いま、ここ「足るを知る」がわかった気がする①
こんにちは!
ブラジル🇧🇷大好き💖くみこamobrasilです🥰
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https://note.com/kumikobrasil/n/n4e61ee270718
ブラジル人は「今を生きる」が上手だ。
上手って言葉は的確でないかもしれない。
なんというか、今をあせって生きている感じがしない。
「今」をちゃんと生きている気がする。
何ヶ月か前から「足るを知る」という言葉(老子の言葉なのだけど)が、頭の中で何度も浮かぶようになった。
この言葉をみなさんはどういう意味だととらえているんだろう?
私がとらえている意味は後で書くとして。。。
今年に入ってから父が逝去した。
2年ほど前から体の具合が良くなかったし、父本人が「もう長くない。」とさんざん言っていて、
でもこの父からの「もう長くない」は15年ほど前からずっと聞いていて、
だから何度聞かされても「はい、はい」と答えていたのだけど、去年くらいから本当にそろそろかなぁと思うくらい食欲もなく痩せてきていた。
病院に行ってもこれといった病名もつかず、ようするに体が死に向かって変化し始めたのだ。
老衰、もしくは自然死に向かって。
人間は年を取って死に向かう時、まず食欲がなくなり、だんだん痩せていき、体力がなくなり、布団にいる時間が長くなり、意識が朦朧としていくものなのだなぁ、それが自然で、結局のところ人間も生きものなのだなぁと、当たり前のことだけど、
悲しいという思いが心を100%満たすことなく、生きものの死にゆくまでの自然の姿を見せてもらっているようだった。
そして、父の体は無くなり、骨のみとなった。
肉体という物体が消えたのだ。
当たり前のように父の部屋にあった父の肉体はもう見えなくなっていた。
それまで、喘息気味の父のために父の部屋に入れずにいた猫が、むしろ猫自身が空気を読んで決して入ろうとしなかった父の部屋に、父の肉体が無くなった途端、そろそろと入るようになり、今では日当たりのよいその部屋の座布団の上に猫たちは当たり前のように昼寝をするようになった。
猫自体を父は好いていたので、肉体がなくなった今、父は思う存分近くで見れるかもしれない。
けど、触れることはできない。
私は触れることができる。
猫の毛並みのつややかさ、肉体の柔らかさ、体温を手に感じ、
猫の重さをこの腕に感じ、
爪の食い込むのを肌に感じ、
猫の毛の中に鼻を突っ込み日向の匂いをかぎ、
猫の鼻の冷たさを自分の鼻に感じ、
猫の舌のザラザラした感触を手の甲で味わい、
私を呼ぶ愛らしい声を聞くことができる。
なんて、奇跡で、なんてありがたく、幸せなことなんだろう!!
と思ったら涙が出てきた。
私は時々、というか、月に1回は決まったように、生きていることが、肉体があることが恨めしく思うことがある。
けれども、肉体があるからこそ、私は猫をなでて気持ちよさを味わうことができるし、
猫だけでなく、
友達や恋人と語っていろんな思いを共有したり、
花の美しさ、自然の美しさに感嘆し、その香りをかぎ、
海や緑や自然や、人々がつくるいろんなものが存在しているこの世界に、
一緒に存在することができるのだ。
この世界でないと体験できないこと。
なんてすばらしいことなんだろう!!
そしてすべての目に見えるものは永遠ではない。
花も枯れるし、私の肉体も、誰かの肉体も、いつかはみんな無くなるのだ。
そんな、あたりまえだけど、あたりまえすぎて、あることが普通であるように思ってしまいがちなことは、
実はこの一瞬一瞬が奇跡で成り立っているのだ。
それを、なんというか、頭でなく、もっと深い違うところでガッツリ感じた。
そうすると、本当に、感謝しかないんだな。
長くなるので、続く。