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オオカミ陛下の思し召し

割引あり

 カザックに短い秋がやってきた。秋分を過ぎた頃からがくんと気温が下がり、明かり窓からは早くも冬の気配を感じさせる風が吹き込んでいる。枢機院にある自身の執務室で決裁の仕事にあたっていたザハールは、机上の小筆を転がした木枯らしに舌打ちをした。

 ザハールは秋が嫌いだ。それは何故かと人に聞かれれば「越冬の準備に忙しく、まるで休む暇がないからだ」と答える。それも理由の一つではあるが、本当の理由ではない。

「──陛下、アイシャ=カガン陛下より書状が届いています」

 小筆を片手に眉間に皺を寄せていたザハールの眼前に、一通の手紙がすっと差し出された。顔を上げると、側近のカリムが無表情で佇んでいる。

「ご苦労だった。……いかんな。こちらから連絡をしようとは思っていたのだが」

「気の進まないことを後回しにする癖は、直された方がよろしいかと」

「気が進む進まないという問題ではない。単に、期限のないものまではなかなか手が回らないだけだ。……見てみろこの仕事の量を。見積もり以上に物流が増えてバザールが潤ったのは嬉しい悲鳴だが、検問の厳格化とともに決裁権の分散を図らなかったのは失敗だった」

 そう言ってザハールが書類の山を見ると、カリムは「なるほど」とため息交じりに発した。

「要するに、陛下はまたしてもご自身の負担を勘定に入れず采配を振るわれたわけですか」

「それについては返す言葉もない。……少し気分転換をしたら、すぐに母上へ返事を書くことにしよう。いくら後回しにしたところで、いつかは手を付けねばならんことだしな」

 ザハールは筆を置いて立ち上がり、凝り固まった肩を回して大きく深呼吸をした。いがらっぽい乾いた空気に咳き込むと、すかさずカリムから「温かくしてくださいよ」と忠言を受けた。

 偉大な名君であった父イツハークが病で息を引き取ったのは、ザハールとエイベルが成人する直前のこと──今から八年前の、こんな秋の日のことだった。

 死に目は見ていない。当時草原に蔓延していた疫病は伝染性で、父を含む感染者は宿営地のはずれに建てたユルタに隔離されていた。

 亡骸もザハールは見ていない。病原菌の温床となっていた父の亡骸は、感染者たちの手によってすぐに火葬された。聞くところによれば「とても穏やかな顔つきで天空神の御許へ旅立たれた」ということだ。同じような家族の死に様をザハールとエイベル、そして母のアイシャは、その年の冬までにあと五回聞いた。

 祖父母がともに身罷り君主不在となったウルスは、ザハールがカザックに吸収する形で引き受けることに話がまとまった。他にも干ばつと疫病で破産状態に陥ったいくつかのウルスを同じように引き受け、ザハールは相次ぐ家族の死に涙を流す暇もなくカザック・ウルスの王として君臨。ブルキトの帝国へ兵を挙げた。

 それから八年の歳月が経ち、母は既に新たな伴侶を得て父の遺したウルスを盛り立てている。自分も長く独身時代を過ごしたが、戦後処理と復興事業にひとまずの区切りをつけ、この春には最愛の妻を迎えた。エイベルは今も昔も飄々としていて何を考えているのか今ひとつよく分からないが、何はともあれ息災である。

 しかしザハールもエイベルも、そして恐らく母アイシャも、この八年の間は何かと理由をつけて集まることを避けてきた。

 ザハールは、家族の行事を三人で行うことがとても辛い。死んでしまった家族の不在を強く感じるのが寂しくてたまらないのと、そんな自分の弱さを母や兄に悟られるのが恥ずかしいからだ。なんの因果か生き残った三人はみな似たり寄ったりの見栄っ張りなので、恐らくは同じようなきまり悪さを感じているのだと思う。

 そんな次第で、ザハールは秋が嫌いだ。季節の変わり目に吹く乾いた冷たい風には、今でも不安を掻き立てられる。

「──エウドキア!」

 ザハールが気分転換にと訪れた中庭で、エウドキアは花壇の綿花を摘み取っていた。ザハールが大きな声で呼ぶと彼はにわかに肩を震わせて顔を上げ、目を丸くする。

「びっくりした!陛下、どうなさいました? 突然大きな声を──」

「そんな薄着でいては風邪を引くだろう! ウーラ、ウーラ! 我が王妃に何か羽織るものを持って来るんだ! それと温かい紅茶を! 今すぐにだ!」

 ザハールが血相を変えてそう叫びながら自身の上着をエウドキアの肩にかけると、彼は照れたような戸惑ったような顔でザハールを見て「そんな大袈裟な」と小さな声で言った。

「大袈裟なものか。風邪は万病の元と言うだろう」

「それはそうですが……動いていると温かいですよ?少し汗ばむくらいです」

「それなら、尚更温かくしていなさい。汗が引くと体が冷える」

 少し厳しく言いすぎたか、エウドキアはしょぼんと眉尻を下げて「申し訳ありません」とまた小さな声で発した。

 しかし確かに、柔らかく陽光の差し込む中庭は小春日和とでも言うべき陽気だ。時折吹き下ろしてくる風は冷たいが、かえってそれが心地よく感じられるほどに。

 それでもエウドキアには念のため、ウーラが持ってきた毛糸の羽織を着せた。自分が成長期の頃に着ていたお古だ。肩幅は余っているようなのに、袖口では帳尻が合っている。ベンチに腰掛け熱い紅茶を吹き冷ましている彼の四肢は、すらりと長くしなやかだ。

 末弟のダヴィドが生きていたら十四歳。オズベクは恐らくエウドキアの種族より体が大きいので、十四歳のダヴィドはちょうどこのくらいの背格好だったかも知れない。不意にそんな考えが頭を過ぎる。

「もしかすると──かもしれませんね」

そんなことを考えていたら、彼の声が右から左へ流れていった。

「……すまない。上の空だった。なんの話だったろう?」

 ザハールが聞き返すと、エウドキアは少し訝しげに眉を寄せて見せる。

「ああいえ。別に、大したことではないんですが……お部屋の中は日差しが入りにくいから、この時間はかえって外の方が暖かいのかなって」

「そうか。……そうかもしれないな。すまなかった。もし暑くて仕事に差し支えるようなら、羽織は脱いでも構わないから」

「いえいえそんな、謝って頂くようなことは何も……そんなことより、今日の陛下はなんだか憂鬱そうなのが気にかかります。何か悩みごとでも?」

 エウドキアは、そう言ってザハールの顔を覗き込んできた。冬の澄んだ青空のような瞳にはまるで、鏡のように自分の顔が映っている。言われてみれば確かに、物憂いに沈んだひどく情けない顔だ。

「……心配をかけてすまない。なんでもないんだ。ただ──」

 人に──まして自分が一番守らなくてはならない存在に自分の弱さを曝け出すことがひどく躊躇われ、ザハールは言葉を詰まらせた。

 しかしエウドキアは、ザハールが言葉の続きを紡ぎ出すのを黙ってじっと待っている。彼はこういう時、割に頑なだ。根比べでは勝てる気がしない。そうした粘り強く意志の固い性格は、彼がまだあどけなく少女のような見かけだった頃から変わらない。

「──秋口はどうにも、木枯らしに胸がざわついて仕方がないんだ。……疫病に冒された家族が死んだのが、秋から冬にかけてのことだったからかな」

「さようでございましたか……」

 ザハールが苦笑混じりに吐露すると、エウドキアはまるで自分が家族を亡くしたかのような悲痛な表情を浮かべてそう言った。そんな顔を見て、すぐに後悔が首をもたげる。愛する人にこんな顔をさせているようでは、とても良い夫とは言えない。

「いや、しかし。そうは言っても過ぎたことを思い出して沈んでいても仕方がない。この話はもう──」

「いいえ陛下。ちっとも仕方がないことなんてありません」

 エウドキアはザハールの言葉を遮り、低い声で噛んで含めるようにそう発した。

「どんなに時間が過ぎていたって、悲しいことは悲しいじゃありませんか。思い出して沈んでしまうのなんか当たり前です。誰だってそうですよ」

「それはそうかもしれないが……しかし、私はカザック・ウルスの王だ。手本となって民を導いていくのが私の仕事だ。そんな立場の者が、どうしていつまでも過去を引き摺ってなどいられよう」

「……いいえ。陛下。申し訳ありません。私には、とてもそうは思えない」

 ザハールが膝の上に置いていた手を握り、エウドキアは真剣な顔つきで淀みなく言葉を紡ぐ。

「カザック・ウルスの民のひとりとして私は、陛下には、過去を思って悲しくなったり寂しくなったりする気持ちに寄り添ってくれる王であって欲しいと願います。陛下も、自分たちと同じ悲しみや寂しさを抱えた人間なんだって思いたい。……だって、その方が心強いじゃないですか。悲しいのは、辛いのは自分だけじゃないって思えたら、きっと心強いと思うんです」

 そう言ってエウドキアは、その青空のような瞳を細めて微笑んだ。その言葉と微笑みは確かにザハールの心にぴたりと寄り添い、彼の言う「心強さ」の何よりの証左となった。

「……母が、手紙を寄越してきた」

 ザハールがだしぬけにそんなことを言ったので、エウドキアは目を丸くして瞬きを繰り返す。

「義母上殿から?どんなお手紙ですか?」

「まだ読んでいないんだ。……しかし大方、いい加減花嫁殿を連れて来いという催促の手紙だろう。──しかし私は、母に会うのが辛いんだ」

 ザハールが肩を竦めてそう言うと、エウドキアはザハールの顔を覗き込んだまま小首を傾げて見せた。

「理由を……お伺いしても?」

「ああ。……家族がいなくなってしまったのを思い知らされるからだ」

 エウドキアの双眸を見つめ返し、ザハールはそのことを初めて口に出した。

「母の隣に座しているのが父ではないことや、妹たちのかしましい話し声がどこからも聞こえてこないこと。それに、弟……弟の、小さいあの子と最後に交わした言葉が思い出せないことが身につまされて、悲しくて……寂しくてたまらない。一国の主ともあろう者が、情けない」

 話している内に言葉が詰まり、やがて声は嗚咽になった。目から涙が溢れて、自分とエウドキアの手の甲に雫が落ちる。

「情けなくなんかありません。愛する人が亡くなってしまったんですから、悲しくも寂しくもないという方がおかしな話ですよ。私だって、聞いているだけで胸が張り裂けそうです」

 確かに、そう発しているエウドキアの声もどこか少し震えている。声に出したことで砂嵐のように立ち込めた悲しみや寂しさはしかし、彼がこうして寄り添ってくれていることで徐々に凪いで行った。家族の死を想って涙を流すことができたのは、そう言えば初めてのことだ。

「……エウドキア。頼みがある」

「はい。なんなりと」

 ザハールは横を向いてエウドキアを強く抱きしめ、嗚咽混じりの声で祈るように告げた。

「絶対に、私より先に逝かないでくれ。置いていかれるのはもうたくさんだ」

 エウドキアはそんなザハールの背中に腕を回し、優しく力を込めてくれた。

「お任せください。でも、私だってあんまり長くひとりでいるのは嫌ですよ。後添いさんをお迎えするのだって御免です。だから陛下も、うんと長生きしてくださいね」

 やはり毛糸の羽織は少し暑かったのかも知れない。抱き合った彼の体はほこほこと温かい。なんだか命そのものを抱き締めているような、むしろ抱き締められているような、どちらにせよそれはとても神秘的な抱擁だった。

 しかしそのあと、母からの手紙の封を切ってみてびっくり仰天。要件は「顔を見せに来い」に違いなかったものの、その理由は「お前の弟が生まれたから祝儀を持って来い」という旨のものだった。新たな弟の誕生月から逆算すると、自分が婚礼の儀を行った昨年末だとちょうど長旅が一番体に堪える時期だ。ナウルズの準備に忙しいという欠席の理由は、恐らく方便だったのだろう。

 自分とエイベルを産んだ時の母がまだ十代だったことを考えると、まあ確かにそういうこともなくはない……のか?とは思う。しかし、まさか二十五歳差の弟が自分と同じ腹から生まれてくるとは露ほども思わなかった。まさに青天の霹靂だ。

「わあーっ、おめでたい! そういうことでしたら、一刻も早く向かわなくては!」

 夕食の席でことの次第をエウドキアに伝えると、彼は満面の笑みで声を弾ませた。夏に草原暮らしで遊牧民の子どもたちと触れ合ってからというもの、エウドキアは赤ん坊や小さな子たちの子守に夢中なのだ。

「そうだな。しかしこうなると、お前のところはどうなんだ。と要らん詮索を受けることにもなりかねんぞ?」

「そんなの、適当に『妖精の神秘と神通力でいずれは……』とかなんとかもっともらしい顔で誤魔化しておけばいいんですよ。私なんて正しくはどういう種族の妖精なのか自分でも分かってないんですし」

 軽い口ぶりでそんなことを言ってのけ、エウドキアは大皿に残っている羊の串焼きの最後の一本を「これ、頂いちゃいますね」と言って勇ましく頬張った。

 馬鹿正直なきらいのある自分と違い、エウドキアは時には方便も駆使しながらしなやかに逆風を受け流す。そんなところが頼もしく、初めは「守るべきか弱い愛妻」であった彼が今は「背を預けたい相棒」であることに思い至りザハールは思わず感動の唸りを上げた。

「なるほど……そなたの逞しさには、驚かされるばかりだ」

「なんですか。ふてぶてしいとでも仰りたいので?」

 ザハールは素直に感心と感動を口にしたつもりだったのだが、エウドキアはそういう風には受け取らなかったらしい。彼は拗ねたように顔をしかめながら、口の端についた肉汁を指で拭ってはぺろりと舐め取った。そんな野性味に溢れた仕草にもぐっと来る。

 今やすっかり逞しい貴公子然とした彼ではあるが、褥ではやはり今でも純情可憐な姫君であることを知るのは自分だけ。そう思うと、彼が心身ともに強く逞しくなって行けば行くほどにときめきもまた増していくのだ。

「……いや。そなたのそうした逞しさが、たまらなくそそると思ってな。青き狼の如く逞しい我が妻が、私の腕の中でだけは可愛い仔羊なのだ。今すぐ食べてしまいたいほどに愛おしいよ」

 なので、そんな心持ちもザハールは率直に表した。するとエウドキアは顔を赤く茹で上がらせては、串を手にしたままもじもじと肩を縮こまらせた。

「きょ、今日はまだたくさんすることがあるのに……困ります!」

「そうなのか? では、私も手伝うからさっさと終わらせよう。そう言えばここのところ忙しくて、もう四日も触れ合えていないじゃないか」

「四日もって……全然〈も〉じゃないですよ」

「嫌か?」

「……嫌じゃないですけど」

 赤い顔のエウドキアは、今度は先ほどと打って変わって小鳥が餌を啄ばむようにちょこちょこと串焼きを食べた。そしてザハールより先に席を立ち、ウーラに「急で申し訳ないのですが、お湯を沸かしておいてください」と恥ずかしそうに耳打ちをする。ザハールの三角耳は、その一言一句を捉えていた。


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