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50年を経て再会した「赤毛のアン」

ちょっと一杯飲んで帰る。この習慣が封印されたのはコロナ禍が始まった去年の春。じゃぁ仕方ない。レストランでは高くて注文できないシャンパンもネットで探せば1本数千円で見つかるし、家飲みしようじゃないの。

日がまわってから帰宅した昨夜も、前の晩に開けたシャンパンが楽しみだった。

シャンパンのシュワシュワ感を保つのに良い栓がある。かっぱ橋の食器屋で見つけた安物だが、これがアタリだった。昨夜もその栓を傾けると同時に、ポンッ!と威勢のいい音がした。

家に帰って眠くなるまでの間、私はアマゾンプライムやネットフリックスでグラス片手に面白そうなものを探すのが日常になった。見損ねた映画は半年で制覇した。話題になっていた韓流ドラマも気になっていたものは昨年のうちに見終わっていた。

濃い目のストーリーにちょっと疲れた感があり、ハラハラしないで見られる楽しいドラマがないのかと探していて、昨夜発見したのがこれだった。
「アンという名の少女」

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中学生の頃の私は、いくら食べても胸も膨らまないガリガリの痩せっぽち。私には揺れる胸がなかった。胸のない私を男子は平気でからかってきた。

「やーい!平平平平(ひらだいらへいべい)」・・・。

そのせいか、私は、バレンタインチョコを渡す段取りをどうしようとか、誰が誰に告白したとか、おおかたの女子がキャーキャー言う女の子らしいことに興味を持つことができなかった。

「赤毛のアン」を読んだのはそんな中学一年生の頃だった。

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ソバカスだらけで痩せっぽち。孤児院で育ったアンが引き取られたのは、田舎の小さな村で暮らす兄妹の家だった。やっと孤児院から出られる、生まれてはじめて家族ができる。

喜びの大きさだけ増幅する不安に揺れながらも、幸せを見つけようと強く生きようとするアンの生きざまは、当時の私の心をつかんでいった。

はじめは「痩せて肉づきの薄い女の子」に共感しただけだったのが、いつしかアンに夢中になっていった。私は、図書館で借りてはアンのシリーズを読み進めた。


50年を経て出会ったアンは「アン」そのものだった

ネットフリックスで見つけたのは「赤毛のアン」に登場するアンそのものだった。癇癪持ちで、男の子に石板を叩きつけたり、自分に向き合えず苦しんだりしながらも、運命を受け入れ力強く生きようと笑顔で空を仰ぐ。

人物の印象はかつての姿そのままに、彼らは画面の中で、生き生きと生きていた。緑の切妻屋根も、歓喜の小道も、親友も憧れの彼も。

違ったのは、私の視点だった。

かつては、成長しているのは子ども、としか見られなかったけれど、大人は子どもの失敗を通して育っていたことに、今回初めて気がついた。

育ての親のマリラもマシューも、アンの悩みを通して親として成長していたんだ!あの頃の自分は全く気が付かなかった!

なーんだ、そうだったのか。

子どものすることに悩むから、
親も育つのか。


「小さな顔は青白くて、肉が薄く、そばかすが散っている。口は大きいが、目も大きく、その瞳は、光線や気分によって、緑色にも灰色にも見える。普通の人が見ればこの程度だが、洞察力がある人ならこんなこともわかるだろう。あごはとがっていて凛々しいこと。大きな瞳は生き生きとして明るいこと、唇は愛らしく、口もとは表情に富んでいること。額が広く豊かなこと。」(赤毛のアン/松本侑子訳)

一度読んだ本をしばらくぶりに読み返したとき、そこに線を引いた当初の自分を愛おしく思うことがある。
なんだ、当時の私はこんなことに感動していたのか。可愛かったなぁ。

今回、50年ぶりに再会したアンは、私にとってまさにそれだった。年をとったから面白いと思える部分が増えていたのだ。

そして、何よりあの当時の私は、薄っぺらい体形がコンプレックスだったなんてことも。

今思えば、何を食べても太らないなんて、羨ましい限り。今の私なら、ウエストだけでも取り替えてよって言いたいくらい。

夜中の家飲みは、新たな発見もあって、悪いことばかりではない、という話でした。

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