見出し画像

千葉佐那のこと

僕は政治家とか大商人というのは基本的に嫌いです。人として徳がないからです。徳というのは「天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質」のことです。

特に政治家には権力を笠に着て国民を疲弊させる人物が多いように思います。また、規模の大きな商人(つまり中堅・大企業)は、幕末ぐらいから政治に癒着して自分たちの損になるような政策をとらせないように圧力をかけるので嫌いです。これは衆参両議院のふたりの政治家の選挙運動を手伝った経験から彼らの本質が理解できるようになりました。

「坂本龍馬の許嫁」

幕末の志士、坂本龍馬も、その根幹は武士というより商人です。暗殺されるまでに幕府と討幕派を上手に操った感があります。だから暗殺されるのです。暗殺されていなければ岩崎弥太郎以上の財閥を築いたことでしょう。それとも…海軍を率いて軍国主義のお先棒を担いでいたかもしれません。とにかく奇妙な男でした。そんな龍馬が幕末の英雄として表舞台に現れるのは明治16年(1883)に彼の伝記とも言える「汗血千里の駒」が、高知の「土陽新聞」(高知新聞の前身)に坂崎紫瀾によって連載されてからです。

おっと、龍馬については別途紹介します。さて、今回は千葉佐奈の話です。一般的には佐那と書かれますが、これは司馬遼太郎の“龍馬がゆく”で佐那としているので、それが一般的になったのです。他に、さな子、佐奈とも。千葉家の位牌には佐奈と書かれているらしいので、ここでは佐奈を使用)は、坂本龍馬の婚約者として有名だと思います。

佐奈の父は千葉定吉です。北辰一刀流の千葉周作の弟です。周作とともに北辰一刀流の道場となる玄武館の創設と運営に尽力しました。自身も今の東京駅八重洲あたりに道場、桶町千葉道場を構えました。玄武館が大千葉と言われ、桶町千葉道場は小千葉と呼ばれました。ちなみに佐奈には兄・重太郎、妹・はまがいました。

玄武館からは水戸藩に仕えた者が多いのですが、定吉は鳥取藩江戸屋敷に召し抱えられました。当時の鳥取藩主池田喜徳は、水戸斉昭の五男ですから、水戸藩の縁で仕官できたのかもしれません。しかし、水戸斉昭の子は多いですね。慶喜にはじまり幕末のあちこちに斉昭の息子たちが登場するのです。

おっと、また脱線しそうになりました。

定吉の道場には坂本龍馬が通ってきました。安政5年(1858)頃に彼と佐奈は婚約したとされています。龍馬が姉の乙女宛に書いた手紙には「(佐奈は)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井加尾(龍馬の初恋の相手)よりも少しよい」と書かれていますが、今思うと何だかイヤな文面ですね。

僕が龍馬を嫌いなのはこういうところだったりします。女性を軽く見ているような…結婚詐欺師の印象もあります。しかし、“婚約した”というのは、佐奈の一方的な思いならば、印象は違います。それでも佐奈のけなげな一方通行の恋愛感に僕は勘違いさせた龍馬にも非があると思います。

ついでに書いておきますが、僕は「英雄色を好む」と言う女性をバカにしたような言葉が大嫌いです。

千葉佐奈は龍馬と結ばれることを夢見て過ごしますが、肝心の龍馬は、京都でお龍(楢崎龍)と結ばれ、薩摩に新婚旅行までしています。そのうちに京都で、中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。

佐奈が龍馬の死をいつ知ったのかはわかりませんが、彼女は亡き龍馬を思い独身を通した…と言われていましたが、「元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年(1874)に結婚した(数年後に離婚)」と書かれた明治の新聞記事が2010年に発見されたとあります。その真贋は不明です。

明治維新後は、学習院女子部に舎監(寄宿舎の監督)を務めたあと、千住(東京都足立区千住仲町1あたりに“千葉灸治院跡の碑”があります)で千葉家家伝の灸を生業としてひっそりと生きます。自由民権運動家の小田切謙明・豊次夫妻と懇意となり、佐奈は謙明の灸治療を行ないますが、謙明は亡くなっていまいます。その後も、妻の豊次と佐奈の交流は続きました。

千葉灸治院に関しては足立区のサイトを参照下さい。

佐奈は、明治29年(1896)に亡くなります。初め谷中に土葬されますが、豊次が哀れに思い、分骨して小田切家の墓地がある山梨県甲府市の青運寺に墓碑が建てられます。

佐奈の遺骨の残りは、谷中から千葉県松戸市にある東京都の八柱霊園の無縁塚に合葬されていましたが、太平洋戦争後に佐奈の妹・はまの子孫が、千葉家の菩提寺仁寿院に改葬されました。

僕は坂本龍馬よりも千葉佐奈に興味があります。だって、歴史というのは人々の生き様であり、決して幼稚な英雄談ではありませんからね。


 





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?