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災害の多様性「占領謀略事件」弐

昭和23年(1948)巣鴨拘置所で東条英機が絞首刑となった。東条信奉者によって英雄として神格化されるのを恐れて、遺体は遺族には引き渡されることなく、横浜の火葬場に運ばれて火葬された。遺骨も引き渡されることなく太平洋上に廃棄されることになっていた。

一方で、小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平は東條らの遺骨について一般の戦犯と同じ(遺骨は遺族に渡さないという意味になる)と聞き、遺骨の奪還を計画していた。三文字は久保山火葬場で火葬されるとの情報を掴み、たまたま知り合いであった、その近隣にある興禅寺住職の市川伊雄と奪還を共謀した。同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで火葬場に忍び込み残灰置場に捨てられた、7人の分という残りの遺灰と遺骨を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。先の米国公文書との食い違いについては、遺灰についてはある程度残っていた、監視と廃棄にあたった米国将兵らが慌てていて火葬時に別に放り出していた遺骨をそのままにしてしまった、三文字らが火葬場長を事前に泣きながら説得していたため場長らが(他に火葬はなかったと言っていたが)実は他の無縁者の遺灰をやむをえずわたしたのではないかと諸説ある。

Wikipedia「東条英機」より転載

常磐線の綾瀬駅から歩いて20分のところに東京拘置所が建っている。その東京拘置所の前から旧水戸街道に向って、幅の広い道が通っている。御成道である。御成道と言うからには殿様が通る道であろうと思われるが、その通りで、徳川将軍が通る道だったのである。東京拘置所は江戸時代に小菅御殿の跡地に建てられたもので、小菅御殿というのは徳川将軍が鷹狩りなどに出かける際の休息所とした施設だった。小菅御殿はもともと幕府郡代の伊奈忠司の下屋敷があったが、その後、伊奈家の失脚によって小菅御殿は取り壊された。

その後、貨幣を鋳造する「銭座」が置かれ(新撰組が駐屯したのは銭座が存在していた時代である)、明治になって小菅県庁となり、廃藩置県が実施されると煉瓦工場が建造され、囚人にレンガを製造させるために小菅刑務所が設置された。その後、池袋にあった東京拘置所=巣鴨プリズンが占領軍に接収されたことで東京拘置所は小菅刑務所に集約され、のちに東京拘置所となった。

東条英機が巣鴨プリズンで絞首刑になったのは下山事件の前年で、下山事件は、翌年の7月に起きる。

長くなったが、東条英機の絞首刑は余談であり、下山事件とは全く関係がない(多分)が、下山事件当時は小菅刑務所は存在したのである。下山遺体発見現場から拘置所までは、現在では五反野親水緑道を歩いて徒歩5分ほどである(地図参照)。現在、下山事件の遺体発見現場近くに追憶碑が設置されているがひっそりといった感じで目立たない。まるで物言わぬ被害者のようである。

Googleマップ「東京・小菅の東京拘置所から下山遺体発見現場付近までの地図」

つづく

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