偏向報道にかき消される事実
まず記事を書く前に。
亡くなられた生徒さんのご遺族皆様に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、故人の安らかなるご永眠を心よりお祈り申し上げます。
以下に書くのは宝塚の今回のニュースをめぐる一連の騒動についての私見です。
目にしたくない方は自衛をお願いします。
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衝撃的なニュースがおこって気が付けば2か月以上の月日が過ぎました。
その間も絶えず某週刊誌で繰り広げられる真偽不明のリーク合戦。
ご遺族代理人による会見と劇団の会見。
ヒアリング結果に基づく調査報告書の概要の開示。
SNSでの行き過ぎた誹謗中傷。
メディアによる偏向報道。
一部活動家によるキャンセルカルチャー。
本当に気が滅入るようなニュースが絶えず流れてくる毎日。
現役生の方や関係者の方々の心理的負担を考えると察するに余りある状況であったと考えます。
ファンもまた自衛しなければ心が潰れてしまいそうな日々を過ごしてきました。
一重にファンといってもいろいろな方がいて、深く傷つき離れる人。加害者とされる個人や劇団の運営を批判する人。静観しことの成り行きを見守る人。メディアの偏向報道に抗議する人。批判に晒される生徒や劇団を擁護するために戦う人。ただ贔屓を信じて応援する人、、、
みんなそれぞれの方法でそして立場で今回の問題に向き合い寄り添ってきたと思います。
わたしもその中の一人です。
そんな日々の中でわたしが一番怖いと感じたこと、それは「偏向報道」でした。
ここで前置きしておきたいのは今回の件についてわたしはどちらか一方の主張が100%の事実であるとは思っていないということ。
人と人が関われば間違いなく私見が違ってくる。
人間は自分の正当性を信じて疑わないし、そしてその一方で対峙する人間からみた世界もまた相手とは違う正当性を信じて疑わない。
さらには第三者から見てもまたその世界は違って見える。
このように一つの事実においても立場や見方で微妙に姿を変えていくのが世の常であるからです。
それは単にどちらか一方が嘘をついているということではないということも併せて申し添えておきます。
これをいうと必ず現れるのが「尊い命が失われているんだぞ」「亡くなっているのにその主張を否定するなんて故人を侮辱するのか」と攻撃をしてくる人たちです。
でもわたしはそうやって攻撃する人たちにこそ言いたい。
そうなんです。
一人の尊い命が失われているからこそ、慎重にそして冷静に今回の件について議論しなければならないのです。
どちらか一方に肩入れして事の概要をみてしまっては公正な判断はできなくなってしまいます。
悲しみに支配されてしまっては事の真相はどんどん闇の中に沈んでしまうのです。
でもそれをファンという立場で発言すると次に浴びせられるのは「盲目ファン」「お花畑ファン」という嘲弄です。
そうやって今の状況に異議を唱える人間を徹底的に封じこめようとする動きは特にSNS上で散見されました。
それは一体なぜなのか。
理由は二つ。
一つはきっと多くの人達が彼女の死に深く傷つきその結果、その死に報いるための何かが欲しいのでしょう。
憎むべき相手、幕引きの為の犠牲。
その標的を定め自分たちを正当化するには十分な理由ができました。
ご遺族代理人が会見で発した言葉です。
あの言葉を聞いて誰もが某雑誌の記事を想像したに違いありません。
その証拠にあの会見以降、SNSでの誹謗中傷はさらに激化しメディアでの偏向報道は一気に加速しました。
その結果、雑誌に名前や顔写真を載せられた生徒は反論の機会もなくただ晒され誹謗中傷され、犯罪者のように扱われ、中には面白可笑しく書き立てるインプレッション稼ぎの悪質なものまで出てくる始末。
このような明らかに不当な「私刑」がこの2か月絶えず続けられている。
二次被害がいつ起きてもおかしくない大変危険なフェーズに到達しているといえるでしょう。
劇団が出した警告文だけでは歯止めが利かなくなってしまった。
それはなぜか、その理由は紛れもなくあのご遺族代理人の発言にあったとわたしは思います。
はっきり言ってあの場であのような発言をすればこうなる事は簡単に予測できたと思いますし、わたしはあの発言はとても卑怯な誘導だと思いました。
某雑誌に書かれた内容と少しでも類似するものがあればその全てを肯定したように捉えられることをわかったうえでの発言だったと感じたからです。
そこに事実がどこまで含まれているかなど考えず、その後に出る記事においても何が書かれるかわからない中でその全てを無責任に肯定したのと同じです。
仮に実際はそういうつもりで発言したのではなくあくまで事実を羅列したまでで、この現状を招くことは予見できなかったと言われてもにわかには信じがたい。
今回の件はまだ裁判にはなっていません。
なので事実はどうであれ名前をあげたりその詳細を語って誰かを非難することは名誉棄損になってしまう。
だからあえて某雑誌を利用したのでは?と邪推してしまいます。
世論を味方につけるための手段として。
故人の命の重みを訴えながら彼らのとった行動は誰かの命を危険に晒すことを厭わなかった、、、
わたしはこの行動に依頼人の利益のためには手段を選ばない冷酷さすら感じ恐怖を覚えました。
仮にも法治国家における法律家が「私刑」を行う人たちに免罪符を渡したともとれる行為だと感じ強い憤りを覚えました。
※この記事をUPする直前でご遺族側の代理人会見があり、その中で代理人が一部の団員に対するネット上の誹謗中傷を把握している趣旨の発言がありました。しかしそれに対する是正や緩和などの発言はわたしには確認できなかった事を追記しておきたいと思います。
少し話は脱線してしまいましたが、二つ目の理由はメディアによる「偏向報道」。
どこのメディアも今回の件については全く同じ論調を呈しています。
劇団の労働環境が悪であり、某雑誌に書かれている事を裏付けようと宝塚の上下関係の厳しさが一般社会においていかに理不尽で過剰であるかをアピールする報道ばかり。
しかもその内容は一昔前の事でも現行のものであるかのような報道でした。
音楽学校のことに関してもすでに改編されている慣例が多々あるにも関わらずそれには敢えて触れないようにしているとしか考えられない内容の数々。
完全に劇団は極悪非道が行われる集団であるかのように世間に印象付けるようなものばかりでした。
そんな中でわずかながらも報道に異を唱える声をあげられた方々もいましたが非難されるどころかかき消され取り上げても貰えない。
まるでそんな声などなかったかのように封殺されてしまっています。
特にそう感じたのは某劇団関係者が報道について批判的な投稿をSNSにあげた時の事です。
わたしはあれを目にした時、きっとメディアに一斉に批判され謝罪文と共に投稿を削除又は訂正させられるのではないかと思っていました。
そうやってメディアによって押さえつけられる理不尽な状況を今までにも幾度となく見て知っていたからこそそう想定していました。
しかし現実はもっと歪でした。
わたしが把握している限りでは取り上げたのはWEBニュースが2社のみ。
元理事長の某週刊誌への対応はあんなにWEBニュースを賑わせていたのにこの某劇団関係者による報道批判は全く大きなニュースには発展しなかった。
SNS上では賛否両論吹き荒れていたにも関わらずです。
この状況にとても違和感を感じました。
一律に同じ視点で今回の出来事を各メディアが報じどこのメディアも両論併記しない。
こんな風にすべてのメディアの足並みが揃うなんてまるで言論統制のように感じるほど不気味です。
そして今もなお報道の三原則は無視され続け、偏向報道によって世論の声もすっかり真実はただ一つと言わんばかりの様相を呈しています。
その証拠に調査報告書を開示したにも関わらずその内容は何もかも嘘だと言わんばかり。
隠ぺいだと騒ぎ立て調査報告書は信用できないと声を荒げる人々。
プライバシー保護のもと行われたヒアリングであるにも関わらず、ヒアリングに応じなかった生徒やその理由の公表をメディアが求めたり、それに応じないと今度はヒアリングに応じなかったのは加害者だとSNSで騒ぎ立てる人々がいたり。
メディアのご意見番といわれる人達も一斉になって批判を繰り返し、中には調査報告書を読んでいないのに隠ぺいしていると騒ぐ人まで、、、
こうやって彼女たちのわずかな主張は一瞬でかき消されてしまいました。
彼女たちが仲間を失った悲しみや自分たちの置かれた苦境に耐え忍びながら可能な限りヒアリングに応じた結果が報告書には確かにあったはずです。
わたし自身、あの報告書は何度も読み返しました。
そしてその内容は決して全く信用に値しないものではないと感じた一人でした。
それはわたしの贔屓目でしょうか?
いいえ、そうではないはず。
その証拠に調査報告書の妥当性を訴える意見はその不当性を訴える声と同じぐらいSNS上でもあがっていたのですから。
なのにそういった声は一つも何にも報道には反映されなかった。
それは一体なぜなのでしょう?
答えは簡単です。
それはメディアや世論が求めていた『望んだ筋書き通りの報告書』ではなかったからです。
敢えて苦言を呈しますが劇団側の危機管理広報が不十分であったことは確かです。
いかに頑張ってまとめた調査報告書であってもそれを扱う人間の技量がなければその内容が受け手に上手く伝わらなくなってしまう。
調査報告書に耳を傾けて貰えるだけの広報力が劣っていたのは映像を見ても素人ながらに明らかに感じました。
そこは本当に残念で報道に反映されなかった一因と言えるでしょう。
ちなみにわたしは報告書を読んでから会見をみました。
その理由は誰かの意思を少なからず含んだ報告書ではなく、ただの羅列された文字として報告書と向き合いたかったからです。
感情論に流されず事実としてそれを受け入れたかったから先に文字を読みました。
しかしあの概要だけでも資料まで含めると36ページ。
その報告書をしっかり読んだ人はファンであっても多くないはずです。
だからこそ会見で多くを訴えかけなければならかった。
調査報告書の中に書かれた関係者達の言葉を一人でも多くの人に届くように、その声に耳を傾けて貰えるように。
そこが本当に悔やまれるところではあります。
今後の反省として生かして欲しいと感じるところです。
ただこの事で劇団側だけを責める事はできません。
なぜなら報道する側が客観報道の原則を守っていればわずかながらでもその声が世論に届けられたはずだったからです。
これがわたしが今回一番問題視しているところです。
ちなみに客観報道における基本原則とは下記の通りです。
1.報道事実を曲げずに描写すること(事実性原則)
2.報道する者の意見を含まないこと(没論評原則)
3.意見が分かれる事柄は一方の意見に偏らず報道すること(不偏不党原則)
さて、いまの報道においてこの原則はどのくらい守られているのでしょうか?
少なくともわたしには3番目の不偏不党原則は全く守られていないように見えています。
このようにメディアによってどちらか一方の主張が優先される中で公正公平な議論などされているはずがありません。
はっきり言って被災者側の主張の正当性だけを認めさせようとするとても危険な報道だと思います。
言い方は悪いですが、代理人弁護士の協力者として報道が存在しているようにしか見えず、それはもう報道とは言えないものになっているという実感です。
本当にこれが正しい世の中なのでしょうか?
この先に公正公平な明るい未来が訪れるとは到底思えません。
報道はある種の権力となってしまっていること、世論を扇動できるだけの力を持っている事をわたしたちは知るべきだと強く感じています。
だからこそ偏向報道を許してはいけないのだという思いで今回の記事を書きました。
さてここで今回の問題についてわたしの意見を提示します。
これまでの経緯からご遺族側は過重労働とパワハラを全面的に認め劇団や関係者に謝罪と補償を求めていると認識しています。
それに対し劇団側は過重労働について認め諸々の改善案を提示しました。
残るはパワハラという問題において双方の食い違いをどう埋めていくかという局面です。
これについて論じるときにまず確認しておかなければならないのはパワハラの定義です。
厚生労働省のHPで下記のように定められています。
①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの3つの要素を全て満たすものをいいます。
なお、客観的にみて、業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導については、職場におけるパワーハラスメントには該当しません。
相手がそう感じたらパワハラだというような主張を随所で見かけますがそうではないことは厚労省がきちんと定めています。
これがいじめと大きく違うところです。
※なので代理人弁護士の会見中の発言で「本人がそう訴えているからパワハラである」という趣旨の発言があったことには少し驚いたことも追記しておきます。
そう考えるとこのパワハラという問題に関してはご遺族側が主張しているもの全てを劇団側に裁判以外で認めさせるということは不可能ではないのでしょうか?
お互いの主張が食い違っている以上、再び第三者委員会を立ち上げなおし調査しすり合わせる事も可能でしょうが、これまでの流れを見ているときっと何かが否定されれば隠ぺいだ不十分だと世論に訴えられ、また振り出しに戻る構図しかわたしには見えません。
なぜならご遺族と世論は劇団と関係者の無条件降伏を望んでいるからです。
しかしそれはあまりにも横暴です。
正義の名の下に「私刑」が行われているのと何ら変わりがない。
これでは事態の収束への代償としては関係者が失うものがあまりにも大きすぎる。
憶測や某週刊誌の真偽不明な記事、ネットの誹謗中傷や偏向報道によって関係者たちはその代償以上のものをもうすでに払わされている。
この現状を考えるとこれ以上対話で解決することは無理ではないでしょうか?
二次被害の危険性を考えても今のような泥仕合を延々と続け、突き詰めていくべきではない。
それよりもきちんとした法の下、事実関係を整理し客観的にかつ公正に裁かれていかなければならない段階にきているとわたしは考えています。
最後に。
会見の映像を全て拝見しました。
その中で気になったことを羅列しておきます。
・今回の記者会見をした経緯について新聞の記者から質問がありました。
わたしもあまりにも会見のタイミングが良すぎることをある出来事に関連付けて少し邪推しました。ここでは多くは語りませんがたぶん全くの無関係ではないのでは?
・会見で「叱責」という言葉を繰り返し使われていたのが印象的でした。
ただ叱るではなく叱責する。実際がどういう口調でどう叱られたのか詳細が不明な中、叱責という言葉を繰り返し使って説明する。これも狡い印象操作だなぁと思いました。
・代理人の演劇分野における実態の認知が宝塚だけでなく演劇界全体の実態と大きくかけ離れていること。はっきり言って宝塚はまだ恵まれている環境であることは演劇分野に少しでも関わった事がある人なら周知の事実。ならば今回の件で争点とするのはかなり難しい問題でこれを法廷に持ち込まずに解決することなど皆無では?と思いました。
・質疑応答の際、しきりに「阪急」という言葉をだしそのCEOの名前をだしていたのもとても印象的でした。そして宝塚の事は「宝塚劇団」と。揚げ足取りのようですが代理人が相手として意識しているのは「宝塚歌劇団」ではなく別のところなのだなという印象を受けました。そして国際社会に訴えかけていく可能性もほのめかしていて、どこかでみた構図だなぁと少しきな臭さを感じてしまいました。
ざっとあげるだけでもこれだけありますが他にもいろいろ思うところがあったことはまた機会があれば書きたいと思います。