弟が死んで自己肯定感が爆上がりした姉の話
2020年8月13日。弟が死んだ。自死だという。
タイトルについてあらかじめ謝罪し断っておくが、私と彼の間にはこれといってなんの確執もない。弟──仮に「ばきお」としよう──は、真面目で愉快なイイ奴であった。たとえば私が帰省した際、ボンクラな独り身の姉が身内に、
「そろそろ親に孫の顔でもみせてやっては……」
などと詰められていると、
「なんの前触れもなく、赤ん坊を抱いてひとりで帰ってくるよりはいいだろう」
と口を挟んでくれるような奴だ。要するに、彼は善良な真人間である。
そんな弟のことを、私は「イイ奴だなあ」と思っていた。おそらく特に仲が良いということも悪いということもない姉弟であったが、しみじみと「イイ奴だなあ」と思っていた。記憶の限りではこれまた特に、言葉にして伝えるようなこともなかったけれども。
きっと、世の大体のきょうだいがそうした距離感なんじゃないかと思う。便りがないのが良い便り。ではないが、特に用事がなければ連絡を取ることもなく、電車を少し乗り継げば会える距離に住んでいても、顔を合わせるのは結局実家でだけ。けれど実家で顔を合わせれば、近況報告や思い出話に花を咲かせてみたり。大人になったきょうだいなんて、そんなもんじゃないかと思う。家庭を持っていないのなら尚更のこと。
話を戻す。
弟は、一年前の今日、この世を去った。
しかし、私が報せを受けたのはその翌日。8月14日の18時30分頃だった。自室を仕事場にしている私は、社業の終了後に自室でその報を聞いた。
「大変なことが起こりました」
電話口の母がえらく深刻な口ぶりで言うので、祖父が新型コロナウイルスにでも感染したのかと身構えた。
「ばきおが自殺しました」
が、蓋を開けてみればこの事態である。私は思わず「ええー!」と叫び、それはもう大変に慌てふためいた。どのくらい慌てふためいたかと言えば、取る物とりあえず花屋へ走り、ひまわりの花束を買ってきたほどである。
おそらく仏花のつもりだったのだとは思うが、ではなぜ菊ではなくてひまわりを選んだのかはよく覚えていない。ただ、混乱で泣きべそをかきながらあたふたと花屋へ走っている間、
「母は『ばきおが自殺しました』とは言ったものの『ばきおが死にました』とは言っていなかったなあ。どうやら彼が自死を試みたことは確かなようだが、一命は取り留めて病院にいるのではないだろうか」
と考えていたので、いわゆる仏花は選ばなかったのだと思う。
余談だが、今の私の部屋には祖母の遺影の横に弟の写真が置いてある。添える花には、一度もいわゆる「仏花」を選んだことはない。
話を戻す。
私に連絡を寄越してきた時点で両親はまだ小樽の実家におり「これから東京へ向かう」とのことだった。両親とはその翌日、8月15日に都内の某警察署で落ち合う算段となった。その場には、弟の勤める会社の人も来ると聞いた。
私は再度、慌てふためいた。何故なら、一週間前に髪を真っ青に染めたばかりだったのである。
この時、生まれて初めて心の底から弟を恨んだ。非正規雇用の薄給会社員にとっては安くないサロン代だったのである。弟も、よもやこんなことで姉の恨みを買うとは思っていなかっただろうが。
8月15日の朝。私は開店直後のドンキホーテで黒染めスプレーを購入し、取り急ぎ髪をベタベタに黒く塗って両親の待つ都内の某警察署へ駆けつけた。その日も例によって例に漏れず茹だるような暑さで、私の額と首筋は染料で黒く汚れていた。大変に不快であった。
警察に着くと出入り口に両親が居て、すぐそばに大きな車が停まっていた。弟の勤め先の人はいなかった。すぐに車へ乗るよう促され、父、私、母、の順に乗り込んだ。弟の勤め先の人には、ドロドロになった額を晒すことにならなくてかえってよかったのだろう。腑に落ちなかったけれども。
「後ろにばきおも乗ってるんだよ」
と父が言った。
「ああ、そうなんだ」
と私は応えた。じゃあ治療のためにこれから病院へ行くのかな。なんてことを私はまだ考えていた。
運転手さんのご好意で、弟の部屋へ寄ってもらえることになった。そうだよな。入院するなら必要なものもあるだろうし。なんてことを私はまだ考えていた。
弟は勤め先で借り上げているというマンションに住んでいた。閑静な住宅街にぽつねんと佇む鉄筋の集合住宅は、盆の真昼ということもあるのだろう、しんと静まりかえっていた。二階にある彼の部屋へ、私たちは無言で駆け上がった。還暦を過ぎた両親の足取りの速さに、私は追いつけなかった。
弟の部屋はカーテンがかかっていて暗く、散らかっていた。テーブルにはエナジードリンクの空き缶が何本もあった。冷蔵庫には食べかけのロールケーキが入っていた。パソコンが2台、点きっぱなしになっていた。
その部屋から母は弟の使っていた携帯電話の契約書類を、父はパソコンを、私は目についたボードゲームを一箱持ち出し車へ戻った。ような気がする。よく覚えていない。
車はずいぶん長く走り、その間じゅう車窓からはずっと満開の百日紅の花が見えていた。そうして連れてこられたのは、隣県の火葬場だった。都内はどこもいっぱいで、一番近く、一番早く荼毘に伏すことができるのがその火葬場だったらしい。
待合室のような小さな部屋に通されて、私と両親は、方々へ電話をかけたりなどして今後の段取りを淡々と進めた。することが山のように──はなかったが、小山くらいにはあった。
というのはたぶん方便で、やっぱりこうした事態に陥った時、人間はまず心を遠くへ逃すことからするのであろう。あれを決めてこれをして、誰それに連絡をしてお金をいくら用意して。別に、絶対にその時に行わなければならないことなんかひとつもなかったなと思う。
少しして、霊安室に通された。その時にすれ違った火葬場の職員さんは透明なタイプの45L袋を片手に握っていて、その中には弟が最期に身につけていたのであろう衣服がぐしゃりと丸まっていた。
大きくて頑丈そうな台車の上に、例の白木の箱が載っていた。職員さんが二人がかり(だったと思う)でその例の箱の蓋を開けてくれた。
捕まった。と思った。もう逃げられない。とその時、ようやく観念した。私は、私の家族は、弟の友人たちは、彼が若くして世を儚むことを選んだのだ。という事実から、もう絶対に逃げられない。
その時の気持ちを一言で表すなら「これからどうやって生きていこう」だ。これから先の人生の、どこを切っても彼はいないのである。きっと私は折に触れてその事実に触れ、今までの日常へは絶対に戻れないに違いないと思ったからだ。
苦しそうな顔をしていたら嫌だな。怖いな。と思っていた。けれど弟は見慣れたマヌケ面で目を閉じ、少しだけ歯を見せて、行儀良く箱に納まっていた。
「暑そう」
悲しいと思う気持ちを追い越して涙が流れ、そんな言葉が口を衝いた。彼の肌に塗られた保湿剤が汗のように見えたんだろう。実際の弟は、当たり前だがどこもかしこも氷のように冷たかった。
私はその足元に、彼の部屋から持ち出したボードゲームを置いた。最後に彼と会った時「面白そうだな。やってみようかな」なんて話していたゲームだ。きっとそのゲームを私がプレイすることはないのだろうが、最後に会話を交わした日のことをつぶさに思い出せるだけ、私は運がいいのかもしれない。
翌日には妹も札幌から駆けつけ、同じように霊安室で弟(彼女にとっては「兄」だ)の亡骸と対面し、再び家族でワーッと泣いた。
けれど不思議なもので、火葬場を出て少しもしない内に「日が落ちても暑いな」「アイス食べたい」「コンビニどこ?」「Suicaのチャージしなきゃ」「ご飯どうする?」といった風に、けろりと日常会話が始まるのである。
その翌日には火葬、そのまた二日後には実家のある小樽で葬儀を行ったが、その度に私たち一家はワーッと泣いてけろり。ワーッと泣いてけろり。を繰り返した。そして今でも時折、ワーッと泣いてけろり。をしている。人間って意外と図太いんだなあ。と思う。もしかしなくても、単なる防衛反応なんだろうけれども。
葬儀と初七日の法要をそんな風に「ワーッと泣いてけろり」と過ごし、私は東京の自宅へ戻ってきた。リモートワークの社業に励み、小説を書き家事をして、飯を食い酒を飲んで眠る。そんな生活だ。
懸念した通り、私は「もとの生活」に戻ってきはしたが、それは決して「もとの日常」ではなかった。
祖母の隣に弟の写真が増えた。
会社の研修資料に使われているフリー素材の男性に弟の面影を見て泣いた。
外で小さな男の子を見るたびに「弟にもあんな頃が」と思って苦しくなった。
花屋にあった「重陽の節句には長寿を祈って菊の花を」というポップを見て手を伸ばしかけ、しかし「なんのギャグだよ」と思ってバラの花を買って帰った。
気のいい人はみな「そろそろ日常に戻ってこれた?」と聞いてくれる。けれど、死んだ人間は蘇らない。よって、死んだ日常も戻ってこない。ただ「弟が自死を選んだ」というできごとが付加された別の日常が──それ以前の日常に、一点の痛ましい黒い点が付加された日常が──始まっている。言わば「アフターコロナ」ならぬ「アフター弟の自死」である。
当たり前のことで、きっと誰にとっても想像に易いことだとは思うのだが、近しい人が死ぬと悲しいし辛い。まして自死ともなれば「何かしてやれることがあったのではないか」「何もしれやれなかったことが悔しく情けない」と考えることも自然なことと思う。
けれど、私は弟に何かしてやれたとは、到底思わない。
だって私たちはごく普通の姉弟だった。どこにでもいる、ありふれた、仲が悪いわけではないが特別良いわけでもない、大人になった普通の姉弟だったのだ。
私にだって、大人になってから「死にたい」と思ったことなど星の数ほどある。試みたことだってある。私が今こうして生きているのは単に運が良かったのと詰めが甘かっただけの結果であり、家族の働きかけがあったであるとか、家族の顔を思い浮かべて思いとどまったなどということは一度もない。
もっと言えば、私が最初に自死を試みた場所は実家だった。冬の夜、しこたま酒と向精神薬を飲み、下着姿で家の屋根から飛び降りた。
幸か不幸か私は肋骨を折っただけで、ご存知の通り今もこうしてピンピンと散文を打っている。むしろ、あの当時にひどく鬱やら何やらを拗らせたおかげで、今の私は自分の心身の限界値を何とはなしに把握しているし、メンタルクリニックへ通うことにも抵抗がない。
けれど、どうも弟は違ったようだ。彼のツイッターアカウントには、軽妙な短文ではあるが、日々の激務によって心身が蝕まれていく様が生々しく綴られていた。
そのアカウントを私が従前より知っていたならば、ツイッターを通して「メンタルクリニックへ行けー!」「今すぐ予約の電話をしろー!」「そんな会社今すぐやめちまえー!」としつこくリプライを送っていただろう。が、知らなかったものはしょうがない。何もできようがない。全ては私の全く預かり知らぬところで起きたことである。
それに私は病院にかかっていても自死を試みたし、弟は同じ家に住む姉が酩酊して飛び降りたその屋根の下におり、意識のない姉が救急車で運ばれる様を見送った経験がある。もしかすると家族が死ぬかもしれない。そんな心地を、彼も味わったはずだ。
それでも彼は、自ら死を選んだ。手段は伏せるが、準備は入念であったようだ。
そこまで生きるのが辛かったのなら、もういいんじゃないかと思う。
誰のことも思い出さずに「それ」へ縋るほど辛いことがあって、いま彼はその苦しみから解放されているのだとすれば、それは何よりなことだと思う。
とは言え、近しい人の死というのは人間に、心身をぶっ壊して有り余るほどの衝撃を与える。私は彼の四十九日を終えてすぐ「これはマズい!」と心身の異常を察知し、通えるメンタルクリニックを探し始めた。
家から通えるおおよそ全てのクリニックに電話をかけにかけて、初診の予約が取れた時には東京にも冬が来ていた。通院とカウンセリングは現在も継続している。先月末にはパニック発作を起こし、主治医や上司と相談の上、一ヶ月程度の休職期間をもらった。今はその最中だ。
布団から起き上がれない日も多い。だのに無理をしようとして結局できず、人様に迷惑をかけることもしばしばである。しかしアタマが少々悪い以外は体に異常もなく、嫌になるほど健康体。にもかかわらず、この体たらく。
情けない。恥ずかしい。苦しい。腹立たしい。──死のう。それが世のためだ。
と、弟が自ら死を選ぶ前の私であったならばこう考えていただろう。
けれど今は「──でも、こんなに苦しくても生きてるからすごい!」と思うのである。自己肯定感爆上がりである。
弟は、真面目で愉快なイイ奴であった。私は大学生にもなって単位不足で親を呼び出された上に中退したのに対し、彼は国立の大学をきちんと4年で出た。私が東京でブラブラとフリーター生活を送っているのに対し、彼はきちんと会社勤めをしてハンガリーでも働いたりなどし、私の10倍以上は貯金を作っていた。
そんな自慢の弟でさえ生き抜くことができなかったこの世を、ひいひい言いながらも私はサバイブしている。なんたる偉業! えっへん! ってなもんである。
といった次第で現在私は「長生き以外ノープラン」をモットーに、偉業の日々を少しでも長く過ごすため、できるだけのほほんと暮らしたいと思っている。
人が死ぬと悲しいし、私はどんなに自分から遠い人であっても自死を選んでほしくはないと思う。当然のこと、弟にも生きていて欲しかった。
が、これはあくまで私の個人的な想いである。その瞬間に誰の顔も思い浮かばないほど追い詰められた人を、その瞬間に安堵で歯を見せて笑う人を、この世に縛りつけることが果たしてその人の幸せに繋がるのか。それは私には分からない。
けれど、全ての「いま生きている人」と「まだ死んでいない人」には全力で訴えたい。
このクソみたいな世の中で、あなたは生命活動を放棄せず今も息を吸って吐いている。それだけであなたは──私も──勇敢なサバイバーだ。その誇りを胸に、どうか今日一日は、勇気を奮ってみて欲しい。
全くもって些細なことでいい。花を一輪買って帰るとか、部屋に掃除機をかけるとか、家族に電話をしてみるとか、ちょっと長めに湯船に浸かってみるとか、美味しいと評判のプリンを食べるとか、奮発していいお酒を飲むとか、仕事なんかほっぽり出して早寝をするとか。勇気を出して、思い切って、自分を甘やかしてみてほしい。
なぜなら今日は、かつて勇敢であった者のひとり、親愛なる我が弟が自分を甘やかすことができず、クソみたいな世の中に膝を突いた日だからである。
そんな人も、まあいるでしょう。お勤めご苦労様でした。
姉は今夜、きみの好きなたこやきをしこたま作っては貪り、酒を呷り、アイスを食べてとっとと寝ることにする。
そして今日という日を「たこや忌」と名付ける。どうだダサかろう。文句は百年後にでも、火葬場の向こう側で受け付ける所存だ。
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