『プラトニックは削れない』第八話

 東京から熱海をつなぐ東海道本線の車内に座りながら、渚に元倉と安田から逃げる経緯を聞いた。風間の口から、安堵なのか呆れなのかわからぬため息が肺から漏れ出る。
「刑事を出し抜くなんて、なんてことを……」
「褒めてくれてもいいんですよ?」
 ──こんなはずではなかった。
 窓の外には昼下がりの海が眼前に広がっていた。平日に東京から静岡まで在来線を使う人数は多くなく、席はまばらだった。
「風間さんは、逃げた後どこへ行くつもりだったんですか」
 渚が唐突に話を振った。
「実は考えていなかった。行く宛なんてどこにもないんだ。海外に高飛びなんて馬鹿な考えも頭をよぎったけど」
「空港は真っ先に止められちゃいますよ」
「渚のパスポートは期限が切れているから、連れて行けないしね」
「私を連れて行く気があったんですか?」
 核心をつかれ、風間は開きかけていた口を閉じる。
「そもそも風間さんは、警察から逃げ切ろうとしていますか?」
 顔を見なくても、渚がこちらに視線を向けた感触が風間にはわかった。
「筒木を殺したのは、本当に風間さんですか? 殺人なんかするはずありませんよね?」
 質問には答えず、膝の上で拳を握りしめる。
 渚は解剖結果を警察から知らされたのだろう。筒木がすでに死んでいることも。
 ──渚の十三年間は……。
 大事な人の胸中を推し量るにつれ、風間は胸がかきむしられ、感情が何度も削がれていくような気分だった。
 風間は、渚に泣き喚かれ責められても、まったく文句を言えない。軟禁まがいのことをされ、棒に振ったこの十三年を返せと言われても。
 なのに今も渚は、理由も知らず逃げようとする自分についてきてくれているのだ。
 これ以上、彼を縛り付けて、苦しめる道理もない。
「渚。今からでもきみだけは……」
 口を開いたと同時に、電車が次の駅に停車した。ドアが開くと渚はすっくと立ち上がり、風間の腕を取る。
「降りましょう」
「え、ちょ」
「海に触れてみたくなりました」
 風間はあっという間に引きずられて、足をもつれさせながらホームに降りた頃には、電車は彼らを置いて次の駅へ走り出してしまっていた。
 渚が振り向いて、笑う。
「どこにも行く宛てなんてないなら、ここでもかまわないでしょう?」
 そうして軽やかな足取りで、改札のほうへ歩いて行った。
「ちょ……渚!」
 後を追おうとすると、風間のポケットにあるスマートフォンがバイブした。
 知らない番号からだった。
 風間はいやな予感から背筋に凍るような感触を覚えつつも、条件反射ぎみに通話ボタンを押していた。
「……もしもし」
『そろそろ、洗いざらいしゃべりたくなってきた頃じゃないですか?』
 幸崎総一郎の声だった。
「この番号……も、警察か?」
『さすが。鑑定書を届けるため、古代邸の住所を警察に問い合わせた時、電話番号も一緒に教えていただきましたよ』
 この通話が終わったら、スマートフォンを海に捨ててしまおうと風間は誓った。 
『あはは、安心して下さい。逆探知してあなたの位置を探るようなことはしていません。そんなことを警察にさせては、ゆっくり話しもできませんからね』
「何が目的だ」
『真実ですよ。僕が知りたいのは真実だ。悪役も主人公も、誰もが求めている大好きな真実ですよ』
 電話越しに幸崎の長いため息が聞こえた。
『十三年前に何があったのか。あなたがどうやって父を殺したのか。なぜ殺したのか。殺したのち頭部をどこへ持ち去ったのか』
「……」
『すべてを語ってさえしてくれれば、逃亡生活をやめて僕に殺されることができますよ、あなた。そうすれば、古代渚は見逃してやってもいい』
 渚が殺される場面が生々しく浮かぶ。華奢で崩れしまいそうな体から、喉から血が数珠のように玉を飛び散らせる場面を想像する。
 ──自分が命を差し出せば、それらを防げるかもしれない。
 風間はハッとして、首を振って暗い考えを強制終了させた。幸崎が父の予備と名乗るからには、見逃すと口だけ言って渚を無情に殺すこともできるだろう。
「どの口がほざく」
『あはは。今、ちょっとだけ『見逃してくれるなら殺されてしまおう』って考えていましたね?』
 スマートフォンを持つ風間の手に力がこもった。
『あなた自身、いつまでも逃げ切れるとは思っていないでしょう』
「渚にだけは手を出すな」
 風間は相手の返事を待たず、通話を強制的に終了させた。スマートフォンの電源を落とし、小走りに改札を抜けた。


「風間さん、こっち」
 呼びかけた渚に走り寄り、駅から見えていた海の方角へ二人で歩いた。
 もう日は傾いていて赤い夕暮れになりそうな気配の中、ほとんど人のいない砂浜に着くと、ひたすら鈴なりのように続く波の音が聞こえてくる。
 ──こんなところに来て、渚は何をしようというんだろう?
「うわあ」
 風間がいぶかしんだ矢先、渚は靴を脱ぎ捨てて、海岸を裸足で走り出した。風間が言葉を失うのをよそに、渚はジーンズの裾が濡れるのもかまわず、波の浅いところを戯れる。
「まさか、ほんとうに海に触れたかっただけ?」
「そう言ったでしょう?」
 答える渚は、家の中に閉じこもっていた時には決して見ることのない、生き生きとした姿をしていた。マッシュショートの髪が風にたなびいている。飛沫とともに踊るように体を回転させるさまは、眩しくて、美しい。風間は目をそらしたくなった。
 本当なら、海も波も、十三年前の渚に見せてやるべきだった。奪った時間の重さを思い知らされる。
 風間はやりきれなくなり、スマートフォンをポケットから取り出すと、思い切り振りかぶって海に投げ捨てた。
 遠くで名を呼ぶ声がする。波打ち際に顔を向けると、渚はずいぶん遠くまで行ってしまったようだ。風間は後を追いかけた。
 束の間、これが逃避行だということを、忘れそうになる。
「裸足で走ると危ない」
 風間が叫びながら相手の背中に追いつきそうになった矢先、渚はカクンと膝を折ってしゃがみこんだ。
「いたっ」
 風間が背後から回り込むと、渚は左足の親指を押さえていた。
「見せて」
 足を見ると、親指の腹がぱっくりと裂けていた。砂浜に捨てられていたガラスの破片か、貝殻で皮膚を切ってしまったかもしれない。厄介にも出血量が多いようで、傷口から流れた血が波にさらわれて、流れていく。
「動かないで。何か止血できるものは……」
 風間が応急処置をするのをよそに、渚は押さえていた手を開き、指に赤くどろりとしたものがついているのを見た。
「血……」
 声にならない声で、つぶやく。
 びくんと華奢な体が震えた。
「渚っ」
 背を支えきれず仰向けに倒れそうになった渚の身体を、とっさに風間が抱きとめる。
 渚は腕を抱いて震え上がり、荒い息の合間に苦しげな声を漏らした。
 ──発作だ。
「渚、渚!」
 渚の震えはいつも以上に激しかった。呼吸は荒さを通り越して、声が裏返り、引きつった。
「あ、あ、やだ……っ」
「渚、しっかりしろ」
「風間さんっ、お父さんが……かざまさ……助け……っ!」
「思い出すな!」
 風間は、渚の暴れる鼓動を抱き込みながら、耳元で何度も言い聞かせた。
「思い出すな。思い出さなくていい」
「血が」
「渚……!」
 腕の中で一層大きく渚が体をわななかせたと思うと、呼吸を引きつらせた音とともに、びくりと固まって動きを止めた。見開かれた目を覗き込むと、瞳孔が小刻みに揺れている。
 風間は息を止めた。
 救急車を呼ばなければならないのに、抱き込んだ渚の体の変化に対する恐怖が勝って、動けなかった。
 瞳の揺れが止まったかと思うと、まぶたが落ちて、渚の全身からくったりと力が抜けた。倒れそうな華奢な体重を、風間は強く抱え直す。汗で髪の貼りついた彼の額に、風間の頬が触れた。
「な、ぎさ……?」
 やっとの思いで名を呼び、身体をゆっくりと離した。
 渚は青白い顔のまま、意識を失って単調な呼吸を繰り返していた。
 いつもと明らかに違う激しいパニックに、風間の寄る辺ない思考がぐるぐると回る。
 さっきのはなんだったのか。悪夢を見ていたのか。筒木の事件に関わったせいで、ブラックボックス化したトラウマが悪化したのか。
 ──もしかして、思い出した?
 沈もうとしている日が眩しくて、浜辺に二人、気を失った渚とともにじっとうずくまっている自分の存在を風間は自覚する。波の音が戻ってくる。
 渚を抱えて立ち上がり、浜から道路に続く石段に戻った。ボストンバッグを枕にして渚をそっと寝かせた。顔を覗き込み、汗で張り付いた前髪を指でよける。
 そうして渚の目が覚めるのを待つと、果たして、震えるまぶたが薄く開いた。
「渚」
「あ……ぼ、く……」
「思い出したんだね、あの日のこと」
 なぜだか風間は根拠もなく、きっとそうだと確信した。
 風間の確信を裏付けるかように、渚の目から大粒の涙が流れた。
「僕、筒木に人質にされたんじゃなかった……あの時見たのは……父が……お父さんが……」
「ああ……!」
「あの日、筒木を殺したのは……お、お父さん……?」
 すべての終わりを告げる音が──渚が真実を知った音が、風間の耳に響いた。
「風間さんは、ずっと、十三年も、か、隠してたの……?」
 渚の震える指が、風間の頬へ触れようとする。
「か、かざまさ……」
「すまない」
 風間は立ち上がり、浜辺から海に向かって一直線に歩いた。足元が濡れ、太ももを波が打ち付けた。さらに深いところへ海をかき分けていく。
「風間さんッ」
 水面が胸元にまで達したとき、何をしようとしたのか察して追いかけてきた渚の声が、強く背中に叩きつけられた。
「来るな!」
 最も恐れていたことが起こった。
 いつもそうだ。何事も起こらないように風間は八方手を尽くすのに、けっきょく最後には、大切な人の命や心が風間の指の先から滑り落ちていく。
 真実を知った渚は、きっと、今は動転しているだろう。そうして暴れる心が鎮まった時、渚は風間を決して赦さないだろう。のしかかってくる現実に、また錯乱してしまうだろう。
 そうなればもう、風間の生きていく意味がなくなる。
 渚は、逃げようとする風間の背中に飛びついて腕を回し、押さえつけようとした。
「だめ!」
 風間は腕を振って渚を体から引き剥がした。だがもう一度沖へ進もうと振り返る前に、今度は渚に正面から抱きつかれた。飛沫が上がる。頬を両手で思い切り掴まれる。
「こっち見て」
「やめろ……、見ないで……見るなッ!」
「風間さんッ」
 このまま沖へ進めば渚もろとも溺れると恐れた風間は、抵抗すらできず、ただ、顔をそらそうとした。
「ちゃんと僕はここにいるよ」
 風間の体がびくりと震える。
「ぜんぶ思い出しても、私の心は、あの日みたいには壊れなかった。ちゃんと私は、ここにいる」
 風間の頬を渚の指が撫でる。自分の頬が涙に濡れていることに、風間は初めて気づいた。
「救いたいんです」
 まっすぐで透明な視線が、風間を絡め取る。
「教えてください。十三年前に何があったのか」
「で、できない」
「筒木肇を殺したのは、父なんでしょう?」
「違うッ! 先生は誰も殺してないッ!」
 呼吸を荒げながら、風間は固く目を閉じた。
「ぼくが殺した」
 両手で目元を強く押さえ、呻く。
「筒木も、古代先生も、ぼくが殺したも同然なんだ……!」
 風間は、今この時ほど、十三年前に戻りたいと思った瞬間はなかった。

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