見出し画像

「御霊櫃峠」

写真は20年前の猪苗代湖翁沢地区。僕はここで溺れそうになったことがあります。

2.

綾瀬五平新田(東京都足立区綾瀬)で隊士を募り、総数227名となった新撰組は、松戸経由で流山に転陣を行った。その頃、宇都宮城の占拠を目標としていた会津・桑名の兵力に対抗するため、彦根藩、旧幕臣岡田将監隊、信濃岩村田藩その他を援軍に加え、大軍監に総督の香川敬三が就任した西軍は、板橋宿を出発して粕壁(春日部)に達した。

しかし、「流山に武装した集団が集結した」との情報を得て、越谷宿まで引き返し、慶応4年4月3日、流山の新撰組陣地を包囲した。

すぐに解放されるだろうと楽観視して近藤が西軍に投降したあと、新撰組隊士たちと別れた土方歳三は、数人の隊士たちとともに密かに江戸に戻り、慶応4年4月4日、江戸城内で勝海舟に面会して近藤の助命嘆願をしたが、京都時代の新撰組を侮蔑し、毛嫌いしている海舟は、土方が頭を下げて哀願するのに表面的に頷いただけで、近藤の助命嘆願などする気は毛頭なかった。

それだけでなく、西軍への江戸城明け渡しのためには土方は邪魔でしかないので「市川国府台に幕府の兵が集まっているから合流した方がいい」と薄笑いを浮かべながら提案した。土方は海舟の態度から本心を見透かして「いずれは、こやつも我が手で葬ってやる」と決め、海舟の提案を受けることにした。江戸城を去る際に、海舟や江戸城内に残る幕臣たちの冷たい視線に憤慨した土方は彼らを睨みつけながら江戸城をあとにした。

土方は、江戸城の明け渡しが行われた4月11日に、新撰組古参隊士の島田魁らとともに市川鴻之台(市川市国府台国府台)に集結していた大鳥圭介らの伝習隊(旧幕府軍)に合流した。翌4月12日は旧幕軍の評議によって参謀に選出され、先鋒軍参謀として宇都宮に向けて出発した。

旧幕軍と奥羽列藩は同盟して、最終的には薩長土肥の新政府に対抗するために、上野を脱走した輪王寺宮を担ぎ、奥羽列藩と北海道を合わせた新しい政府を作ろうとしたともいわれている。

宇都宮を目指した土方は、水海道、下妻、下館(ともに現・茨城県)を経て、4月19日に宇都宮城を攻撃し翌20日に入城した。土方は、攻撃の際に逃亡しようとした味方の兵士を斬ったと言われる。京都では“昭和の連合赤軍の総括”のように、つまらぬことで隊士たちを粛正してきた冷酷と言われる土方だったが、鳥羽伏見の戦い以降、敗戦続きの末に、相棒の近藤勇の西軍捕縛も重なって、精神的に疲弊していたと思われる。

逃亡兵士を斬り殺したことを土方は後悔している。もしかすると京都時代の殿内義雄・家里次郎、芹沢鴨一派、山南圭介、伊東甲子太郎ら御陵衛士(高台寺党)および藤堂平助らの粛正が土方の精神に大きな影響を与えていたかもしれない。亡霊とは人間の精神の中に存在しているからだ。

4月23日、壬生(栃木県)から進軍した西軍は宇都宮城奪還を目指して攻防戦となり、その際に足を負傷した土方は、巨漢の島田魁に支えられながら戦場を脱出した。

会津西街道を北上して4月29日に会津に入った土方は、先行していた斎藤一率いる新撰組隊士たちと合流が叶ったのちに東山を経て猪苗代湖南側に位置する湖南地域の福良にいた。福良には野戦病院のような施設が置かれており、そこで怪我の治療をしていた。会津には新撰組と関わりの深い医師、松本良順も江戸を脱出して会津に来ていたが、彼の治療を受けていたかは記録にない。

4月25日、近藤勇は板橋宿で斬首となっていた。

つづく…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?