『プラトニックは削れない』第六話
その日のうちに医者に診てもらったところ、渚の免疫力は、十三年もの消極的幽閉生活のせいで全体的に下がっているのだという。当日こそ適切な治療をして帰っていった医者は、経過観察のために数日後ふたたび古代邸を訪れたとき初めて、職業的義務からなる怒りを風間にぶちまけた。
ほんの少し外へ散歩して戻ってくるならいざ知らず、車で台東区谷中から八王子まで(つまり東京の東から西まで)を車で移動し、直射日光を浴びながら様々な人のいるところで長い間過ごしていたとなると、体調を崩さないほうがおかしい。ちょっとずつ慣れさせないでどうするのだ。リハビリというものを知っているか。室内でも鍛えさせようと思えばできるものを。人が行き来するところは特に菌も多いのだ。……云々。
くどくどと、むしろ医者こそが渚の親ではないかというほどの説教を受けて、風間はやっと解放された。
風間は医者を見送ったあと、しばらく戸口で棒立ちになり動けなかった。
渚が体調を崩すたびに、自分が渚を閉じ込めている事実をひしひしと実感した。もうすぐ十九歳になろうという才気あふれる探偵の可能性を、あらゆる意味で封じ込めている己の所業に、罪の意識はありすぎるほどある。
それでも、風間には現状をどうすればよいのかわからなかった。
熱がひどい日の夜は、渚は決まって十三年前の日を悪夢に見て、うなされた。その度に風間は彼の手を握ってやることしかできない。そうして汗だくのまま目を覚ますたびに、当時の記憶を鮮明に思い出すことができないことに、渚は苦しむのだ。
風間は何もできない。否。何もしてやれない。
十三年ぶりに出た白骨遺体の事件が解かれたとき、自分も渚もどうなってしまうのか想像がつかなかった。
渚の思い出せない記憶を掘り起こし精神を崩壊させてしまうことが、風間にとっていちばんの恐怖だ。
この両手から最後の大切なものが滑り落ちて、すべてを失ったとき、風間は自分が自分を保てる勇気がない。
──この事件、やはり渚には降りてもらうしかないのか。
深くため息をつきながら、風間は渚の寝室へ向かった。ノックをすると返事があったので扉を開けると、渚はベッドに仰向けになりながらスマートフォンをいじっていた。
「うーん。イブキくん、まだ見つかりませんね……」
風間は渚の様子に拍子抜けして、というか呆れ返って、ぐるりと首を回した。
「何をやっているんだ。安静にしてないとダメじゃないか」
「『安静』とは体を動かさずに静かにしていることですよ。私はこうしてベッドで安静にして、シルフィからいなくなったイブキくんを心配して、目撃情報をエゴサしているだけです」
「スマホをいじると脳が安静じゃない」
「でも熱も下がりましたし」
渚はスマホの画面を風間に突きつけた。
「それに、見てください。SNSで『熱を出した』とつぶやいたら、こんなに心配してくれる人がいるんですから」
風間は端末を手に取った。
『38.5度の発熱。初仕事を張り切りすぎました……』
SNSの渚のつぶやきに対し、大量のリプライが来ていた。大抵は『無理は禁物ですぞー』やら『お大事に』など、当たり障りのない会話ではある。
渚がネット上でつながっている知り合いについては、風間もある程度知っていた。なかには『○○たんペロペロ』や『○○しか勝たん』や『○○、そういうとこやぞ……』とアニメに対しての偏愛じみたつぶやきをする方々も多く、風間は渚にSNSを控えるよう言うべきか大いに迷ったことがある。彼らが渚を女性と勘違いしている節すら見受けられるからだ。
しかし、やんわりとした忠告のたび渚には、
「風間さんは電子機器やネットには疎いんですから! 私が大丈夫だと言ったら大丈夫なんですから!」
と反論されて、何も言えなくなる。
とにかく、まあ、渚が大丈夫だと自負しているし、病気を心配してくれるだけ善良な方々なのだろう。
「でも四六時中スマホを触っているなんて、もう中毒手前になっていないか? きみの頭脳に傷がつくようなことは、できればやめてほしいんだよ」
「スマホを取り上げるのはつまり、私からお友達を奪うってことですよ。そんな残酷なことが風間さんにできるんですかっ」
「わかった、わかったよ。適度に休んでくれるなら、それで」
風間は降参して両手を挙げ、ついでに部屋を整理することにした。窓にほんの少し隙間のあったカーテンをぴっちりと閉め、渚が飲んだ頓服薬の袋と飲みさしのコップを下げ、洗濯に出す彼の服を拾い集めた。
当の本人はスマホに釘付けになりながら、声だけで風間に問いかける。
「あれから事件について、何か進展はありましたか?」
「まだないが、もうそろそろ解剖の結果が上がってくるはずだよ」
「解剖は……幸崎さんがするんでしたね、たしか」
「白骨遺体だからね、適任だろう」
風間が元倉から聞いた話だと、幸崎総一郎は、警察が解剖の嘱託をしているS大の法医学教室にいるのだそうだ。
「解剖結果が上がってきたら、資料を転送してもらうよう警察には頼んでいる」
「それにしても、幸崎先生はなぜ母方の姓を名乗っているんでしょうね?」
「ああ。……え?」
あまりにも自然な流れで渚が言ったので、そこにとんでもない爆弾発言が仕込まれていたことに、風間は一瞬気づけなかった。
「母方? なぜ幸崎が母方の姓を名乗っているとわかる?」
「私だってこの間、何もしていなかったわけではないんですよ。父親が法人類学者だと、幸崎先生がおっしゃっていたでしょう?」
渚はスマホの画面から顔を上げた。
「2023年現在、日本国内に人類学者はそう多くありません。ネットで調べたり、研究所や大学へ問い合わせたりしましたけど、『幸崎』の苗字で始まる人類学者、並びに法人類学者は存在しないようなのです」
「幸崎がぼくたちに『父親が法人類学者である』と嘘をついていた、ということ?」
「しかし、出会って数分もしない私や風間さんに嘘をつく理由もありませんよ。彼が婿入りをしていないのであれば、少なくとも幸崎さんの苗字は父方ではないことになります」
「だからあの時、幸崎先生が独身かどうかを聞きたがったのか」
「風間さんに止められましたけど」
渚が言葉で風間をちくりと刺した。
風間は、幸崎総一郎と出会った当初感じた記憶の明滅を、再び感じた。ただ記憶が掘り起こされようとしているのではなく、そこには警告にも似た強い拒否反応が伴っている。
これ以上、思い出すべきではない。
「じゃあ……あの幸崎という法医学医が父親の姓を名乗っていない理由はなんだろう?」
「さあ。そこまでは。プライベートかつデリケートな話題かもしれませんし」
父親の性を名乗らない理由など、風間には数える程度にしか思い浮かばなかった。親が再婚したか、養子縁組か、あるいは──。
風間の思考に被さるように、古代邸のインターホンが鳴った。
「解剖結果が来たんでしょうか?」
「いや、メールのはずだが……見てくるよ」
好奇心に目を丸くした渚を部屋に置き、風間は玄関へ直行した。
扉を開けると、果たしてそこには元倉と安田ではなく、幸崎総一郎が立っていた。
風間は挨拶もすっぽ抜けて、目の前の男に仰天する。
「幸崎、先生……?」
「こんにちは」
こうして真正面から幸崎と対峙していると、相手の背の高さが際立つ。おそらく百八十後半はあろうか。
「あはは。驚かれましたか。いち早く解剖結果をお届けしたくてですね、警察に送るついでにあなたがたの家にも資料を届けてしまおうかと。とはいえメールアドレスは存じ上げないので」
幸崎の早口の通り、彼の左手には資料の挟まれたバインダーがある。
警戒心が頭をもたげた。間違ってもこの男を渚に引き合わせてはいけないと思い、風間は屋敷の扉を閉めた。
「あはは。もしかして警戒されてます?」
「なぜ、我々の家の所在地がわかったのです」
「谷中銀座、いいところですよね。さっき通ってきましたけど」
「質問に答えてくれませんか」
「あはは。あなた、意外と鈍いんですね。……探偵助手が聞いて呆れる」
先ほどまでは陽気で、むしろ滑稽ですらあった幸崎の声が、一気に氷点下まで落ち込んだ。
「あはは。失礼、すみませんね。ここの住所は警察の方に問い合わせて教えてもらいました」
──警察め!
風間は内心の悪態とともに一歩後じさったが、その距離の取りかたを許すまいと、幸崎が同じ歩幅分を詰め寄る。
「風間さん、僕はずっとね、あなたの名前は知っていましたよ」
「どういうことです?」
「正確には、十三年前。『頭部のない死体』事件であなたのことを知りました」
風間の脳内で、記憶が再び明滅した。場面が写し取られた写真のように、一秒ごとに過去の記憶を風間へ見せていく。
「僕は当時、医学部の四年生でした」
総一郎。幸崎総一郎。
急に、先ほど渚が言った言葉が風間の脳内で再生された。
──幸崎先生はなぜ母方の姓を名乗っているんでしょう?
「あ……」
「あはは、やっと気づきました?」
十三年前、『頭部のない死体』事件の資料に初めて触れた十三年前のことが、風間の脳内に映し出された。
「幸崎総一郎……あなたの父親の名前は……」
「そう」幸崎が目を細めた。「筒木肇は僕の父です」
風間は息を飲んだ。
そうだ。彼は肇の息子、筒木総一郎だ。
なぜ今まで気づかなかったのだ。
筒木肇を追い詰めるため、家族や交友関係の資料には目を通していたはずなのに。いや、筒木の妻の旧姓までは確認していなかったかもしれない。だが、筒木の息子の名前が『総一郎』だという事実には、一度以上目を留めていたはずだった──。
背中に扉の感触がした。風間はいつの間にか距離を詰められていて、幸崎が資料を持っていないほうの手で、扉にバンと手を突いた。
「僕は父の行方を十三年も探していましたよ、風間さん。あなたと古代善が取り逃がした父をね」
「た、たしかにそうだ。だけど取り逃がしたことで古代先生が恨まれるいわれはない。猟奇殺人鬼で、法を犯しておきながら、後ろめたくも逃げた。卑怯なのはあなたの父だ……!」
「あはは、なぜいきなり弁明じみたことを言い始めるんです? まるで僕が脅してるみたいじゃないですか」
喉が干上がって、何か言わなければならないと、風間の頭が勝手に回転する。
この男は何を考えているんだ? 自分の父親を犯人だと暴き立てた探偵への逆恨みか? それとも、家庭を崩壊させた父親を裁きの俎上に上げず逃したことに対する恨みか? それとも──。
「筒木の犯行が、あなたがた家族を崩壊させたかもしれない、だが……」
「何か勘違いをしているようですね」
幸崎がどこまでも鋭い、爬虫類の目で風間をにらみつける。
「猟奇殺人鬼。たしかにそうだ。母はそれで僕の苗字を変えてしまいましたが、僕は今でも父を尊敬していますよ。大尊敬だ。彼がまだ僕ら家族の元にいれば、僕は父の弟子になって法人類学者になっていた。僕は父の系譜を継いでいました」
幸崎は、解剖結果資料を風間の胸に叩きつけた。
風間は震える手で解剖結果報告書のバインダーを受け取り、開いた。身元の名前が書かれた解剖検査死体欄を確認する。
解剖(検査)死体
名前:筒木肇(男性)
ひゅっ、と喉元で音がした。
自分が呼吸を飲み込んだ音だと気づくのに、風間は何秒も時間を要した。それくらい、何も考えられなかった。
数日前、八王子で見たあの白骨死体が、筒木肇だったというのか……?
ありえない。
風間の脳内をその五文字が支配する。
その考えを読んだ上であざ笑うかのような幸崎の笑い声が、やけに風間の耳をついた。
「僕はこの結果を恨みますよ。こんな結果になった原因を探し出して、父をこんな目に遭わせた人間をどこまでも追い詰めて、追い詰めて、殺します。僕は父の予備だ」
「何を……!」
──まさか、こいつは筒木肇の代わりにでもなるつもりか?
「正気か……?」
「正気も正気。父は目的の人間を殺し損ねた……ええ。しかし僕という予備を遺していきました。やはりね、どんなものも二つ持つのがいいんです。そういうわけで早速ですが、父が成し遂げられなかったすべてを成し遂げる。僕の使命は二つです。父を殺した人間をまず殺す。そして父が殺したい人間を殺す」
「今の言葉、警察にそのまま言いますよ」
「言ってみてくださいよ。戯言だと流されるだけだ」
幸崎は笑顔のまま、だが態度は苛立ち交じりに、革靴の底を執拗に叩いた。
「ねえ風間さん……たしか父が最後に殺そうとしていたのは……古代善ですよね。しかしね、父だったら、先にその子供を殺すと思うんですよね、相手を弄ぶために。となると、父はまず古代渚に目をつけたと思います。彼を殺すのは本意じゃないんですがねえ。あの子の骨は、蘭の茎のように手折れそうだから……」
風間は殺気立った。
「渚に手を出すなら、その前にここであなたを殺す!」
「おお怖い。それで、古代善を殺すために古代邸に侵入した父は……古代善に返り討ちにされたんですかね。あ、もしかして二人で殺しました? そして遺体を八王子の山中に埋めた……」
「違う」
風間が目をそらした瞬間、幸崎に顎をガッと掴まれ、そのまま後頭部を扉に打ち付けられた。
「違うと言うのなら僕の目を見ろよ、え。……失礼。では父は誰に殺されたんです?」
「知らない」
「あはは、まあ、たとえ自分が殺しても『はい』とは答えませんよね。僕が父の予備だと言ったからには」
風間は腰に隠していた携帯用の特殊警棒へ後ろ手を伸ばす。
「手を離してください。警察を呼びますよ」
幸崎はしばらく風間を睨みつけ、だが最後には視線を外し、顎から手を離した。
「あはは。そういうわけですから、また来ますよ風間さん」
そう言って、幸崎は今までのやりとりがまるでなかったかのように、古代邸の門に向かって背を向けた。
「でもね……警察を呼んで困るのは僕とあなた、どっちだと思います?」
そう言い残し、殺人鬼の息子は風間の前から消えた。
風間は茫然自失としたまま、手に持っていた資料を取り落とし、両手で前髪を思い切り掴んだ。
筒木肇失踪の直前、現場にいたのは風間封悟と、古代善と、古代渚だけだ。
善は自殺している。渚は当時六歳で、記憶はほとんど曖昧になりトラウマという形でブラックボックス化されている。
だとすると、白骨遺体として発見された筒木肇について事情聴取を真っ先にされるとしたら──筆頭容疑者になるとしたら、間違いなく風間だった。
時限爆弾は、正しく爆発した。風間の心を木っ端微塵にしてみせた。
「ぐっ……うぅっ……」
風間は閉め切った扉にずるずるとへたりこみ、呪詛の呻きを漏らした。
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