向き合い続けた6か月

記事を書く前に。

亡くなられた生徒さんのご遺族皆様に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、故人の安らかなるご永眠を心よりお祈り申し上げます。

以下に書くのは宝塚の今回の報道についての私見です。
目にしたくない方は自衛をお願いします。






ご遺族と劇団との間で合意書の締結がなされたと報じられてから約2週間。
なかなか纏まらない思考をゆっくり紐解きながら今回の件について自分の気持ちを整理し向き合っていくうえで文章として書き留めておこうと思います。

今回の件についてその詳細は当事者間で合意がなされたわけですから、わたし達第三者が事の詳細を細かく上げ連ねて議論する必要は全くないという事を大前提に話を進めていこうと思います。
この記事は単に今回の出来事に関する一連の流れとそれに関連する報道、また世の中の現状を第三者としてどう受け止めどう感じたかという私の備忘録のようなものです。



週刊誌と偏向報道

今回の事件においてその直後から不自然なまでに、かつ執拗に絶えることなく書き連ねられるセンセーショナルな週刊誌記事は世論を煽り激しい誹謗中傷にまで発展する要因を作りました。
記事の内容の信憑性について論じることはしません。
というよりできません。
なぜならわたしは週刊誌の記事をきちんと読んでもいませんし、読んでいたとしてもただのファンにすぎない私には記事の真偽について論じられるほど根拠となるものを持っていないからです。
ただ記事の内容のすべてが100%嘘偽りなく正しいとは全く思いません。
なぜならこれまでの週刊誌に纏わる裁判や編集者側の発言を鑑みると100%真実のみで書かれているとは到底考えられないからです。
もし、今回に限っては100%の真実であると思っている人がいるのであればその方はとても迷信家なのかもしれません。
週刊誌を妄信しているような方の意見もいくつか目にしましたが、なぜそこまで強い信頼を週刊誌におけるのかわたしには理解する事ができませんでした。
後に会見や報告書で明らかになった内容と似通った部分があったにせよ週刊誌の記事そのものが今回の件の全てを正確にかつ公正に示しているものであるというのは間違いなく幻想です。
彼らの記事はいわば営利目的。
消費者の興味を引くために様々な脚色がなされているのは想像に難しくなく、週刊誌が100%の真実の代弁者であるはずがないのです。
むしろ今回の件について週刊誌はただエンターテイメントとして彼女の死を消費したにすぎないと考えていますし、わたしはその事に激しい嫌悪と深い憤りを感じています。

そしてもう一つ、わたしは今回の一連の報道にも常に憤りを感じていました。
その理由は言わずもがな、度重なる偏向報道です。
どのメディアも同じ方向を向き一切中の声を報じない報道姿勢にメディアへの不信感は一気に高まりました。
第三者のリスニングによる報告書が公開になってもそれを元に両論併記したメディアをわたしは1つも確認できませんでした。
それどころかその報告書の掲載をとりやめた時には、劇団からその理由についてアナウンスがあったにも関わらず、ご遺族側の要望であったことを報じなかった。
掲載のとりやめの是非についての議論はしませんが、掲載をとりやめた経緯をメディアが報じない事により、あたかも劇団側が不都合だから取り下げたかのような誤認を一部で生じさせた。
その原因をつくったメディアの責任はとても重いと思っています。
ただ前回の偏向報道の記事にも書きましたがそうなったのはもちろん劇団側にも大きな要因があったと言わざるをえません。
しかしながら世論が異常なまでに過熱する要因を作ったのは間違いなくメディアの偏向報道にもあると考えています。


私見と誹謗中傷

このような状況に煽られ世論が加熱する中で、わたしが一番心を痛めたのはファンと自称する人達のあまりにも酷い誹謗中傷の数々でした。
みなそれぞれの立場で今回の件に胸を痛め傷ついたことは間違いありません。
わたしもその中の一人です。
しかしご遺族の気持ちに寄り添うあまりに加害者とされた生徒に対して目に余る誹謗中傷を重ねるSNSには眉を顰めました。
例え私見であっても発してはならない言葉があります。
正式な裁判記録があるわけでもないものをメディアの情報だけで断定的に語り断罪するなどあってはならない事です。
正義を言い訳に節操なく発せられる辛辣な言葉の数々を眺めながら、当事者や関係者の心情を思い二次被害への不安を募らせていました。
その不安は当事者間で合意がなされた今も拭い去る事はできないほど未だにSNS上には酷い誹謗中傷が蔓延している。
これは実に残念な事です。
そしてそれと同時に、誹謗中傷を受ける当事者や関係者を心配するあまり、過激な言葉で応戦する一部のファンの言葉を目にすることもありました。
わたしはその事にも酷く胸を痛めました。
例え誰かを守るためであってもその言葉が誰かを誹謗中傷するものになるのなら言うべきではない暴言です。
SNSは自由に誰もが世界に向けて発言することができる場所です。
それは便利な反面とてもリスクを伴っている事を今一度考えて欲しい。
何度でも言いますがどの立場においてもどんな信念や正義があるにせよ誹謗中傷をするのは犯罪です。
一度ネット上に発してしまえば例え削除したとしてもそれはデジタルタトゥーとなり未来永劫ネットの世界に残ります。
言葉は刃物よりも鋭く人の心を傷つける。
正義は人を傷つけるものであってはならないはずです。
ご自身が正義だと盲信して発する言葉が誰かの心や命を危険に晒していないか、いま一度冷静になって考え直して欲しいと心から願っています。
ただこのよな結果を招いたのも間違いなく劇団のクライシスマネジメントの脆弱性によるものでありその責任はとても重い。
今回、合意書の文末で呼びかけてはいるようですが残念ながらその効果は全く得られていないように感じます。
これ以上、言葉の暴力やネットリンチによって傷つく人がでないよう速やかに適切な対応をして欲しいと切に願っています。

認知バイアスと管理者責任

今回の件で劇団は全面的に管理者責任を認め謝罪しました。
これについて加害者とされた生徒を守るための建前だと一部では批判する声も上がりましたがわたしは全くそうは思いません。
なぜなら今回の問題における重要なリスクファクターは過密な労働環境と生存者バイアス*1に基づき長年変わらずに受け継がれた伝統であったと考えていますし、それは渦中の組だけではなく宝塚全体に昔から存在している問題であると認識しているからです。
人は閉鎖的な環境にいればいるほど認知の歪みを修正する機会を失います。
ましてやそれが伝統であるというのなら修正するのは難しかったのではないでしょうか?
加えて現場の誰もが過密な労働環境に置かれていたのですからなおさらです。
だからこそ通常は第三者的な管理責任者という存在があるわけですが、現場任せの運営であったのならこの責任者がきちんと機能していたとは考え難く、これでは認知の歪みを修正できず時間に追われ激務をこなす現場は突き進むしかなかった。
その長年の蓄積によって生まれた軋轢が今回の件に繋がったという意味で運営側に全面的に責任があるとしたのではないかと推測しています。
伝統という名に隠れた歪みに気づき、向き合う機会を物理的に与えるべき存在であった管理者がそれを長年にわたり怠っていた、その事の重大性に気づいた劇団の真摯な反省の表れであったと思うと今回の謝罪はとても大きな一歩のように感じました。

ただ忘れてはならないのは認知の修正を阻害したのは少なからず世の中の伝統への肯定もあった事は確かでしょう。
なので今回の件でみなが一斉に苦言を呈しバッシングしている姿には違和感を覚えます。
メディアはこれまでその厳しい伝統を肯定し、時に面白おかしく、時に感動を見出すように報じていましたし、わたし達ファンにしても厳しい伝統を美談として語り肯定していた側面もあったはずです。
今回に限っては全て例外で宙組だけが異常であったから事件が起こったと語る人々もいますが、そう思う事で自分や自分の大切なものを守りたいという一種の認知バイアスにすぎないとわたしは考えていますし、実際はいつどの組で起こってもおかしくない問題だったのではないかと感じています。


厳しさの尺度

伝統を継承していく場において様々なジャンルで度々問題となるのがその指導のあり方ですが、内部に精通している人間以外にはそれが適切であったかどうかを正しく判断するのはとても難しく、こと専門分野においては単純に一般常識と照らし合わせて過剰なものかどうか判断できない部分が存在する事は確かです。
ただし例外があるにせよその全てがエビデンスに基づくものでなければその正当性は認められません。
愛ある厳しさという曖昧な基準は双方にリスクしか生まないという事は肝に銘じた方がいいでしょう。

また一般論として、厳しいと聞いて想像する厳しさは人それぞれなように、厳しさの尺度は個人によって様々です。
一般的にクローズアップされるのは指導する側の厳しさであり、それを緩和する事こそが改善であると言われがちですが一概にそうとは言い切れません。
両者の関係性にもよりますし、双方の事象に対する認識のズレが大きければ大きいほどその厳しさの正当性は当事者間で食い違います。
それを埋めるためには事象に対する認識のズレを修正し、確かなエビデンスを用いること、そして第三者による的確なサポートが必要であると考えています。

最後に

再三申し上げていますが片方だけの主張が全ての事実であるとは全く思っていませんし、何より自死に至った本当の理由は彼女にしかわからないと今でも思っています。
その理由を第三者があれこれ推測しても事実には一生たどり着けないでしょう。
もどかしいけれどそれが現実です。
にもかかわらずあれこれ理由を詮索し真偽不明な噂話を流布する人やエンターテイメントとして消費するメディアには辟易しています。
また彼女の死に乗じて私見を振りかざし誰かを断罪する事に酔いしれている人々を非常に残念に思ってもいます。
わたし達が知り得る情報など物事のほんの一部に過ぎないことを理解できない人があまりに多すぎる事に驚きを隠せません。
上から眺めれば丸く見えた物でも側面から見れば三角に見える。
立ち止まって一面だけを見れば綺麗な表面もぐるりとその周りを回れば欠けて歪な一面もみえてくる。
物事とはそういうものです。
だからこそわたしは今回の件で特定の誰かを断罪する事などできません。
それを妄信だとかお花畑だとか馬鹿にされることに苛立ちを覚えないわけではありませんが、物事の一面しか見えない不確かな状況で誰かを断罪するような過ちを犯したくはありませんし、ましてや誰かを断罪できるほど自分が清廉潔白だとも思っていないからです。


今回一貫してご遺族が劇団に求めたのは宙組の解体や公演中止でもなければ責任者への断罪でもなく、環境の改善や関係者からの『謝罪』でした。
それ以上を求める事もできたはずですがそうはしなかった。
わたしは子を持つ一人の親としてこれは凄いことだと思っています。
何故なのか、その心の内はわたしには想像する事しかできませんがきっとわたしたち第三者には語られない部分にその真意があるのでしょう。
今回ご遺族は劇団や関係者に赦しを与えました。
そしてご遺族が赦しを与えたのであれば第三者である我々はそれを受け入れただ見守るだけです。
納得できず失望し離れていく人もいるでしょう。
その赦しの尊さに触れ静かに寄り添う人もいるでしょう。
どんな判断を下すにせよ全ては個人の自由であり誰も責めることはできませんし、誰からも責められるべきものではありません。
ただし怒りのままに誰かを傷つけ続ける人達は彼女の為でもご遺族の為でも誰の為でもなく、ただ自分の怒りを自身で昇華できないという問題と向き合うべきではないかと思います。

わたしは今後、劇団がどのように再生していくのか、わたしなりのスタンスで寄り添い見守っていきたいと今は思っています。

改めて彼女のご冥福を心よりお祈り申し上げます。





記事を掲載する直前に宙組の公演再開が発表になったのでその事にも少しだけ触れたいと思います。
個人的にはまずは公演再開の目途がたったことに少しだけほっとしました。
公演再開には賛否両論ある事は予想していましたし、実際そうなっています。
受け入れ難い人も受け入れる人もみなそれぞれの思いを抱えていると思います。
ただSNSで発信する言葉だけがその人の全ての思いではないと思います。
皆それぞれに彼女の死と向き合い痛みを背負っている。
それを言葉にしないからといって何も感じてないわけでも、なかった事にしたわけでもないと思います。
これから先の人生でずっとその重みと向き合いながら生きていく人が殆どでしょう。
観劇を楽しむ事、日々の人生で楽しみを見出す事が彼女の死を忘れるという事ではありません。
生きている限り人生は進んでいく。
哀しみに暮れずっと立ち止まっているわけにはいかないのです。
舞台に立つ選択をした彼女達もまたそれぞれに彼女の死を背負って前に進んでいかなければなりません。
そんな彼女達を応援する事は個人の選択の自由です。
ただそれを酷い言葉で批判したり、不買運動を行ったりするのは個人の選択の自由ではなく誹謗中傷でありキャンセルカルチャーです。
この期に及んで偏向報道をやめない報道機関も見受けられ、今回の件でもまたジャーナリズムの衰退を見せつけられた気分がして落胆を隠せません。
とにかく進み始めた宙組がいたずらに傷つけられることなく安全に公演を行えることを祈っています。




*1生存者バイアスとは
何らかの選択過程を通過した人・物・事のみを基準として判断を行い、その結果には該当しない人・物・事が見えなくなることであるバイアス