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首塚の壱

会社を辞めた直後に後藤明生さんの小説「首塚の上のアドバルーン」を読んで、その首塚が本当に幕張にあることを知り、暇にまかせて何回か見に行ったことがあります。ところが始めに探しに行った際には、その首塚がどこにあるのかわかりませんでした。小説から辿って首塚を探したのですが、皆目見当がつきません。

結局、そのときは、さんざん迷った挙げ句にこんもりとした小さな山の頂上に辿り着きましたが、そこは首塚ではなく、壊れて文字が判別できない小さな石碑のようなものがあるだけでしたが、空気感が都会のソレとは違って清涼感がありました。その雰囲気だけで心が洗われた気がしました。

「これが首塚?」もちろん首塚ではないのです。

その後、また首塚を探しに行って、とうとう見つけたのです。本当に鬱蒼とした森の中にあって不気味なんですね。妖怪がたくさん蠢いているような感じです。「墓場の鬼太郎」ですね。その後、その雰囲気が好きで何度か首塚に行って手を合わせたのです。首塚というのはお墓ですからね。

最近は行かなくなりましたね。もう何年になるでしょう? また、そのうち出かけてみようと思っています。

当時、ブログに書いた文章があるので転載します。当時の能天気さに腹が立ったりします。

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 一昨日は、船橋職安に行って“職探し”をした。一応スーツを着込んでいるが実は本気で職を見つける気はない(今のところはね)。会社勤めを中退して自由を謳歌しているうちに身体を壊すっ…てのがいいじゃんかねえ。最終的には職業訓練校にでも行って介護なんぞを学んでみようかなと考えているからだ。

 職安に着くと、不況なんだねえ、求職者がいっぱい・・・。無言で「職検索PC」の画面に向かう姿がネット難民のよう。この人たちに比べりゃ僕はなんとまあ呑気というか厳しさ知らずというか、もともと生活なんてどうでもいいってこと。困ったときに慌てればいいさ。

 受付で職検索PCの番号票をもらう。その番号のPCを使って職探しをするのだ。技術、営業、販売といったカテゴリーで検索すると・・・「59歳以下学歴不問未経験可」という仕事があるわあるわ・・・50歳以上の就職は厳しいというけれどこの募集数はいったい何だろう? そうはいってもその職種というか該当業務は「IT技術者、営業管理職・・・」といったものばかりで、がっかり。僕は無責任でいい加減にやっても許してやるというような仕事じゃないと嫌なのよね。

 とりあえずは、「これは」という会社の求人票を印刷して持ち帰る。ちなみに職安での求人票の印刷は5枚までとなっている。ケチだねえ。

 職安を出て、本当の目的地に向かう。後藤明正さんの小説「首塚の上のアドバルーン」のテーマとなっている“馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚”と後藤さんが住んでいた幕張ファミールハイツを見に行くのだ。

 「首塚の上のアドバルーン」は後藤さんが幕張に移り住んだときのことを書いたものだ。彼が住んでいたのはJR幕張駅近く(歩いて10分くらい?)の幕張ファミールハイツの14階。かすかに三浦半島も見えるという眺望のよいベランダから周囲を眺めると再開発中の幕張の街並みが見える。そして・・・その向こうにこんもりと繁った丘のようなものも見えたのだった。これが馬加康胤の首塚がある大須賀山(標高15メートル)だった。

 以前からこの首塚に興味があった僕は、その首塚を見て後藤さんの小説の雰囲気を味わいたいと思っていた。京成船橋駅から幕張本郷駅に向かう。見学コースは事前に2つのパターンを想定していた。ひとつは幕張駅から後藤さんが書いている散歩コース通りに歩くコース(幕張駅から幕張ファミールハイツ~大須賀山~首塚を見た後、幕張本郷駅に至る)。もうひとつは幕張本郷から歩いて大須賀山~首塚を見た後、幕張ファミールハイツ~幕張駅に至るコースだ。

 電車が幕張本郷に到着する際に、スラリと長いきれいな脚の女子高生が目の前を出口に向かって歩いて行く。つられて僕も降車してしまったが目的駅なのだからちょうどいいのだ。

 その女子高生が海浜幕張行きのバスに乗ったのを横目で見ながら、僕は徒歩で幕張方面に向かう。馬加康胤の首塚は幕張本郷駅と幕張駅の中間ぐらいにあるのだ。

 一本松公園を越えると緑地が見えた。「ここだろうか?」と近づいて行くと千葉街道への下り口だった。急な階段が目の前に・・・。階段を下りようとしてスマホのGPSを見て気づいた。「方向が違うな」と引き返して緑地に沿って歩いていく。


 Wikipediaを参照すると、馬加康胤(千葉康胤)というのは、1398年から1456年まで生きた室町時代の武将で、一応千葉氏の血筋である。千葉氏は、平将門と同じ桓武天皇を元とする桓武平氏である。平氏もこのように桓武天皇からのもののほか、仁明天皇からの仁明平氏、文得天皇からの文得平氏、光孝天皇からの光孝平氏の4系統があるが、武将として活躍するのは平清盛や北条時政などを輩出する桓武平氏である。桓武平氏でも平将門と北条のように坂東を拠点とした平氏を「坂東平氏」と呼ぶようである。ほかに三浦、千葉、上総、秩父、長尾・・・などが坂東平氏である。

 しかし、坂東平氏のほとんどは後に“平姓”を名乗ったようだとの見解もある。まあ歴史というのはいい加減なもので、古事記や日本書紀以降の日本正史と呼ばれるものを筆頭に、近代史までの資料というのは、ほとんど権力を持つ者が作ったものであって、自分たちを正当化するものであるから信用は出来ないのである。

 ちなみに清和天皇を元とする系統が源氏(板東源氏)であるが、頼朝の妻となったのは北条時政の娘、政子である。北条は平氏であるから源氏の味方をしちゃいけないが、頼朝が平家を討つために協力したのは面白い。ほかに坂東源氏としては新田、足利、佐竹、武田、小笠原、里見などの武将たちだ。

 馬加康胤は千葉介(千葉氏の総領の呼称)である千葉満胤の子だが、所謂妾腹で、享徳の乱でクーデターを起こして千葉宗家を滅ぼし千葉氏19代当主となる。康胤は馬加村(幕張)に居を構えていたことで馬加姓を名乗っていた。またまたちなみに、その272年前、伊豆で北条とともに挙兵した頼朝が箱根(石橋山の戦い)で大敗して船で海路房総に脱出し千葉常胤(千葉氏2代目)に協力を要請。千葉氏だけでなく坂東武将の多くが頼朝に協力して平氏を滅ぼしたのであった。房総で体制を建て直したときに幕張に館を構えた。館に幕を張ったことで幕張となったという説もある。

 千葉宗家である千葉胤直と弟の賢胤を滅ぼして千葉氏19代当主となったあと、佐倉の将門山に城を築く。しかし翌年に東常緑(とうのつねより:平常緑たいらのつねより 歌人であるらしい)率いる「反・馬加派連合軍」が康胤を攻める。常緑は、その時期に将軍であった京都の足利義政(応仁の乱を引き起こす将軍)に康胤追討の命を受けて錦の御旗を掲げている。連合軍には長尾、上杉、康胤に滅ぼされた千葉宗家の胤直の弟の息子がいた。

 そして、哀れにも康胤は、上総国分寺があった市原まで逃れるが、とうとう追い詰められて自殺してしまうのである。康胤の首は京都まで送られて晒されるが、康胤の家臣たちが首を盗み出して、幕張まで運んで首塚を建てたというのだが…。


 住宅街をとぼとぼと歩いていく。スーツを着ているので歩きにくい。仕事をしていたときには営業だったので歩き慣れているはずなのに、無職期間が長かったからかもう足腰が痛くなってきた。人間の肉体ってのは使っていないと、あっという間に劣化するのである。

 さて、首塚はどこなのか? 歩いても歩いても周囲は高層マンションばかり。GPSの表示地図もよく見ると大雑把なので目的地がはっきりとわからない。困った・・・。と、そこにこんもりとした森が見える。あれか? あれが首塚のある大須賀山なのか?

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