『プラトニックは削れない』第十三話

 次に目を覚ました時、風間の視界には見慣れた天井が見えた。古代邸にある自室の天井だ。
 自分の身に何が起こったのか、風間はぼんやりとした思考で思い出そうとする。
 ──たしか東部大学の駐車場で倒れて……なぜ倒れたのだったか。そうだ、筒木肇が……!
「大丈夫?」
 幼い声が風間の恐怖を強制遮断した。視界いっぱいに子供の顔が入り込んでくる。
「……渚?」
 渚は風間の声には答えず、小さな手のひらを風間の額に当てた。
「熱はないね。気分悪い? 頭痛い?」
「ううん、だいじょうぶ」
「よかった。お母さんみたいになっちゃったらどうしようって思ったよ」
 渚が微笑むと、口の両側にえくぼができた。父親と同じ形をしていた。その笑顔を見ていると、風間の乱れていた脈が落ち着いてくる。
「こういう時はね、まずは状況を説明しろってお父さんが言ってた。風間さん、東部大学の駐車場で倒れたんだって。でも倒れる時に頭を打ったりはしなかったよ。貧血じゃないかってお医者さんは言ってた」
「……そう」
 状況を思い出して、風間は再びどん底に叩き落とされた。
 筒木に、古代善を助けたければ頭部を差し出せと言われたのだった。
 そうしてふらふらのまま車に戻ろうとしたら、体がぐらりと傾いて、善が抱きとめてくれた。あの一瞬の感触だけは、夢みたいだった。
「渚が、ぼくのことをずっと見守ってくれていたの?」
「うん。風間さんの顔、見飽きないんだもん」
「ありがとう」
「お父さんを呼んでくるね」
 部屋を出ようとする渚の手を、風間が掴んで止めた。
「こんな姿、先生には見せられない」
「え。でも」
「だめなんだ。ぼくが見せたくない」
 風間は渚の手を掴んでいないほうの腕で、目元を隠した。
「感情も体調もコントロールできないなんて、助手失格だよ。そうしたらぼくの存在意義は……」
 六歳の子供を相手に、いったい何を吐露しているのだろう。
 ──どうしよう。筒木と交わした会話を先生に言うべきだろうか。それとも墓まで……。
 ぎゅっと、手に温かな感触を感じた。渚が両手で風間の手を握り返したのだった。
「震えてる」
 またあの目が、善と同じ本質を見抜く渚の千里眼が、風間をまっすぐに見つめてきた。
 だが風間は不思議と、目をそらそうとは思わなかった。
「何か怖い思いをしたの?」
「大丈夫だよ」
 渚はつぶらな瞳を細めて、風間の心の奥をさらに覗き込もうとする。
「ほんと?」
「ほんと。体調が悪いだけだったんだ。寝たからもう大丈夫だよ」
 渚の両手を強く握り返し、風間はベッドから起き上がった。
 ──気をしっかり持たなければ。
 この恋が二度と昇華されないのであれば、善の足を引っ張らぬよう古代邸を去るのが彼のためだ。現に風間の余剰な心を筒木に利用されようとしているのだから。
 だが探偵助手としては、事件が中途半端なまま捜査を降りることは、決して許されない。
 猟奇殺人鬼は野に放たれたままなのだ。


 事件の捜査拠点として使っている執務室へ向かうと、善はスマートフォンでどこかに電話をかけていた。
「……そうですか。残念です」
 また何かあればご連絡します、と低く厳しい声で端末にそう吹きこむと、通話を終えた善が風間を見た。
「もっと寝ていてもよかったのに。きみには知らず負担をかけすぎたようだ。悪かったね」
「断じてそのようなことはありません」
 硬い口調になった風間に対し、善は目を細めた。
「何かわたしに言いたいことでもあるのか?」
 風間は沈黙を返した。
 筒木に本心を見られた。あなたが好きだと見抜かれた。だから今すぐにでもあなたの身を守るために、ぼくがこの辛さから逃れるために、助手を辞めたい──そう言いたくなるのを堪える。
 善は風間の意思を尊重するだろう。事件を終えればすぐに辞めさせてくれる。だがそれは同時に、風間の息の根を止めるのと同義だ。
 だからこそ、今は何も言えない。
「先ほどのお電話は、警察ですか?」
 風間はあえて話題を変えた。善も目尻から力を抜く。
「ああ。例の建設中だという法人類学研究所を家宅捜索できないかと相談していた。だが裁判所は令状を出せないだろうとのことだ」
 なぜ自宅や勤務先を差し置いて法人類学研究所を調べるように進言したのか、風間がその意図を問う前に、善はテーブルの上に置かれていた用紙を手に取った。A2サイズで、施設の設計図のようだ。
「どうやらわたしは罠にはめられたらしい。筒木にとってはわたしが事件の共通点を見出して直接会いに来ることすら想定内だったわけだ」
 食肉植物、という単語が再び風間の脳内を支配した。
「封悟、筒木肇がきみの立てた仮説通りの犯人像であるとするならば、奪い去った頭部をどうすると思う?」
「捨てることはぜったいにしないでしょう。彼は白骨を愛でるために集めているはずですから」
 『骨になった男は何も語らず、私の愛の囁きに対して雄弁に真実のみを告げる』。
 筒木はそう言っていた。
「であれば、保管場所の候補はそう多くないはずだ。一人暮らしならいざ知らず、家庭を持った人間に五つの頭蓋骨を保管するのはなかなか至難の技だと思うがね」
「はい。ぼくもそう思います。家族のいる自宅は論外でしょう。大学の研究室にしても、検体などは厳重に管理しており、人の出入りも激しいと思いますから」
 善はテーブルの上に置いてあるラップトップを手に取り、マウスパッドを二、三タップした。
「人を殺し、あまつさえ頭部を切断するという重労働を五度も繰り返していながら、目立った目撃情報も異様な音を聞いたという証言もほとんどない。よほど慎重にことを運んだにせよ、骨について専門的な知識がないことには死体の首から上を切り離すなどという行為は不可能だろう」
「そうか。だから法人類学研究所が……!」
「ご名答。木を隠すなら森へ、だ」
 筒木は殺した遺体を、建設中の法人類学研究所へ持ち込み、そこで頭部を切断したのち、頭蓋だけを研究所に保管しているのだ。
 善は設計図を風間に見せた。
「それが、建設中の研究所の設計図らしい。問い合わせたら、ご丁寧に筒木の許可付きで送ってくれたよ。誘ってるな、これは」
「まさかここに、被害者の頭蓋骨が……? だから先生は、研究所の見学について尋ねて──」
 風間は息を飲んだ。
 今になって、善があの応接室でどれほど恐ろしいことを口走ったかに気づく。
「まさか先生……」
「ああ」善が指で唇を撫でた。「殺人犯の誘いに応じようじゃないか。見学と称して法人類学研究所へ行き、筒木に見つからないよう頭蓋骨を探す。我々の手で」
 風間はめまいで再び倒れかけた。
「先生……!」
「我々に必要なのは物的証拠だ。揺るぎのない証拠。だがそれを筒木が一つでも残しているとは思えない。あるとすれば、頭蓋骨だけだ。それさえ見つけられれば、あの猟奇殺人鬼を牢につないでおける」
「これは罠です。あなたは筒木の次の標的なのですよ! 研究所へ行けば確実に殺されます。証拠が確実に研究所であるかどうかも定かではないのに……」
「先ほど、頭部の保管場所は法人類学研究所しかないと議論し尽くしたはずだが?」
 たしかに、筒木としてもこれは『勝負』のつもりなのだろう。犠牲者の頭蓋骨という証拠を餌にして古代善をおびき寄せるのなら、餌が確実に罠の中になければ意味がない。家にも研究室にも置いておけないのであれば、やはり法人類学研究所に隠すしかないのだ。
「であれば……せめて筒木のいない時に忍び込むべきです」
「そうなるとこちらが不法侵入者になる」
 善は立ち上がって風間の腕に触れた。
「殺人だよ、封悟。これは殺人だ。あの手の輩は時間が経てば経つほど唾棄すべき行為をエスカレートさせていくんだ」
「……」
「警察は組織だ、令状がないと動けない。だが我々が行くことで犯罪の連鎖を防げるのなら、行くしかない。それが探偵というものだ」
 善が呆然としている風間を見据え、腕に触れていた手を今度は強く掴む。
「封悟、きみなら……わたしの行いを理解してくれると信じている」
 探偵として、罠だとわかっていても行く。善はそこに風間の共感を求めていなくても、探偵助手として理解だけを求めている。
「どうした、封悟。いつもなら側について守ると言ってくれるのに。なぜそんなに震えている?」
 風間はそう指摘されて初めて、自分がまた体を震わせていることに気づいた。筒木を本能的に恐れている自分がいる。おそらく、筒木にとっては善を犠牲にすることですら、風間を弄ぶ手段でしかないのだろう。
 ──そうだ。標的は先生からぼくになった。
 先回りして善を完璧に守るためには、風間が自ら頭部を差し出すしか道はない。
 その予感に風間は震えているのだと自覚した。
「ならばせめて、僕だけで行かせてください……!」
 そう口にせずにはいられなかった。
「やはり先生を危険な目には遭わせられません」
「一人より二人のほうがまだ勝算があるだろう」
「違います……そうではなくて……」
 自分一人が犠牲になれば、確実に善を生かすことができるのに。
「お願いです、先生……!」
 風間が善の両腕にすがる。
 同時に、応接室の扉がギイと開く音がした。
「お父さん」渚だった。「ごめんね、お話中に」
 二人は一瞬にして険しい顔をほどいた。
「もちろんかまわないよ。用件は?」
「ぼくの歯ブラシどこだっけ」
「お手伝いさんはどうした?」
「時間だからもう帰っちゃったよ」
「ああ、そうだった」
 善は風間に視線を送った。
「すぐ戻る」
 善が渚を伴って消えたと同時に、風間はスマホを取り出して応接室から出た。東部大学に訪問した際もらった筒木の名刺を取り出し、番号に連絡した。
『もしもし』
 ワンコールもしないうちに筒木の声がした。
「あなたの言う通りにします」
『……私は特に何も言っていないが』
 含み笑いとともにそう言われた。完全に、手のひらの上で踊らされている。
 それでも風間は構わなかった。スマートフォンを強く握りしめる。
「ぼくで最後にしてください。これ以上誰も殺さないでください。ぼくの大切な人をかき乱さないで……!」
 相手は何も答えない。
 もうすべてを終わりにしたい。
「あなたに捧げます、この頭部を……!」

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