『プラトニックは削れない』第十九話

****年*月

 ぼんやりと目を覚ました風間は、頭をもたげた。どうやらテーブルの上で寝ていたようだ。何度かまばたきをすると、手元に湯気の立たないコーヒーのカップが見えた。
 正面には、手を組んでこちらを見据える精悍な顔つきがある。
「先生……?」
 紛れもなく、風間の目の前にいるのは古代善だった。
 風間は空港のコーヒーチェーン店の中にいた。妻を亡くした善が渚と一緒に帰国したきた時、入った店だ。見晴らしのための窓辺には、幼い渚が両手を窓にくっつけて、滑走路を凝視していた。
「先生……ぼくは寝ていたんでしょうか?」
 善は微笑むだけで答えなかった。
 店内は異様だった。客はおろか店員すら一人もおらず、滑走路には飛行機一機、トラクター一台もない。店内音楽もなく、周囲は空港というよりも朝方の白い病棟のようだった。
 正面にいる善は、組んだ手の上に顎を乗せてこちらに目を細めるだけで、何も言わない。彼のそばに置いてあるコーヒーもまた、まったく湯気を立ちのぼらせていなかった。
 その目と目が合った時、風間の胸が暴れだしそうになった。
「そう、ですか」
 善はもう十三年も前に死んでいる。
「こっちが夢なんですね」
 すべてが夢であればいいのにと思った。
「先生は、ぼくを迎えにいらしたんですか?」
 善は答えなかった。
「ははっ……」
 風間は頭をかきむしり、呻き、テーブルに突っぷす。
「どうして……っ!」
 ──どうして、何も言えず、何も成し遂げられないまま……。
「好きでした、先生」
 どうして生きている間に好きだと言わなかったのだろう。
「せんせ……っ」
 うずくまり、声を殺して泣く。
 夢の中ですら、胸が詰まって、叫ぶことができなかった。
 妻が死んだと聞かされた時。空港に迎えに行った時。筒木を殺した姿を見た時。最後に言葉を交わした時。
 一度でも、たとえ間違いでも、この不器用な気持ちを善に伝えていたら、彼は自殺を思いとどまっただろうか。
 もしかしたら、はいと頷いてくれただろうか。
 ──いや、違う。
「あなたは完璧にぼくの気持ちを理解して、だけどすまないと言って、静かに笑うのでしょう? それでもよかったんです。たとえ拒絶されても、それでよかった。ただこの気持ちを伝えたかったんです。でも臆病だから、言えなくて……先生が生きているうちも、黙っているままで……先生がいなくなるなんて考えてもみなかった。喪ってから、言えばよかったなんて後悔して……ばかですよね……ばかだって叱ってください……」
 善は答えなかった。
「ぼくを選ばなくていいから、生きていて欲しかった……!」
 プラトニックは削れない。
 なのに、想いを我慢しつづけて、削り殺せないものを削っているものと勘違いしていた。吐き出したい時に吐き出すことすら、いつの間にかできなくなるほどに。
「ぼくはあなたに告白できない代わりに、あなたに理想を押しつけ続けていた。あなたを追い詰めて、殺したも同然です」
 のたうちまわるような心の奔流に耐え抜いて、風間はやがて顔を上げた。
「渚に対しても、同じことを繰り返したんですね、ぼくは。間違いだらけなのに、それでも渚は、いつもぼくのそばにいてくれた。優しくて、暖かくて、安心できた。渚はぼくの……」
 ──恋人というには愛おしすぎて、伴侶というには清らかで、家族というにはあまりにも強固な……。
「渚は、ぼくがぼくであるための、魂の一部です」
 風間は涙を止められなかった。目の前に座る善の顔の輪郭すらわからないほどだった。
「だけど先生を喪ってから、渚の身に何かが起こるのが怖くて、そばにいることにあぐらをかいて、けっきょく何も言えないまま……渚を深く傷つけて、独りにして、愚かなぼくは死ぬんですね」
 善に何を言っても答えてくれないことは、もう知っていた。
 風間は渚に対する後悔でいっぱいで、テーブルに落とした涙の上にまた額を乗せて呻いた。
「渚……っ」
 そんな風間の頭に、くしゃりと、柔らかい感触がした。
 顔を上げた。
 善は椅子から立ち上がり、手を引っ込めて、出口に向かって歩いて行くところだった。
「待って」
 椅子から転げ落ちる。善の脚に縋ろうとして、だがそんな気力もなかった。その場で泣き叫んだ。
「ぼくも連れていってください……!」
 善が振り返って、こちらを見た。
 哀しげに微笑んでいた。
 風間は明るすぎるリノリウムに膝をつけたまま、追いかけることもできず、善の消えていく背中を見届けるしかなかった。
 音のない、白い店内に、風間は取り残された。
 振り返って窓辺を見た。だが目覚めた時にその場にいたはずの小さな渚の姿は、なかった。
 店内は風間ひとりになっていた。
 ──探しに行かなければ。
「渚……!」
 風間は立ち上がり、一歩を踏みだした。


 今度こそまぶたを開いた。そこにひどい重みと眠気があって、これは紛れもない現実なのだと風間は確信した。
 全身がだるくて、動けない。
 ぼんやりとした天井は知らない模様だった。視界いっぱいが白い。朝方だろうか。
 ──病院……?
 声を出そうとすると、喉が干からびて、ひきつってうまく声が出せない。
 だがそんなひとりぼっちの風間の手が、そっと暖かさに包み込まれた。
「風間さん」
 視界に現れた顔が泣き笑い、唇がその名を呼んだ。頬に涙が落ちて、肩に額が触れる。
 渚はずっと待っていてくれたのだ。
 風間は力を込めて腕を上げ、髪に指先で触れ、抱きしめた。
「渚」
 過去善に言えなかった言葉を、浜辺で渚が言ってくれた言葉に喉が詰まって答えられなかった言葉を、言わねばならなかった。
 己の在る限りの声を、絞り出す。
「愛してるよ」

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