『プラトニックは削れない』第七話

2023年6月 3

 幸崎総一郎が古代邸から去ってから、どれくらいの時間が経っただろう。風間は打ちひしがれていた姿勢から顔を上げた。体感時間としては永遠にも思えたが、腕時計を確認すると実際はほんの数分しか経っていなかった。風間はバインダーを強く握りしめた。
 ──あの白骨遺体は筒木肇だった……?
 十三年前。筒木が行方不明になる直前に接触していたのが自分と古代善、そして六歳の渚であることは、すでに警察には知られている。であれば警察は、今すぐにでも古代邸にいる風間を訪ねるだろう。事情聴取という名目で探りを入れるのだろうが、実際は任意同行と同じだ。
 今すぐ逃げなければ。
 風間は鑑定報告書を片手に持って立ち上がり、古代邸の中に飛び込んだ。
 粗末な自室に入り、ボストンバッグを取り出した。服と他には何が必要だろうか。身分証明証。免許証。パスポート。
 そもそも逃げた後どうする? どこへ行く? 海外? この古代邸以外に、自分の居場所など最初からどこにもなかったではないか──。
 必要最低限の荷物を持ってガレージのある裏手に回り、シャッターを開けた。警察に見つかるまでは車を使って距離を稼ぎ、どこかで乗り捨てようと思った。
「風間さん」
 一点、凛とした声が、風間のぐるぐるとした思考をかき消した。
 弾かれたように背後を振り返ると、渚が立っている。ガレージの縁を手で押さえて支えにしつつ、もう一方の手は胸の前でぎゅっと握りしめていた。
「何を、しているんですか?」
「渚」
 ──そうだ。渚を一人になどしておけない。
 風間は渚に飛びついて両肩を持った。
「すまない。すぐに出なくてはいけないんだ。ぼくがいなくなったら叔父さんを頼れ」
「待って、どういうことですか?」
 二人の会話を遮るインターホンが鳴った。風間は絶望の予感に身を固くする。
 きっと元倉と安田がやってきたのだ。
 渚がガレージのインターホン画面を覗き込み、風間と交互に見比べた。状況を察したのか、即座に風間へ飛びついて両腕を掴む。
「ねえ、風間さん。寝室の窓の下で待っていてくれませんか?」
「え、何を……」
「警察に鉢合わせたくない事情があるんでしょう。ガレージ裏から家の外を回れば、入り口にいる彼らとはすれ違わずに済みます」
「だめだ! 渚を巻き込むことになる。このまま行かせてくれ。何も知らないまま……!」
 二人の押し問答に割って入るかのように、インターホンが再び鳴った。一度は振り払おうとした渚の手が、さらに強く風間を揺さぶる。
「何も言わずに消えるなんてしないでください」
「でも」
「父も、何も言わずに自ら命を絶ちました」
 渚が静かに、苦しげに声を絞り出した。
「おねがい……ひとりにしないで」
 風間は何も言えぬまま、渚の懇願の瞳に対して、うなずくしかなかった。
 すぐさまガレージの出庫口から飛び出した。古代邸の入り口が南側だとすると、ガレージの出庫口は北にあたる。古代邸を囲う柵に沿いながら道を折れ、東側の二階に位置する渚の寝室の下に着く。寝室の窓は一つしかないので、間違えることはないはずだ。
 それからが長かった。
 渚が刑事たちとどんな会話をしているのか知るよしもないが、風間は状況が動くのをジリジリと待ち続けるしかなかった。その間にも別の警官が自分に飛びかかってくるのではと気が気ではない。
 そうしてやっと寝室の窓が開け放たれたのは、渚とガレージで別れてから二十分ほどが過ぎた頃だった。
 窓枠から顔を出した渚は、部屋着から外に出られる格好に着替えを済ませていた。ロングTシャツを着ており、長すぎる丈のせいで手のひらが隠れてしまっていた。身を乗り出した時にかすかに見えた腰元はスキニージーンズを履いている。
 渚は手を振って合図を出し、その後窓から消えたかと思うと、ボストンバッグを持って再び現れた。風間は意を察して荷物をキャッチする姿勢をとる。
 高さだけ見れば荷物を落とすだけでいい位置関係にあるが、渚と風間の間は、泥棒避けの柵に隔てられている。ある程度ボストンバッグを投げるようにして落とさないと、柵に引っかかってしまう恐れがあった。
 渚は腕にありたけの力を込める動作で、バッグを投げ渡した。風間は数歩位置を修正して、無事にバッグをキャッチする。かなり重かった。いったい何が入っているのかと確認しようと地面にバッグをおいた矢先、寝室の窓に映った光景に、風間は瞠目した。
 渚が窓から飛び降りようとしている。
「うそだろ……!」
 全身の血の気が一気に失せた。もしも飛び降りるのに失敗したら、串刺しになってしまう。
 サッシに足をかけて身を乗り出し、這うようにしてレンガ壁に足の裏をつけた渚は、窓枠を両手で掴んだまま腕を伸ばした。
 渚はどこまでも冷静で、自分が長くぶら下がっていくと柵を飛び越えるほどの筋力が失われてしまうとわかっているようだった。風間を見下ろした時に見せた顔は、飛び降りるための覚悟の表情をしていた。
「待て……ッ」
 渚が思いきり壁を蹴った。風間はもう一度、震える腕を伸ばす。柵ギリギリの場所に立ち位置を修正した直後、ぼふんと感触がした。
 風間は息を荒げながらも、渚を完璧に受け止めた。恐る恐る目を開いた渚がその事実を受け入れると、恐怖と安堵に震える腕で、風間の首元にしがみついた。
「ナイスキャッチ」
 渚を地面に下ろす頃には、風間は叱る気力すら失せていた。
「とりあえず駅に向かいますね。ほら風間さんしっかりして」
 短時間に消耗しきった風間とは真逆に、渚は興奮冷めやらぬ様子でボストンバッグを拾い上げた。それを風間の肩にかけさせたかと思うと、反対側の手の甲を強く握る。
「行きましょう」
 風間は渚に引っ張られるようにして、古代邸から駅へと走り出した。



 風間が渚とともに逃げる二十分前──。
 元倉と安田は古代邸の入り口に立ち、安田がインターホンを押したところだった。
「出ませんね」
「逃げたかな。もう一度押してみろ。それで出なきゃ次の手だ」
 安田は言われた通りにもう一度インターホンを押した。しばらくするとばたばたとした足音が響いて、開けられた扉の向こうから、部屋着姿の古代渚が現れた。
 これには刑事二人は当然、目を丸くした。元倉がいち早く落ち着きを取り戻し、渚の姿を上下確認する。
「古代さんが直接お出迎えとは珍しい」
「すみません、実は寝ている間に風間さんがどこかへ出かけてしまったみたいなんです。それでインターホンに出られなくて……お出迎えが遅くなってすみません」
「出かけた?」
 元倉は、安田と顔を見合わせた。しかし何も知らないような表情をしている渚はきょとんとして、扉を全開にする。
「どうかしましたか?」
「あんた、もしかして遺体の鑑定報告書をまだ見てないのか」
「はい。まだ手元に届いていないので」
 間違いない。風間は幸崎総一郎の遺体解剖結果を見て、そのまま逃げ出したのだ。渚はあの白骨遺体が父の仇敵・筒木肇であることもまだ知らないらしい。
「ちょっと、中で話させてくれ」
 三名は応接室へ移動し、元倉が遺体解剖の結果報告書を見せた。
 渚は垂れてくる前髪をかき上げながら解剖結果を隅から隅まで確認し、ゆっくりと顔を上げる。
「頭部は舌骨下、第三頚椎で切断されている。頭蓋骨は発見されていない。直接的な死因は生きたまま頭部を切断された確率が最も高いと思われる、と……」
 解剖結果を要約した渚の顔は、ただでさえ色白い肌からさらに血の気が失せていた。
「つまり、筒木はすでに死んでいたということですか」
「あの男を警戒して、ずっと家の中で身を守り続けていたあんたには、悪い話だがな」
「いえ……」
 渚は遠くを見やり、物憂げに黙り込んだ。打ちひしがれているのか、あるいは探偵らしく頭を働かせているのか。元倉は前者だと思った。
「それでな」
 元倉はいくぶんか口調を和らげた。
「十三年前に生きている筒木と最後に接触したのは、あんたと、あんたの父親、そして風間封悟だ」
「筒木が古代邸から逃げた後、別の誰かに殺されて埋められた可能性もありますけど」
 渚が唐突に放心状態から目の光を取り戻し、指摘する。
「それなら風間に後ろめたいことなんかないだろう。逃げる必要もないのに、やつは逃げた」
 安田が、スーツの内ポケットからくたびれた手帳を取り出した。
「風間さんは、いつからいなくなったんですかね」
「私が寝ていたのは一、二時間くらいですから、その間かと。考え直せばおかしなことばかりです……風間さんはいつもなら、必ず行き先を書き置きしてくれるのに」
「言いにくいことを言いますとね……風間さんがこのまま戻ってこなかったら、警察はさらなる対応に動かざるを得ませんよ」
「しかし、風間さんが犯人と考えるには乱暴な点がいくつか……」
 今まで飄々としていた安田の表情が、厳しくなる。
「真実がどうあれ、やましいことがあるから、逃げた。我々はそう判断します。風間さんを筒木殺しの筆頭容疑者として捜索をかけることになるでしょうね」
 部下の言葉に元倉が続く。
「まずは死体遺棄容疑。その後証拠が固まれば殺人罪で再逮捕だ。弁明はその時に聞く」
「殺人……」
 渚が唇を震わせる。風間さんが、殺人。そうダメ押しに呟くのが、刑事たちの耳に入った。
「ご存知かと思いますが、殺人の公訴時効は2010年の4月に廃止されましたから」
 と、安田。
「どこに何年逃げ回っても、彼に罪を逃れる術はありません」
「仮に風間さんが殺したとして、わざわざ筒木の頭部を切断し、持ち去ったのはなぜでしょうね? そんなことをする意味がありません」
「本人に問い正せば手っ取り早いですよ」
 安田の反応は冷ややかだった。
「風間の行方を追うために、手を貸してくれると嬉しいんですがね」
「でもやはり……風間さんが殺人なんて、そんなこと……」
 元倉が片腕をテーブルに置いて、身を乗り出した。
「風間は俺にこう言っていたぞ。『渚を苦しめるやつがあったら縊り殺す』と」
 渚は口を結び、何も答えなかった。
「あの助手はかねてから、人を殺しかねない感情や衝動のタネを隠し持っていたかもしれない」
「だから筒木を殺した、と?」
「あの性分だと、あんたが筒木に人質に取られた時、少なからず激昂したと思うがな」
 人質、というを聞いた渚は、うつむいてテーブルクロスの花柄を凝視した。その呼吸が苦しげなのに刑事たちは気づいた。
「大丈夫ですか?」
「……」
 元倉と安田が辛抱強く待っていると、やがて渚は深い呼吸をひとつして、もう一度刑事たちを見た。
 その時にはもう、渚は探偵の顔になっていた。
「わかりました。この邸宅は隅々まで捜査してもらって構いません。風間さんの行方を追う手がかりが見つかるかも」
「話が早い」
 元倉は立ち上がり、スーツからスマートフォンを取り出した。
「人員を呼ぶ」
「ついでに、あの白骨遺体はもう一度調べたほうがよいと思いますよ」
「プロの鑑定にケチをつける気か?」
「いいえ。強いて言うなら、不満があるのは骨と人です」
 謎かけのような言葉の真意を元倉が問おうとしたが、その前に渚が部屋着の胸元を握りしめながら腰を浮かせた。
「あの、できれば警察の方々が来る前に着替えておきたいんです」
 元倉は安田へアイコンタクトを送った。
「もちろんですよ。寝室はたしか二階でしたっけ?」
 寝室に向かう渚には安田が付いていった。逃げ出されないように監視するためだ。
 渚は寝室の扉を少し開け体を滑り込ませると、音を立てずに扉を閉めた。だが数秒もしないうちに扉が再び開き、ひょっこり小顔がのぞく。
「あの、安田さん」
 廊下に背をもたれかけさせていた安田は、隙を突かれて飛び上がる。
「は、はいっ」
「あなたを優秀な刑事と見込んで、ひとつ頼みごとがあるのですが」
「え、ええ。ヒラの新人にできることなら」
「イブキくん、いるでしょう。犬の。彼がもし見つかったら、私に真っ先に知らせて欲しいのです。色々とお願いしたいこともあります。なので……」
 渚が扉からスマートフォンを挿し出した。
「連絡先、交換してくれませんか?」
 安田は状況がよくわからないまま連絡先を交換し、渚が着替えるのを部屋の外で待った。
 しかし、渚は着替えに閉じこもったきり十分、十五分待っても出てこない。さすがに訝しんだ安田は部屋の扉をノックした。
「古代さん?」
 返事がない。ドアノブを下げると固い感触がした。鍵がかかっている。
「古代さん。……古代さん!」
 ──まさか。
 安田は青ざめた顔になり上司を呼んだ。二人掛かりで体当たりをすること十回、やっと観念した扉が悲鳴のような音を上げながら開け放たれた。
 部屋の中は、すでにもぬけの殻だった。
 窓が開け放たれ、そこから吹く風がカーテンを優しく揺らしている。
「やられた」
 安田が冷静に、冷たくつぶやいた。
「古代渚……!」
「緊急配備」
 元倉が即座に部下へ命令を下した。

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