右衛門の恨みなどに気づかぬ四人は疑いも持たずに招きに応じた。
その晩、善右衛門は遺書をしたためて、彼らを待った。遺書を書いている途中、馬渡忠兵衛がやってきて「酒宴を開くようだが、それならそれがしも仲間に入れろ」と言うので善右衛門は慌てて「そうなされ」と答えた。そのために遺書の内容が要領を得ぬモノになってしまったが、時間がない。
二右衛門、六左衛門、九郎左衛門がやってきた。残念ながら源左衛門だけはほかに約束ができて来なかった。夜通しの酒宴に疲れ果てた二右衛門ら三人は「帰る」と言い出し、「粥を炊いているのでしばしお持ちを」と言ったが、「いや、粥はいらぬ」と六左衛門と九郎左衛門が立ち上がる。続いて二右衛門が立ち上がろうとしたとき、善右衛門は抜き打ちに二右衛門の首を斬り落とした。続けて善右衛門は九郎左衛門に斬りかかる。六左衛門は呆然として立ち尽くし、「恨まれる覚えはない」と、二人の戦いを見守るばかり。
そのうちに善右衛門の下人が階下から刀を持って駆け上がって来て、六左衛門の背中を斬りつけた。六左衛門が振り返って下人たちと戦っていると、そのうちに九郎左衛門が討たれて倒れた。六左衛門が「これはどういうわけか」と善右衛門に問うと、理由も話さず「そのほうも逃さぬ」と言って斬りかかってきた。しかし、六左衛門は武士らしく刀を抜いて「心得たり」と叫んで斬り結んだが、双方ともに数箇所の傷を負った。そのとき、斬り倒されていた九郎左衛門が「口惜しい」と叫んで善右衛門の股を払い斬ると善右衛門はその場に倒れた。
六左衛門は善右衛門にトドメをさそうとしたが、全員が斬死しては善右衛門の乱心による凶行であるという証拠がなくなる。トドメをささずに善右衛門の屋敷を出て、目付に知らせようと朦朧とする意識のなか歩き、ようやく石井伝兵衛という者の家までたどり着いて、事の次第を話した。
しかし、石井は「拙者一人だけで検分するわけにはいかぬ。同役のものへも報告せよ」と言い、六左衛門はこの石井の対応に憤慨したが、諦めて適当に挨拶してから気力を絞って福地市郎兵衛宅に行った。福地老人は六左衛門の話を聞くと笑い出し「若い衆はそれくらいのことがなくてはならない。わしが行って見届けよう」と言った。六左衛門は福地老人に対して感謝し、この時の嬉しさは終生忘れないと心に誓った。
福地老人が検分すると、善右衛門は虫の息だったが、九郎左衛門は息があった。のちに善右衛門は死に、九郎左衛門は傷も癒えた。
届出をすると九郎左衛門と、六左衛門にはお咎めがなかった。刀も抜かずに斬られて死んだ二右衛門の父親はほかに子供がなかったので養子をもらうことになったが、その固めの盃の際に「二右衛門は武運に見離された者だ。子々孫々に至るまで二右衛門の葬式を出してはならぬ」と言った。
「葉隠」原本現代語訳 山本常朝著(教育社新書)より
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