暴力の歴史 感想

『暴力の歴史』を観劇した。

ひとの中には様々な『暴力』が内在しているのだと、思い知らされるような時間だった。
暴力は、身体を傷つけるような目に見えるものもあるが、悪口や仲間はずれ、そのほかにも差別もそうだ。
男女の違い、学歴の違い、人種の違い、年齢の違い、生まれの違い、他にも様々な違いによる差別。
互いに違うものなのだと納得出来ず、相手を尊重できない心が生む差別から暴力が生まれ、それが新たな暴力を生む。
意図的であるかないかに関わらず、相手が傷つけばそれは暴力となる。
twitterが日常に根付いて久しいが、毎日言葉の暴力を目撃する。
わたしが暴力と感じるものは、大体が意図的に相手を傷つけようとするヘイトツイートで、そういうものばかり目撃すると『社会は暴力に満ちている』と荒んだ気持ちになってしまう。

観劇したことで、暴力は暴力の連鎖だとも改めて感じた。
レイプされた主人公が吐き出していた『自分が世界一不幸だと感じ、幸せな人、弱い人に殴りかかりたくなる』という衝動。暴力を受け、その昇華は暴力でしかなりたたないような気になってしまうこと。
『暴力は暴力しか生まない』
様々な場や書物などで目にする言葉だが、この作品でようやくその意味が腑に落ちた。暴力を受けた人間の暴力を受ける(かもしれない)もののいる、暴力の連鎖。
連鎖を止めるには最後に主人公が言ったように「忘れる」しかないやるせなさ。
物語は観劇者へ、衝撃と問題を与えたまま終演する。この物語を観てからが、わたしたちの『暴力の歴史』を考え塗り替えるための一歩だというように。
未だ『塗り替える』ための答えは出ないけれど、こうして考えることが暴力(他人や自分がしてきた、またはされてきた)について寄り添うことなのだと、何となく思い始めている。

この作品を観劇する前から、きっと『クロードと一緒に』を思い出す物語なのだろうと感じていたが、随所にその気配があった。
中でもエドゥアールとレダの部屋のシーン。甘いその空気はイーヴがうっとり語っていたクロードとの情事に似ていて、結末を思うと胸が痛むところまで既視感があった。
警察に取り調べを受けたエドゥアールは「警察の尋問で話すと自分の中の言葉を失う」と言っていたが、彼のように知識や言葉を持たないイーヴは、もっとわかりやすく、態度として苛立ち、怒り、黙ったり自分の拙い言葉で返したりしていた。
わたし自身は取り調べというものを人生の中で受けたことがないけれど、察するに、当たり前のように合理的で感情は求められておらず、0か100どちらかの答えを求められるものなのだろうと改めて感じた。
イーヴは白痴で、そして愛の形を知らない人物であったために『クロードと一緒に』はあの結末になったが、彼もまた様々な男、そして尋問する刑事から暴力を受けていた。彼はレダのように同性愛者である自身への嫌悪はなかったが、男娼をしなければならない生活を嫌悪していた。
イーヴは、どちらかといえば、レダ側の人間だったのだろう。
人種差別や、生まれの差別、それが差別であると知る機会もない生活だった彼は、バカにされていると雰囲気で感じることは出来ても、それが『差別』であるとは認識できていなかったことを思うと苦しい。
結局こうしてイーヴのことを、つい思い出してしまうのは『クロードと一緒に』のラストの絶望感がわたしの中に深く刺さり続けているからなのだろうと思う。

『暴力の歴史』『クロードと一緒に』はどちらも、強く人に勧められるほどわかりやすくエンタメとして楽しい話ではないが、似通う2作品を同じ年に観劇することができたのは、良いタイミングだったと思う。
どちらも永遠のテーマとして深く心と頭に残される、観劇したひとにどう感じたか、また、その人のことを問いたくなるような、そんな作品だった。

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