朗らかな衰弱

季節は暖かくまた温かく草木が萌え出ずる事は、この部屋を自由に闊歩する春が教えてくれる。

虫や動物たちが自由気ままに穏やかに、そして静かに、謳歌しているのは窓を見ずとも分かる。

……怠惰である。そう断ずるには今日は些か心地良すぎた。

エデンの園。桃源郷。ユートピア。シャンバラ。常世。

多くの書物が理想郷の存在を打ち出し人々の想像を豊かにしていたが、この六畳一間の外はその理想郷と言っても過言ではないだろう。

結構な事だ。そして素敵である。ただ残念なことに多くの人間同様、私も見ることは適わない。

「とても綺麗な花があったのよ」

そう言って摘んだ花を花瓶にそっと挿し無機質なこの部屋を鮮やかにしてくれる君は……いやはやどうして昔と変わらず美しいままだ。

私には少しばかり勿体無い。

身を起こすにしても自力ではどうしようもないこの身では優しく抱擁することもままならない。しかしどうかこの気持ちだけは察して欲しい。言葉にだして言うと君は優しく微笑んでくれるものだからついつい何度も言ってしまう。

……ポツリポツリと。おや雨だ。と分かるには地面が熱を放出するあの臭いがあれば十分だ。

そういえば、洗濯物はまだ外に出しっぱなしだったかな? 名前を呼んでも返事はない。

活発な君のことだ。ちょっとした散歩か、はたまた買い物か。どちらにせよ洗い直しだろう。

また君に余分な苦労をかけてしまう。本当に申し訳ない。

……。

どれだけの時がたっただろうか。いつの間にか眠ってしまっていた様だ。せっかくの君の誕生日だと言うから日を跨ぐまで耐えようとしたつもりだったのだが。いやはや呆れるばかりだ。

とは言え、昨日から君を見ていない。いや何日も前だったかな?もしかすると何年も前かもしれない。そう思うほどに君がいない事はとても…とても辛いものだ。

そうだな。「誕生日おめでとう」その一言だけでも言いたい物だ。

……そう思った私は、そっと、ベットから身を起こした。

おっと、花瓶の花が散ってしまっている。君がせっかく挿してくれたというのに少々勿体無い気もするが仕方ない。私は知っているのだ。美しい花もやがて枯れてしまうということに。

そのままドアノブに手をかけてゆっくりと回す。キィ…と静かに開いたドア。うむ、やはり木は良い。

木は暖かく、穏やかなのだ。

踏み出せば台所。ここにはいない。

おや…包丁が少し錆びて欠けている。とは言え数十年もの間私達の食卓のために働いてくれていたのだ。多少は仕方ないだろう。…良く見ると柄の部分に名前が彫られている。そういえば君と結ばれた時、生活に必要な物を買ったのだっけな。良く見ると包丁だけじゃない。食器や調理器に至るまで随分と懐かしい面々が揃っている。どれも少しばかり古くはなっているが随分大切に使ってくれていたのだな。

やはり君は私には勿体無い人だ。

家中を探し回ったが何処にもいない。ふむ。庭の手入れでもしているのだろうか。

庭に出てみると、じんわりと湿った空気が家に入ってくる。うむ、やはりあいにくの天気だ。

庭に下りてみると花壇が目に入った。家庭菜園をしたいと珍しく君が言う物だから、頑張って造ったのだっけか。覗いてみると少々雑草が茂っていた。まぁ流石の君でも一人では多くはこなせない。私も今度手伝ってやらねばな。あの頃が懐かしいな。ジャガイモやらトマトやら。……ニンジンはもういいかな。あれは苦手だ。

とはいえ、君は何処にもいない。さて、外出中だろうか?うーむどうにもそうらしい。

では何処にいるのだろうか。こんな天気だ。迎えに行ってやらねば。

そう思った私はガレージへと足を運んだ。

もう十数年は乗っていない私の愛車は無事にエンジンがかかるか分からなかったが、三度目の挑戦で無事勇ましい音とともに始動した。

久しぶりだな相棒。また会えて嬉しいよ。

さて、行き先は…と思ったがなんとなく決まっていた。

それこそ何年も行っていないがその運転に迷いはない。なんていったって私達の最初の場所なのだから。

朝には一面の花畑で、夕方には美しい夕日が見れて、夜には満天の星空が何者にも邪魔されず見ることが叶うあの丘。随分探すのに苦労したが、君のあの時の顔を思い出せばなんてない労力だ。

あの丘が見えてきた。気づけば周りは晴れていて太陽が顔を覗かせていた。

車からおり、いそいそと走り出す。どうにも君が待っている気がして。

そしたらどうだろう。

当然のように君は待っていて。

それが僕には耐え難いほど嬉しくて。

走るその速度もどんどん速くなって。

そして君の前に立って。

そして私は思わず泣きそうになりながら言ったのだ。

「申し訳ない。随分長くかかってしまった。だけど、待っていたのが……君で…君で本当によかった」

すると君はやはり優しく暖かに笑ってこういうのだ。

「当然です。何時までも待ちますよ。貴方ですもの」

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