正しさの証明と尊厳を守り寄り添うという事とは?

記事を書く前に。

亡くなられた生徒さんのご遺族皆様に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、故人の安らかなるご永眠を心よりお祈り申し上げます。

今回の件でメディアの偏向報道以外に、もう一つだけきちんと言葉にしておきたかった事、それは死と正しさの証明、そして尊厳を守るということについてです。
下記の記事では死や自死という言葉に触れている文章が多数出てきます。
わたしの中でいま1番強く訴えたいテーマなので少し厳しい表現だと感じる部分があるかもしれません。
現段階でセンシティブな内容に触れる事に抵抗がある方はどうか自衛をお願いします。





衝撃的なニュースに誰もが胸を痛め、混乱し、そしていまだ深い悲しみの中にご遺族や関係者の方々がいるのはもちろんですが、それ以外にもその悲しみを共有している方は大勢いらっしゃると思います。
ファンは当事者ではないけれど、それでも全くの無関係ではなく、それぞれの立場でその悲しみを共有している存在であるとわたしは考えます。
だからこそSNSではたくさんの熱心な意見が飛び交い、時にはその熱心な気持ちがヒートアップしすぎて誹謗中傷へと発展してしまうのかもしれません。
なぜそれほどまでに気持ちが白熱してしまうのか。
それはきっとご遺族への強い「共感」なのだと思います。
ファンの中には亡くなられた方を応援していた方、子供さんをお持ちの方、亡くなられた方と同世代の方など共感しやすい環境にいらっしゃる方はとても多いと思います。
一方的にではありますがこれまでわたしがポストを拝見したり、観劇のブログを読ませて頂いていた方々もその悲しみに共感されている方が実に多いように感じています。

ニュースの一報が入ったばかりの頃は皆ただ嘆き、悲しみ、困惑しているばかりでしたが、少しずつその空気が変わり始めたのはやはり例の週刊誌が出た頃からでした。
それまで劇団や亡くなられた方が属していた組の方々を心配していた声が気が付けば徐々に二つにわかれていき批判に転じる方も出てきました。
中には誹謗中傷にまで発展する方々も少なくはなかった。
それはきっと彼女の死に憶測であっても「理由」がついたからでしょう。
その理由の真偽は今よりもっと不確かなものであったあの当時でも、週刊誌の内容を用い断定的に個人を批判する人たちが多くいたことを覚えています。


しかしなぜここまで偏向した論調が世論で加速してしまったのか。
その理由の一端には前回の記事に記したような理由があると思います。
しかし、それだけではなく、ご遺族への「共感」の過程にも世論が加速した大きな理由が隠されているとわたしは感じています。

前述したようにファンの中にはご遺族の悲しみに強く共感する境遇の人たちが大勢いらっしゃると思います。
もちろん共感することがご遺族の悲しみに寄り添う事の一つになるのは間違いないでしょう。
しかし共感し過ぎる事は時にその判断を鈍らせ、弊害をもたらすことがあります。

共感には大きく分けて情動的共感と認知的共感の二つの種類があることはご存じでしょうか?

・情動的共感とは
相手の情動や感情を自分の情動や感情として写し取ること。
つまり相手の情動や感情を追体験するような共感の仕方です。
・認知的共感とは
相手の情動や感情を自分のものとして写し取ることなく相手の状態をただそのまま理解するという共感の仕方です。

並べて見てみると情動的共感は共感性が高く、認知的共感はすこし他人事のような冷たさを感じてしまうかもしれません。
共感性が高い方がよりご遺族のお気持ちに寄り添えていていい事のように感じますが、今回のような社会的問題を考える時には、共感性が高いことが必ずしもいいとは限らないという考え方があります。
わかりやすく言うと、感情移入しすぎることで中立の立場を見失い、公正な判断ができなくなるという事です。
そして時には情動的共感の結果なされる援助が他者への攻撃につながることもある。
そう考えた時に、攻撃的な論調や誹謗中傷がおこってくる原因にはその共感の種類が無関係ではないとわたしは考えました。
※「共感」についてはわかりやすく書かれたコラムと著書があるので文末にてご紹介させて頂きます。

世論がこれほどまで感情的に突き進んでしまったのは、偏向報道に扇動された結果と、もしかしたらご遺族に寄り添う中で、その共感性の高さ故に生じた弊害なのかもしれないという一つの仮説に辿り着いて少し複雑な気持ちになりました。

そしてそれは劇団やそこに属する人たちに情動的共感をする人達にもいえる事です。
同様の事態が逆の立場においても起こってくる危険性を多分に孕んでいます。
その事をしっかりと心に留め置いて、件について意見を述べる時にはファン一人一人が十分留意していかなければならないでしょう。

「もしわたしがこの立場だったら…」「もしこんな事を自分が言われたら…」そんな風にどんどん当事者の気持ちに共感を深めていく事が追体験へと導き強い怒りや悲嘆に陥る原因なのでしょう。
ここで注意しなければならないのはわたし達は当事者ではないという事。
わたし達はあくまで第三者であり、当事者の輪から一歩下がった場所で、必要な時に手を差し伸べられる援助者として存在することが寄り添う事につながるとわたしは思います。

さてここから先は冒頭にも書いたように「死」という事に関連する内容を記していきたいと思います。
目に入れたくない方はここでブラウザバックをお願い致します。

まず最初に、今回のご遺族側と劇団側の主張の食い違いについてわたしの私見を述べておきます。
前回の記事にも書いたようにわたしはどちらか一方の語る事実が100%の事実であるとは思っていません。
その理由は前回書きましたので簡単に書かせて頂くと事実は一つでも関わった人の数だけ捉え方は無数に存在すると考えているからです。

この考えはご遺族側の代理人会見が数回行われた今もわたしの中で変わる事はありません。
わたしがこの考えを変える事があるとすればそれは裁判で詳細な情報が開示され公正に判断された場合かもしれません。
けれどそれでも事実としては十分ではない。
残念ながら亡くなられた彼女の言葉を二度と聞くことができない今となっては、100%の事実に辿り着けることはもう二度とないと思っています。

なので、ご遺族側の主張こそが絶対の真実であるとおっしゃる方々の意見には賛同しかねます。
何を根拠にその主張が全面的に正しいと言えるのでしょうか?
これも前回の記事に書きましたがきっと根拠として彼女の死こそが証明であるという声が上がるでしょう。
それを否定してしまっては亡くなった彼女の尊厳が守られないではないかと。
ただこの思考こそ今回の問題に向き合うにあたり、とても危ういものだとわたしは思っています。

大前提として亡くなられた彼女の尊厳を守る事と主張の正しさを公正に判断する事とは全く別のところにあります。
ご遺族の主張すべてを肯定することが亡くなられた彼女の尊厳を守るという事では決してありません。
むしろそのことはきちんと切り離して考えなければならない問題です。
なぜならそれを切り離して考えなければ死を正しさの証明にしてしまう事になってしまうからです。
これはとても危険なことです。

話は少し脱線しますが、過去には自分の思想の正しさや身の潔白を世論に訴えるために自死を選んだ方達がいました。
それは死を「正しさを証明する手段」として選んだ結果の出来事です。
これを目の当たりにした民衆は、何よりも尊い命と引き換えに故人はその正しさを訴えたかったんだと推測するでしょう。
それによってその主張こそが正しいに違いないと錯覚してしまう。
この心理こそいま世論で巻き起こっている流れに似ているように感じるのです。


どんなに考えても実際は彼女の亡くなられた理由がどこにあるのか、その真実をわたし達は知ることができません。
それにもかかわらず、メディアは彼女の死をその後のご遺族の訴えの「正しさを証明するもの」として扱っているように見受けられます。
それは特にニュースの見出しなどで顕著に表現されているのではないでしょうか?
そしてそんなメディアの幾多の報道を目にした人々は、これこそ彼女の自死の原因に違いないと推測するでしょう。
その結果、ご遺族の訴えこそが全て真実であると思うようになる。
こうやってその訴えを否定する証言は意識的または無意識的に否定され黙殺されてしまうのです。
何度でも言いますがこれはとても危険なことです。
遺族側の訴えにのみ耳を傾け、彼女の死を理由に全てが正しいと判断してしまったら、死が正しさの証明になると世論が認めている事になってしまう。
もしそれによって自分の正しさを証明する手段として「死」をとらえる人が出てきたなら、自分の正しさを証明したい誰かが次に死に赴いてしまうかもしれない。
そんな事、絶対に起きてはならない事ですが、もしそんな事が起こってしまったなら、、、
それは、ご遺族の主張こそが全て正しいと煽り立てたメディアと、それに同調した世論がそのシナリオへの道筋を立てたと言っても過言ではないでしょう。

全ての人にとって平等であり尊い命。
その重さは誰であっても等しいはずです。
もしそのような二次被害が起こってしまったら双方の正しさは何をもって判断できるのでしょうか?

きっと誰にも判断などできないはずです。
当たり前です。
命の重みに優劣などつけられるはずもない。
いいえ、命の重みに優劣などつけてはならないのです。
だからこそそんな二次被害が起きないよう、その要因を社会が創り出してしまわないよう、わたし達は中立の立場で慎重に判断しなければならない。
そして彼女の死を正しさの証明として何が正しいかを判断したり、ほかの誰かの意見を抑え込んだり、ましてやその意見を切り捨てたりする事を良しとする論調を許してはならないのです。

それでは彼女の尊厳が守られないではないかと思う方もいるでしょう。
でもそんな事はありません。
本来、彼女の尊厳を守るためにわたし達がしなければならない事は、彼女の生前を偲び、その魂の安らぎを祈る事、そして今回の件について憶測を流布したり誹謗中傷したりして彼女の名誉を傷つけないという事です。     

それから忘れてはいけないのは、尊厳が守られるべきは亡くなった彼女だけではなく、いま渦中にいる全ての人々においても同じであるということです。
そこをないがしろにしてしまっては本当の意味で公正な結果を導きだす事はできません。
その事をいま一度よく考え、冷静にこの問題と向き合うことをわたしは強く訴えていきたいと思い書きました。


彼女が亡くなられてから約2か月半という月日が流れました。
ご遺族が今もなおその深い悲しみの淵にいる事は間違いないでしょう。
そしてそんなご遺族の思いに共感しながら寄り添うことはなによりも優先される大切な事です。
ただその一方で、当事者ではないわたし達は少し冷静になり、もう一方の大切な命にもきちんと目を向け寄り添っていく必要があります。
なぜなら現役の生徒さんやその関係者もまた仲間の死と今の状況に過分な影響を受けている事は間違いないからです。
わたし達ファンが彼女達やその関係者にまずしなければならない事は、劇団の改革について私見を押し付ける事でも、ご遺族との話し合いの内容に口を挟みどちらか一方を糾弾することでもありません。
まずは認知的共感によって双方の心に寄り添いつつ、世論から浴びせられる誹謗中傷や不当な私刑には毅然とした態度で冷静に異議を唱えていくことではないでしょうか?

わたしはそのために自分に何ができるかを考えていきたいと思っています。


【参考文献】
共感性が高いと危険である? | 心理学コラム | 日本女子大学 心理学科 オリジナルWebページ (jwu-psychology.jp)
■「反共感論―社会はいかに判断を誤るか」白揚社 2018.2.2出版
ポール・ブルーム (著), 高橋洋 (翻訳)