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呼吸にまつわるトレーニングプール ープロジェクトについて話しますー

7月31日に配信された批評誌ゲンロンのプラットフォーム「シラスチャンネル」での「上田久美子の演劇理想ロン」配信第二回目の内容をお届けします!今回は8月の城崎国際アートセンターでのプロジェクトについて竹中香子さんと対話しました。城崎国際アートセンターのプロジェクトは8月14, 15, 16日とオープンスタジオ(http://kiac.jp/event/2999/)が予定されています。お近くの方、お時間ある方は、無料ですのでぜひご参加ください!


菱田

皆さんこんにちは、アシスタントの菱田です。今日も来ていただいてありがとうございます。第3回の放送ということで、今日は上田久美子さんと竹中香子さんのお二人がこの8月から城崎国際アートセンターでのアーティスト・イン・レジデンスで取り組む「呼吸にまつわるトレーニングプール」についてのディスカッションする様子をお届けします。


上田

皆さんこんばんは、上田久美子です。「上田久美子の演劇理想ロン」をご覧いただきましてありがとうございます。今日のゲストは竹中香子さんです。
私たちは今、滋賀県の「芸術準備室ハイセン」というレジデンス施設に来てます。泊まり込みで滞在して作品を制作できるという場所です。ただ今回は、今日お話しする「呼吸にまつわるトレーニングプール」のための滞在ではありません。竹中さんと太田真吾さんのハイドロブラストという団体が作られた「最後の芸者たち」の稽古で五日ほど滋賀に滞在しています。この作品は今度パリのフェスティバル・ドートンヌで上演される予定で、大変素晴らしいニュースです。
すでに日本で一度上演された作品なんですが、パリでの公演はリクリエーションバージョンということになります。日本からフランスへと客層が変わるのでフランスのヨーロッパのお客さんたちに合わせるような形でリクリエーションして、それを上演します。私もパリでの上演にスタッフとして立ち会う予定です。


竹中

こんにちは。竹中香子です。上田さんには『最後の芸者たち』について、外から見てご意見を言ってもらうのと、あとはその字幕オペレーションなどもやってもらっています。今までも、私と太田さんの作品だったり、私の作品だったり、コラボレーションとまではいかなくても、上田さんにはちょくちょく相談して、いろいろご意見聞いてきました。それで、協働がスムーズにいってるので、それで今回もお願いしました。私達からもいろいろ上田さんに依頼してるっていう状況ですよね。


上田

そうですね。この滋賀の滞在が終わったら、ここからみんなで城崎に一緒に行きまして、それで今度は私の「呼吸にまつわるトレーニングプール」のアーティスト・イン・レジデンスのプロジェクトに入ります。全然芸者とは関係のないプロジェクトですが、今度太田さんも竹中さんも出演者といいますか、私と一緒にナビゲーションするクリエイターとして参加してくれます。持ちつ持たれつやっております。でも本題に移る前に、私達はいつ出会ったのか、というところから始めますか。


竹中

私はもうフランスに10年以上住んでるんですけど、上田さんがフランスに1年間在外研修でこられた関係でご紹介いただいたんですよね。それでたしかタイ料理を食べたのが初めですよね。でもその前に私の作品とか上田さんを見てくれてたんですよね。


上田

私が最初に竹中さんを知ったのは、京都芸術センターでの公演で市原佐都子さん「妖精の問題」っていう作品でした。本当に衝撃的な素晴らしい作品だったんですけど、2018年だったと思います。


竹中

ほぼ1人芝居のやつですね。膣でヨーグルトを作るみたいな場面があったんですけど、ヨーグルトを作るところで助手の女の子みたいな大学生の子がいて、それ以外は私が1人で演じた作品ですね。


上田

すごくアバンギャルドな作品でした。市原佐都子さんは今、城崎アートセンターの芸術監督になられている方で、演出家なんですけど劇作家でもあります。私は、市原さんが本当に大好きで、もうただのファンです。あの時、私は市原さんの作品を見て衝撃を受けました。それから名前も聞いたことのない女優さんがいるなと思って、それが香子さんだったんです。なんて言ったらいいんでしょうか、すごい確信を持って演じてるという感じでした。かなり過激な、私だったらこれをお客さんに全部ぶつける勇気を持てるかどうか考えてしまうきわどい作品なのに、それをものすごく自分の中から、やりたくてやろうと思ってるからやってるっていう強い感じがしたんです。フランスで俳優活動をされてる人だから日本では知られてないんだなと思いました。


竹中

他の作品で『蝶々夫人』という作品でもツアーをしたんですけど、私が市原さんだと思われるみたいなことがありました。私が戯曲を書いたわけではなくても、一人称だったりすると、お客さんは私が描かれた人と同じように思っていると考えて、「市原さんですか?」みたいなふうになるっていうことは非常にあります。


上田

演出家が自らが言いたいことを自分で演じる、場合によっては脱いで全裸で演じるみたいな方が海外だといらっしゃいますね。竹中さんはそういういい意味の自作自演の演出家なのかと間違われるぐらい、他者の作った作品を主体的に演じておられる気がします。
日本だと私の偏見かもしれませんが、俳優さんは役の器というか、容れ物みたいに演出家の人の言うことを無の状態で受け入れてやってくれる人という印象があります。そこに自分をそれほど加味してこないというか。香子さんはそれとは少し違うと感じています。


竹中

そうですね、私は大学を卒業して、フランスに行ってフランスで演劇教育と言われるようなものを受けて、今自分も教育者の資格を取って教えたりしてます。フランスの演劇教育で一番印象的だったのが、演出家は演技指導者ではないという考えなんです。あくまでも作品の演出家であって、その俳優とその演出家にヒエラルキーもないし、単純に専門性が違う。だから演技に関しては私達の方が専門性があるから、その演出家がやりたいことに対して演技の面からだったらこういうことはどうですかというプロポーザルをする、そういうことをすごく求められました。

日本では役者はいかに演出家のやりたいことを具現化する有能な器になれるかみたいなことが重要になってしまっているような感じがあります。ただ私のスタンスは違うので、私と一緒に仕事をしたい演出家も、俳優さんの意見を聞きたいというタイプの人が多いです。上田さんとやるときも、上田さんが書いたものに対して私はこうしたいみたいなやり取りができています。そういうやりとりを面倒くさがらない演出家の人とやることが増えました。


上田

それは、私にとってもすごくありがたいことです。私自身、自分自身が俳優だった経験もなかったり、演劇系の専門教育を受けてこなかったから、教えようと思っても教えられないっていうところもあり。


竹中

上田さんに対する憧れといったらいいのか、俳優が上田さんといつか一緒に仕事をしたいと思ってたら、やっぱりどうしても現場に入ったときに上田さんから与えられるものを求めてしまうというのはあると思います。上田さん側の指示だったりとか、「あなたはもっといけるでしょう」みたい感じで叱咤激励してほしい、変えてほしい、みたいな欲望を俳優は持つかもしれません。私はあれで一皮むけましたみたいな。ただ協働のありようは本当はそれだけではないと思います。


上田

コラボレーションで一緒に作るときは、対等に意見を持ち寄って、内容が思ってたのとちょっと変わっていく方が面白いんですよね。1人の1人の思想って結構狭いので、それが広がるというのがわたしには有難いです。

竹中

上田さんとその他のプロジェクトもいろいろ進行してますけど、権力を持てるのにあえてそれを手放す勇気というのか、そういうものをいつも感じます。

今回協働している作品では、フランス人の俳優さんを相手に上田さんがこういうことを試したいんだよっていうのをいろいろやってみたことがあったじゃないですか。もしあの時、日本語で上田さんが指示して、通訳とかつけていたら、上田さんの権力はもっと保たれたと思うんです。だけど、あえてフランス語が少し拙かったとしても、フランス語で自分が指示をして、フランス人の俳優さんたちに動いてもらうみたいな様子を見ていて、あえて今権力を手放しそうとしてるんだな、勇気あるな、みたいなのはすごい感じました。


上田

言葉は全部相手を型にはめることをやってしまうようなところがあって。言葉数が多くなると、逆に世界が狭くなるなっていうことがあります。だから逆に言葉を使えないっていう状況、そういう弱者になるというのはすごく大事なことだと思います。

私と竹中さんの思い出話はこれぐらいにしまして、本題に入るクッション、これはですね私が人生で初めて作っているぬか床です。ちょっとぬか漬けの話をしたいと思います。

実家は田舎だったので、おばあちゃんとお母さんがぬか漬けを作っていて、漬物部屋という専用の臭い小部屋すらありました。このプロジェクトをやり始めて、醗酵に興味を持ってぬか漬けを作ってみました。バクテリアなどの生き物に最近興味を持っています。

演劇は人間たちが言葉を使って人間だけで情報交換するメディアで、劇場はもともとは野外劇場だったと思いますけど、でも今はびっちり密閉されて明かりも全く入らない最高度に人工的な空間じゃないですか。そういう中で人間たちが、人間の言葉で人間だけにわかる演技をして、それを他の人間の観客たちが見てうぉーってなるみたいな。愛憎と言ったらいいんでしょうか、誰かを愛してるから殺す、とか、敵国から滅ぼされたから復讐をする、とか。そういう人間の世界の利害関係とか欲求の世界を巡って、すごいエネルギーを役者の人たちが発して、それを観客が見て、何らかのバイブレーションを交換して盛り上がる、みたいなことをやってるわけじゃないですか。

もし私が人間以外の動物として立ち会ってたら、結構怖いなって思う気がしたんですよね。この人たち熱いけど、わけわかんないし怖い、みたいになると思って。ちょっと変な人間中心主義の黒ミサみたいなのを執り行ってるみたいに感じて怖いだろうと思ったんですよね。他の生き物からしたら排他的に感じるような気がしました。

世界を考えた時に、気候変動が起きたりとか、世界がこのまま今の方向に進んでいったら、危険だと思いました。そんな袋小路に入り込んでいってるときに、結局今までと同じような物事の感じ方とか見方をこのままし続けていっていいんだろうかという気がしてきました。ある国が滅ぼされて民が殺されその嘆きのために…みたいな古の悲劇がやってきたことが、人類たちの今のこの状況にどのように影響したり、どのように役に役立つのか、よくわかんないなって思ったんですよね。

演劇作品で取り上げられた場面の中には、実際には他の植物とか、バクテリアとか動物とか他の生き物たちも存在しているわけです。今度城崎でやろうとしているのは、シェイクスピアでオフィーリアの溺死するっていう場面をピックアップしようとしてるんですけど、オフィーリアの周りには人間である彼女だけではなくて、水の中には魚もいれば柳の木もあれば、そういった他の生物たちもいる自然界なわけなんですけれど。とはいえ戯曲の中ではそうしたことは描かれていません。

人間の観点から捉えると悲劇的なヒロインの死ですが、その世界には別の生き物にとっては全然違う時間が重なって流れているんですよ。そういうことを、演劇を見つつも、そこには同時にそういう他の生き物たちの時間があると感じられる作品をやれないかなって思いました。

一方、別の機会にエマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学』っていう本をよみました。最近アート界でもかなり取り上げる人が多いんです。その中では、人間にしろ他の生物たちにしろ、みんな大気という一つの大きなプールの中で泳いでいて、それで呼吸というものを通して常に物質を交換し合ってるということが書かれていました。私から入った二酸化炭素を植物が取り込んで、自分の体の一部を作って、また植物が酸素を出しそれを別の生物が利用して体を作っている。つまり、世界は一つの大気という媒介を通して一つの何か大きな全体を成しているみたいな本なんですけども。そういう考えは興味深いと感じました。

竹中

それは大きな世界は大きな一つの身体っていうことですか。

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