『プラトニックは削れない』第九話

2010年2月

 古代善と出会った日のことを、風間は今でも鮮明に思い出すことができた。十四歳の頃だった。
 身を寄せていた児童養護施設の施設長は善と知り合いで、かねてから若い助手を探していた彼に「風間くんを」と推薦したらしかった。
 唐突に面会をさせられた風間は、善の姿を見た瞬間に、全身が震えた。
 夜が似合う人だ。窓際のテーブル席に脚を組んで座っていた彼は、スーツが馴染む鳶肩に、短く刈り上げられた髪と精悍な顔つきをしている。一見すると刑事然としているが、野性味はなく理知的で、警察が鷹だとすれば目の前の男は黒豹と言うべき洗練さを纏っていた。
 風間はこのまま、善の前から姿を消したい衝動に駆られた。
 この人は、自分の本質を見抜いてしまう人だ。醜い骨の髄まで──。
 善はすでに施設長から、自分が児童養護施設に来た理由も聞かされているのだろう。シングルマザーだった母親の連れ込んだ男に乱暴をされていたことを。男が母親には愛想の良い紳士だったから、なおたちが悪かったのだ。事態に気づかない母をよそに、風間は自らの足で児童養護施設に避難した。だが結果、母と男は風間のことで口論になり、男は母を刺し殺して刑期を食らった。
「こんにちは……いや、もうこの時間だと『こんばんは』かな」
 善の声は深い中域だった。こちらが終始うつむきながら掠れる声で挨拶を返すと、天気の話も世話話もすっ飛ばして、彼はこう言った。
「きみは、自分の足で施設に避難してきたらしいね」
「は、い」
「なぜそうしようと思ったんだ」
「避難しなきゃって……」
 ──いやだ。これ以上、この人と話していたくない。
「警察へ行かずに? 直接?」
 善が優しい声で、追求を続けた。
「警察はあんまり対処してくれないって聞いて。知り合いなんていないし」
「児童相談所は?」
「あんまりよく考えていませんでした」
「わたしがこうして不躾に、きみのいやな記憶を追求することに関しては、どう思う?」
 唐突に質問を変えられ、風間は相手についていけず「え」と声を漏らす。しかし相手は会話のペースを緩めてくれない。
「なんとも思わないのかな」
「……」
「きみは虐待を受けたにもかかわらず、警察には行かず、児相にも行かず、知り合いに助けを求めず、だが施設には避難したと言った」
 善がゆっくりと、机を隔てた向かいの席から、風間の隣に席を移した。
「きみにとって乱暴をされた男との時間は、地獄のごとき永遠に思えたのか? ……それとも刹那より短い時間だったのかな?」
 風間は全身の震えを感じた。
 その秘密は人には絶対に言えなかった。母にも。警察にも。施設長にも。
 母の連れ込んだ男から受けた仕打ちは──風間には刹那に思えた。
 惹かれていた。
 男はそんな風間をいくら殴っても本人が訴え出ないことを──彼の本質を見抜いていた。その事実がさらに風間を心酔させる悪循環に陥った。これ以上男に心をのめり込ませるのが怖くなり、風間は逃げ出したのだった。
 だが警察には駆け込めなかった。風間は男をどうしても悪者にはできなかった。自分にとって男の乱暴は犯罪行為に思えなかったのだ。
 そのように醜い自分の本質を、古代善にも見抜かれたのだ。風間は一瞬にして飲み込まれた。
 幼い頃から、自分の心の奥底を暴いてしまう人間に、どうしようもなく惹かれてしまう。
「この仕事をしていると否応なしに、猟奇的で常軌を逸した犯罪者を多く目の当たりにする」
 風間はどういう態度でいればいいのかよくわからないまま、善の言葉に耳を傾けていた。
「だが他人にとってどれだけ醜く唾棄すべき思考であろうとも、誰かにとっては常識であり、真実であり、美学だ。そこを履き違えると真相を見失ってしまうが、きみの感性はこの界隈に向いているかもしれないね」
「猟奇的で常軌を逸した犯罪者って……暴力を暴力と知っていて警察に行かなかった、ぼくみたいな?」
「きみは猟奇的ではないよ」
 善は失笑した。
「きみのそれは愛情だろう」
「でも、そうだとしたら、ぼくの〝愛情〟のせいでぜんぶが台無しになってしまいました。母は死にましたし……あの人は殺人を犯しました」
 これが愛情だとしたら、自分が愛を振るうと相手を腐らせてしまうのだろうか。
 であれば、自分の存在は削り殺すべきではないのかと、風間は懊悩していた。
「わたしは共鳴しないよ」
 善は唐突に、風間の心の内を読んだかのように、短く述べた。
「共鳴……しない?」
「きみの感情を理解はしても、揺さぶられることはない。保証しよう」
「そんなこと、できるんですか?」
「それがわたしの仕事だからだね」
 善は立ち上がり、手を差し出してきた。
「わたしは唾棄すべき犯罪者の心理と手口を完璧に理解する必要がある。だがその上で、許されざる彼らを牢につながなければならない。決して犯罪者の感情に共鳴してはいけないんだ。私にもし殺人の衝動が起こったのなら、そのときは罪を犯す前に潔く死ぬさ」
 握手を求められたことに、風間はやっと気づいた。白い指を滑らせて、探偵の手を握り返す。
 全身が暴れ出すほど狂喜した。
 その時は、こんな醜い自分でも受け入れてもらえたと思ったのだ。
 愛情に共鳴しないという事実がどのような意味を持つのか、それらの意味を知った時、甘くも地獄のような日々が始まるとは、風間には知る由もなかった。


 善と出会った一年後に風間は中学を卒業し、同時に善の助手として働くことになった。彼の助手になりたがる人間が多いという事実を知ったのは、それからしばらく後のことだ。どうして自分が優秀な志望者を差し置いて助手になれたのか、風間は首をひねりつつも、本人から聞き出す勇気がなかった。
 探偵助手になってからというもの風間は、数々の猟奇殺人を目の当たりにしては、善がその謎を、本質をつまびらかにしていくさまを、特等席で見続けた。いつしか善の身を守りたくなり、護身術を習い始めた。風間がなにより嬉しかったのは、仕事に関わることであればいくら善にのめり込んでもいい点だった。
 そうして助手になってから三年の月日が経ち、風間が十八歳になった時、善はとんでもない爆弾を落としたのだった。
「妻が急死した」
 図らずも師の身内の訃報を聞いた風間は、どんな凄惨な事件を目の当たりにしても回転の止まらなかった思考が、完全停止した。
 今すぐ「お悔やみを申し上げます」とか「御愁傷様です」とか、何かを言うべきなのに。いや、まずは善の身を案じたかった。自分などよりもショックは計り知れないだろうからだ。
 だがそのすべての言葉をすっ飛ばして、風間は唇を震わせながら口を開いた。
「先生……結婚していらしたんですか」
 善が既婚者だったなど、これまで一度も聞いたことがなかった。法務省に勤務する兄がいることは知っていたのだが。
 善は悲しげに笑いながら、風間を見上げた。
「子供もいる」
「え?」
「子供。一人だけだが……日本に連れて帰るから仲良くしてくれ、封悟」
 そう言う彼の姿はいつもより一回り小さく見えた。
 善は単身、慌ただしくイギリスへ飛んだ。
 ──それから二週間経った今、風間は帰国してくる師を迎えに空港まで出向いていた。もちろんとてつもなく気は重い。ソファに座りながら、組んでいた両指に力を込めた。
 今まで風間は、「あくまでぼくは先生の助手でしかないんだ」と自分に言い聞かせながら、仕事の邪魔にならぬよう感情を削り殺してきた。母を殺してしまった男と同じ過ちを繰り返さないためにもだ。
 なのに、密かに思いを寄せていた男が既婚者で、その妻が死んだといっぺんに聞かされたのだ。
 本当は悲しまなければいけない。わかっている。それでも善が再び独り身になったことを刹那喜んでしまう浅ましさに、自己嫌悪を覚えていたくらいだ。それなのに……子供までいるとは。
 ──どんな顔をすればいいんだ。
 こんな惨めな自分の存在を、いっそ削り取って風に飛ばして、空気に希釈できないだろうか。
「封悟」
 遠くから待ち焦がれた声がした。到着口に目を向けてみると、人の流れのなかに背の高い精悍な顔が現れる。
「先生」
 風間は弾んだ足取りを気づかれないように、待ち人に近づいた。
 善は片手にキャリーケースを持ち、もう片方は子供と手を繋いでいた。子供の体はツイード生地のコートに包まれ、細い足は黒タイツに覆われていた。
 風間は戸惑いながら、キャリーケースを預かろうか、まずはお子さんに挨拶すべきか、手を空中にさまよわせた。相手も相手で同じように視線を泳がせていた。
 善が二人の様子に苦笑した。
「渚、彼がわたしの仕事の助手をしてくれている風間封悟くんだ」
 風間は慌ててしゃがみこんで、渚、と呼ばれた子と目線を合わせた。
 ──渚ちゃん……? いや渚くん……?
 渚に抱いた第一印象は、性別が曖昧なことに対するつぶらさとミステリアスさだった。六、七歳くらいだろうか。肌が白く、髪型はゆるいマッシュショートだった。顔つきは善の角張ってすっきりとした骨格とは似ても似つかず、ふっくらとしていて、十年後には恐ろしいほどの美貌を持つだろうことが容易に想像できた。可憐で、清楚で……。
 美しい。
 物事のすべてを捉えようと揺れる鋭い目が、父親にとてもよく似ている。
 けっきょく性別が見極められず善へ視線を向けると、「息子。六歳」と、小さく咎めるように告げられた。風間はぎこちなく顔に笑みを作った。
「風間封悟です。よろしくね、渚くん」
 渚は風間に釘付けになりながら、片方だけ握っていた父親の手を、両手で握り直した。
「封悟は微笑みの練習中なんだよ」と、善。
 風間は人前でうまく笑えないことが、コンプレックスの一つだった。虐待男や善に自身の本質を暴かれて以降、笑顔からうっかり本心を晒す代償を考えると、笑うのが怖くなった。
「怖がらせてしまったかな」
 渚は風間の言葉に首を横に振って、挨拶の意なのか、しゃがんでいる風間の首元に抱きついた。幼い体温がする。欧米式の挨拶だろうかと訝しんだ矢先、相手はすぐに体を離し、風間に目を合わせてきた。
「風間さん、きれいなひとだね」
「……え?」
「人間の体格ってね、左右非対称アシンメトリーなの。でもね、風間さんは今まで見た中で一番きれいな左右対称シンメトリーだよ」
「え、あ」
「でもきれいなのはそこじゃなくて」
 渚はもう一度、ぎゅっと風間を抱きしめた。
「風間さん、右利き? 利き腕の筋肉が発達してる。そこだけちょっとくずれてるんだ。でも武道をずっとやってる体じゃないよね。お父さんの助手になってから何か習い始めたの?」
「ええと、護身術を」
 耳元で渚が囁いて、風間の耳朶に吐息が触れた。
「お父さんを守るため?」
「……うん」
「きれいだね」
 くずれてるのに、きれい。
 ひどく矛盾している言葉を言われたのに、風間の耳には心地よかった。
 今までに自分をきれいだと言ってくれた人は一人もいなかった。色白く、いつも善のそばで陰気な空気を放ち、刑事たちに薄気味悪いと言われることもよくある。本人ですら自分の存在を汚らわしいと思っていて、それが善の名誉を傷つけぬよう存在を希釈し続けていた。
 渚の洞察と美的感覚に、風間は震えた。善と同じように自分の本質を暴かれて、ぞくぞくとした興奮と戦慄が、全身に走る。
 善が自分を助手として見出した数年前と、同じ。
 ──この子は、先生の遺伝子を受け継いでいるんだ……。
 善が渚の肩を抱いた。
「挨拶はこれくらいにして、二週間ぶりに日本チェーン店のコーヒーが飲みたいな」
「あ、ご、ご案内します」
「うん、たのむ」


 風間の先導で、空港に併設しているカフェに腰を下ろした。渚は飲み物などそっちのけで、見晴らしのための窓辺から眼下に広がる滑走路とジェット機に、釘付けになっている。
 善はコーヒーカップを置きながら鋭く微笑んだ。
「どうだ、渚とのファーストコンタクトの感想は?」
「……戦慄しています」
 風間は善の隣にいるため体調や姿勢に人一倍気をつけている自負はあったが、自分の体がどうなっているかなど興味もないし、考えたこともなかった。
 風間が正直に感想を述べると、善は深く頷いた。
「人間の体は多かれ少なかれ左右非対称だ。鎖骨の高さ、手の平の大きさ、骨盤の歪み……スポーツや楽器、デスクワークでも骨格は歪む。だが稀に、先天的に体の歪みが極端に少ない人間も存在する」
「ぼくがそうだと……?」
「本人すら気づかない本質を見抜くのが渚だ。はたしてあれを〝観察眼〟などと、俗っぽい単語で称していいものか……」
 窓の外の景色に釘付けになっている息子へ、善が視線を流す。
「あれは、ある種の千里眼だな」
「千里眼……」
 善風間に視線を戻すと、おどけて肩を上下させた。
「きみには、探偵助手ではなくて、外見の特長を生かした……例えばモデルやバレエダンサーの道もあったかな?」
「も、モデル?」
 風間のうろたえ具合に、善がおかしそうに目を細めた。
「自覚がないのは罪だな。渚はすでにきみのファンのようだが」
「い、いえ、古代先生のおそばにいる以外の仕事など考えられません」
「はは、わかっている。冗談だよ」
 善は風間に向き直ると、確信を持った声とともに両手を組んで顎を乗せた。
「つまるところ、渚はわたし以上の探偵になる見込みがおおいにあるというわけだ」
「渚くんが母親とイギリスにいたのは、彼のためですか?」
「日本は渚のような子供には生きづらいだろうからね。英語も身につけさせたかったし」
 善の顔に穏やかな笑みが浮かび、えくぼが見えた。風間の好きな表情だ。
「それで──わたしがいない間、変わりはなかったか?」
 善が体を弛緩させたのと真逆に、風間は先ほど以上の緊張感を持って背筋を伸ばした。
「できれば、先生にはこのままイギリスにいて欲しいとすら願っていました」
「どういう意味だ?」
「厄介な事件が起きています」
 風間は唾を飲んだ。渚がこちらの話を聞いていないことを確認してなお、声をひそめる。
「被害者の頭部が切断され、持ち去られるという連続殺人事件です」
「ほう」
「それで犯人は、古代先生に向けた挑戦文を……」
「名指しか?」
「はい。警察はあなたの帰国をジリジリと待ち続けているようでした」
 風間が恐る恐る顔を伺うと、善は笑みの形を作った唇を、指でゆっくりと撫でた。
「なるほど」



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