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生存戦略

割引あり

 十一歳の夏だった。その瞬間に俺は間違いなく真理の扉を開き、自分の人生の全てをまざまざと見せつけられていた。

 どう考えてもクソみたいな人生が目まぐるしく網膜へ衝突し視神経を闊歩し大脳皮質を渡り視覚中枢へ辿り着く頃。それは完全な確定事項として俺の脳を支配していて、その時にはまだ気付いてはいなかったものの、俺はある意味その時点でおそらく死んでいたのだと思う。

「潤、おまえホモなの?」

 水泳の授業中、クラスで一番背の高かったが俺の横でそう言ったのだった。

 その夏も確か、今ほどではないが猛暑だったのを覚えている。けれど激しい動悸と発汗は、そのせいばかりにはできなかった。

 俺がその時選んだルートは全くもってろくでもなかったが、それでも縋ってしまったのはひとえに、目の前にいるボス猿みたいなそいつからの承認が、喉から手が出てそいつを縊り殺すんじゃないかというくらいに欲しくて欲しくてたまらなかったからだ。

「……やだあ。なんで分かるのお?」

 茶化しながらそう発して笑った俺の顔は、どれほど醜かっただろう。田中は「げえっ、やっぱりかよお」と言って両腕で自分の胸を隠し、けれども慈悲深い高僧のように目を細めながら、それでいて食欲に溢れたような、今にもよだれを垂らし舌舐めずりをせんばかりの顔で続けた。

「まあ俺は、そういう奴もいてもいいと思うけどね。俺のこと襲わなければ」

 それは、当時のバカな小学生だった俺にとっては紛うかたなき福音だった。

 そうして品行方正に、人畜無害で、話の分かる、大人しい生き物であれば、生きていてもよいのだという、慈悲深く甘美な承認であった。

 あの頃なんていうのは既に(それは地域差だとか民度の差もあったんだろうが)十一歳の当事者である俺の肌感覚では〝ホモバレ=いじめ=即死〟という価値観や強迫観念は全くもって時代遅れで、俺としてはきっと石でもなんでも投げられた方がよっぽどその状況をハングリーにサバイブできたんじゃないかと思っていたのだのだが、つまり現実はそんな風にしてドラマチックに俺を悲劇のヒロインにはしてくれず、嫌なことは嫌だと訴える際に必要とされる闘志や勇気と呼ばれそうなエネルギーは全て「なに熱くなっちゃってんの?」という言葉の語尾に付いているのであろう(笑)ひとつで無効化された。

 残念ながらそんな程度には「さべつ、はんたーい!」が常識になっていたので、誰しもがボス猿田中のように悪意を軽んじた差別を行い、それが差別でありセクハラであると認知されるまでにはその後二十年はかかることになる。

 が、ひとまず今は俺といういびつな人間が出来上がってしまったことについて話を続けたい。

 確かに当時の俺は、幸か不幸かきっとホモバレしたからと言って石を投げつけられたりひどくいじめられたりするようなことはなかった。しかしそれでも、その疑惑を否定しようが肯定しようが、少なくともあと五年、高校受験で下手を打てば八年は続くほぼ同じメンツでの学校生活において、俺は悪意なき差別とセクハラを浴び続け、拳を振り上げたら振り上げたで“面倒臭い人”のレッテルをキョンシーのごとく額に貼り付けられ、孤立し憂鬱を拗らせ、自死を選んだら選んだで「あのくらいのことでどうして」と周囲を困惑させ、やっぱりキモいやつだったよね。なんて折に触れ話題にのぼり、永久に“面倒臭い人”の亡霊としてこの世に地縛されるのである。

 そんな悍ましい結末を回避するための生存戦略として俺は“キョロ充”を──まあ当時はまだキョロ充などという言葉はなく、つまりは“体制側にあらせられるおノンケ様のご機嫌窺い野郎”といったところだが──とにかく俺は半ば消去法でオープンリーゲイとして生きていくルートを選んだのだった。

 そうして俺は、中学生になった頃にはどこへ出しても恥ずかしくない立派なホモのご意見番にして批評家で評論家、つまり“名誉異性愛者”になっていた。

 当時はインターネットこそ使えても今ほど容易に欲しい情報へアクセスできる環境ではなく、またSNSなんかも発達していなかったので、俺は俺以外のホモのことなんかこれっぽっちも知らなかったし、一体全体どんな振る舞いがおノンケ様のお眼鏡に叶うものなのかさっぱり見当もつかず難儀したものだが、そんなのにはすぐに慣れた。

 何故なら俺自身と同じように、俺の周りのおノンケ様にとっても、俺がホモの全てであったからだ。

 俺の見識は、しばしばテレビの中のできごとやニュースについての答え合わせに用いられた。俺がアベレージであり俺が法律だった。俺が「どうかと思う」と言えばそれが有罪になり、俺が「気にならないけどね」といえば無罪になった。なのでクラスでの俺の地位は少なくとも教室の隅でいかがわしい漫画を回し読みしている腐女子たちよりは上で、我ながら根性悪なホモだなとは思うが、それはそれは大層気分が良かった。

 とは言え努力も必要ではあったのだ。本当のところを言えばジャッジを求められることも腐女子のオカズになることも俺にとっては等しく不愉快であり等しく腹立たしい事象ではあったものの、それをそのまま表明すればたちどころに“面倒臭い人”に成り果て不可触民として爪弾きに合うこと請け合いだったからだ。

 俺には俺のプライドがあった。正義感だってあった。自分の属するコミュニティにおいて自分が自分こそが彼ら彼女らにとって同性愛者の全てであるならば、俺は至極ハッピーでいなければならなかった。

 ホモは気持ち悪くない。ホモは普通。ホモは面倒臭くない。ホモは男子と同じように力があって頼りになって、ホモは女子と同じように繊細で感受性が豊か。何故ならホモはみんなと同じ人間だから!

 そんな姿を体現し、カーストにおいては決して一番上にはなりえなくとも、二番目か三番目くらいで「サベツ? 俺はされたことないけど、運が良かったのかな。そんなことより体育祭のポスター書いてみたんだけど、どうかな。かわいくない?」なんて言ってキラキラしている必要があった。それがモデルマイノリティとしての俺の務めであると自負していた。保身のためばかりではない。そうしたポジティブな存在として承認を受けることが何年か、何十年か先に彼ら彼女ら“おノンケ様”が出会うであろうほかの同性愛者の助けになると、中学生であった頃の俺は信じて疑わなかったのである。

 中二の春、学校に野村というやたら髪の短い女教師が新しくやってきて、俺のいたクラスの担任になった。俺はこれまで通ってきた学校にいた教師の顔なんか大概忘れてしまったが、未だに死ねと思っているそいつの顔だけは不本意ながらはっきりと覚えている。

 始業式のあと。新しいクラスで教壇に立った野村は、わざとらしいほどでかい声で「みなさん、初めまして」とおっぱじめた。

「野村佳代子です。これから一年、助け合って仲良くやっていきましょう」

 やたらハキハキ言いながら野村は教室中を見回し、白い歯を見せて笑った。

 整髪料で固められた剣山みたいな短い髪が変に光っていた。

「この学校へ来る前は、三年ほど離島の小中学校にいました。小学生と中学生が一緒に勉強している、全校生徒合わせて十人ほどの小さな学校です。なので今日は久しぶりにたくさんの生徒たちの顔を見て、少し緊張しています。大人っぽい子たちばかりだし」

 と野村は少しも緊張なんかしていないような口ぶりで言って笑いを誘った。大人っぽい子たちであるところの俺たちは、適当に「ふふふ」と愛想笑いをしてやっていた。

「何か聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください」

 野村は、自分の左腕を上げ挙手を募った。

 ボス猿田中が、いの一番に手を挙げた。

「はい。ええと──田中くん」

「先生ってえ、もしかしてレズですかあ?」

 田中は席から立ち上がることなく、ニヤニヤ笑いでそう言った。

 その周りの何人かが、一番後ろの席にいる俺をこれまたニヤニヤ笑いで一瞥した。俺は机に頬杖をつき、意味もなくシニカルな表情を作り肩を竦めて見せるのが精一杯だった。

「田中くんはどうしてそう思ったの?」

 ボス猿田中の口撃を受けても、野村は動じることなく質問に質問で返した。

「なんかあ、見た目的に?」

 田中が人をおちょくるような口ぶりで質問に答えると、野村はその白い歯を口の中へしまい、俺たち生徒を威嚇するように出席簿を教壇の上へ強く置いた。

 ばしん。と乾いた大きな音がして、教室は水を打ったように静かになった。

「そうですよ。私はレズビアンです。それが何か?」

 うわあ、面倒くせえ……。という空気が教室じゅうに充満し、それが臭くて臭くてたまらなく感じられたためか、窓際の席の誰かが窓を開け、少し冷たい風が俺の頬を叩いた。

 小五の夏と同じような動悸がして、汗で手のひらがびしゃびしゃに濡れた。

 違う違う。俺は違う。俺はああいう、面倒臭い同性愛者じゃない! 俺は空気が読めるホモ! 俺は話の分かるホモ! 皆さんの皆さんによる皆さんのためのユニークでウイットに富んだホモです!

 ああいう人もいるんだね。びっくりした。でも、普通はもっと大人しくしてるもんだと思うよ。だってほら、あんな風に気まずい空気になるじゃない。そんなのどう考えたって迷惑でしょ。そのくらい普通は弁えるよ。

 俺が必死でイメージトレーニングに励んでいる間にも、野村と田中の激しい舌戦は続いていた。

「何かっていうか別に。俺たちはそういうの別にヘンケンとかないんで」

「そうですか。偏見はありませんか。あなたは私の見た目だけを根拠に“レズですか?”と尋ねましたが、それは偏見にはあたらないのですか?」

「いや、実際先生はレズなんでしょ?」

「私が実際にレズビアンであることと、あなたが偏見という色眼鏡をかけていることにはなんの関係もないことは分かる?」

 野村と田中のいまいち噛み合わない問答はそんな風にして続いたが、田中が面倒臭そうに「は? 意味わかんないんだけど」と最後に答えたので、野村は勝ち誇ったような顔で一度大きく息を吸った。

「まだ若いあなたたちが、こんな風にして他人のセクシャリティへ土足で踏み込むことに疑問を持たずにいるというのは、本当に嘆かわしいことです。あなたたちはきっと、異性愛者とおぼしき人にはあえて同じ質問はしないでしょう。それこそが偏見なのです。それこそが差別なのです!」

 野村が朗々と演説をしている最中の顔は、田中が俺に「お前これ見て本当に勃たないの?」と言って無理やり見せてきたアダルトビデオに出て来る喘ぎ声のでかい女優に似ていた。

 女優も野村も、もしかしたら綺麗だったのかもしれない。けれど、俺の目にはどちらも完全にグロテスクなものとして映っていた。

「いや、先生。それだって俺たちに対するヘンケンじゃないんすか?」

 田中はやっぱり席についたまま、身を乗り出してそう発した。

「別に俺たち先生がレズだって全然気にしないし。別に全然、そういう人もいてもいいと思うし。ヘンケンとかないからフツーに聞いたんですけど。だって、誰だって普通に、彼氏いる? とか軽く聞くでしょ。同じノリっすよ。そういうのにいちいち突っかかってくんのって、先生の方こそヘンケンがあるんじゃないんすか?」

 そんな田中の長ゼリフは、自前の台本にはなかったんだろう。野村が一瞬だけ目を泳がせたのを俺は見逃さなかった。

「“いてもいい”だなんて、許可を得るまでもなく、私たちは“いる”んです」

「だから、いるのは知ってますって。このクラスにもホモがいますよ。なあ、潤」

 唐突に名指しされ、いくつもの視線が刺さった。俺は顔を上げ、小五の時にプールでしたようにニタリと笑った。

「え? ああ、呼んだあ?」

 俺はあえてねっとりした口調で返事をし、教室にはくすくす笑いが溢れ、野村は俺の顔と出席簿の間で視線を往復させた。

──真島くん」

「はあい」

「何かあったら、いつでも先生を頼ってね」

 と野村は、慈母のように微笑んで俺に言った。そこへ滲んでいた同情に、俺は死んでもこいつにだけは頼らないと心に決めた。

 案の定というかなんというか、野村は細かいことでよく怒っていた。

 “ホモ”も“レズ”も蔑称だから“ゲイ”と“ビアン”に言い改めろとか、女性はみな闘いに闘いを重ね権利を勝ち取ってきただとか。

 いやまあそれはそうだろうけど、どうでもよくね? というようなことで野村は、突然顔を真っ赤にしてヒスりだす。なので、いつしか彼女には“アカオニ”というあだ名がついた。

 正直なところを言うと俺は、アカオニ野村が怒鳴っている言説は全くもってびっくりするほど正しいことだと思っていた。けれど、正しいことを言っているからといってそれで世間が変わるなんてことはなく、正しい言葉や主張は、然るべき人が然るべき時に然るべき手段をもって運用するからこそ効果を発揮するのであって、つまりアカオニ野村はその点において、全くもってびっくりするほどバカとしか言いようがないと思っていた。

 だって彼女は、とても面倒臭いのだ。できれば関わりたくないと、誰しもが思っていたのだ。

 あいつの受け持つ俺のクラスは全校生徒の哀れみを集めたし、職員室でもあいつの周囲はいつも妙な空気が漂っていて、アカオニ野村はしょっちゅう他の教師と激しい舌戦を繰り広げていた。

 そういうホモに、俺は絶対になりたくなかった。

 アカオニ野村はなんだかんだで楽しそうにその瞳を憤怒で輝かせていたが、ああいうのがレズビアンなんだと思われたらほかのレズビアンはきっと「勘弁して!」と思うだろうし、もっと範囲を広げてああいうのが同性愛者なんだと思われたら、俺だって「勘弁して!」と思う。

 そのため俺は、アカオニ野村が自慢の金棒(今で言う“ポリコレ棍棒”というやつだ)を振り回し全てを破壊し尽くしたあとの被災地で、熱心にキラキラビームを照射して回らなければならなかった。

 確かに“ホモ”とか“レズ”って差別用語みたいだけど結局その言葉を使う人の気持ちひとつだから気にすることないと思うしそれより俺は言葉狩りの方がどうかと思うな。

 確かに昔は同性愛者差別もあったのかもしれないけど今こうして俺がみんなと楽しくやれてるって事実がそういうのはもう過去のハナシって証明じゃない?

 しょうがないよ先生は先生できっと昔に苦しいことがあったんだよそれをああやって発散しないと今でも苦しいんだよ可哀想な人なんだよ。

 でも時代は変わってきてるし今は俺はとても生きやすい世の中なんだなって思うしそう言う意味では闘ってくれた先生たちには感謝しないとなって思うけどでもやっぱりああいう面倒臭い人はちょっとね。

 そうだよねそうだよね面倒臭いよねでもああいうのって本当に一部の人だけだと思うし同性愛者がみんなああなんだと思われたら本当に本当に本当に困るんだよねやっぱり結局人によるとしか言えないんだけど。

 ……思い出すだに反吐が出そうだ。どうして俺がこんなことをしなくちゃならないんだと毎日思っていた。

 男とか女とかホモとかレズとか一切合切全く誰もそんなことに関心を持たない世界に、どうにかして行けないかと、毎日毎日思っていた。

 残念ながら当時の俺にはあの世以外にそんな場所が思い浮かばなかったのだが、とりあえず高校はバカのいなさそうな遠くの私立へ行こうということだけは決めていて、俺は周りに比べると随分早い内から受験に備えて机にかじりついていた。──が。

 俺はその第一志望の私立に落ちた。

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