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三増トンネルに武士の霊はでるのか?

「三増トンネルには武士の霊がでる」

とよく言われます。

これが最近気になります。

なぜかといいますと

昨年2020年12月28日(月)に番組の企画で、朝6時半頃に真っ暗な三増トンネルを徒歩で通過しました。

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その際の動画ですが

1分30秒付近で女性の笑い声らしきものが聞こえます。

これが三増トンネルの霊でしょうか?

と、言う話を妻にしたら

「三増トンネルの心霊は男の人でしょ?お侍さんでしょ?」


霊の存在がそもそも、というのは置いておいて

「三増トンネルには武士の霊が出る」

この「武士」は誰でしょう?

三増トンネルとは

ここです。

1992年(平成4年)1月竣工。全長462メートル。最高速度40km/h制限・駐車禁止・はみ出し禁止である。元々、古道・歩道しか存在しない僻地であったが、津久井方面と愛川方面を繋げる道路として開発された。神奈川県道65号厚木愛川津久井線は当トンネルを最高点としている。トンネル内はほぼ直線であり、2車線道路で比較的快適な走行が可能であるが、現在でも交通量はそれほど多いとはいえない。ただ、周囲に神奈川県愛甲郡愛川町三増新宿、上宿、下宿といった大字が残っているとおり、中世から江戸時代に亘って甲斐国より相模国小田原大山への街道として宿場が設けられた地方であり、古く交通の要衝であったということができる

とネットを調べるとあります。

武士の霊と言えば、戦国時代でしょう。

三増トンネル付近では

・三増合戦(永禄12年(1569年)10月6日) 武田家対北条家

・津久井城防戦(1590年(天正18年)6月25日) 小田原征伐の豊臣軍(徳川家)対 北条家

この二つは戦国時代の戦として挙げられます。

津久井城攻防戦は大きな戦もなく、津久井城は開城していますので、霊になるような戦いだと三増合戦でしょうね。

三増合戦は、一部の古い資料では「三増峠の戦い」と呼ばれています。

三増峠は現在の三増トンネルがある場所です。

それならば、三増トンネルには三増合戦での戦死者の霊がざっくざっくと・・・。

と、なりません。

三増合戦の陣立て図は、三増合戦の碑でも見れます。

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これですね。

「甲陽軍鑑」が基になっているようで、縮尺もめちゃくちゃですが

配置図を色分けし、「甲陽軍鑑」などでの両軍の動きを当てはめると

かっせんず

件の三増峠には兵の配置はなく、主戦場も中峠、北条軍に決定的な打撃をあたえる武田の別動隊は志田峠です。

陣立て図には三増トンネル付近に「内藤修理」とありますが、これは内藤昌豊のことで武田別動隊にその名前がありますので、この場所は違うでしょう。

見てわかるように、「三増合戦」=「三増峠の戦い」ではないということです。

なぜ「三増合戦」=「三増峠の戦いに」になったのかというと、
明治時代ごろまで、
「志田峠」と「中峠」と「三増峠」をあわせて「三増峠」と呼んでいたようです。つまり「総称・三増峠」です
つまりこの三つの峠付近で起きた戦いだったので「三増峠の戦い」だったのが、いつの間にか「三増峠」を主戦場とした戦いとなり、三増峠には5000人以上の戦死者の霊がいるとなった、ということです。

みませ

近年の研究でも「三増峠の戦い」という名称は使われなくなってきました。「三増合戦」が通称となっています。

ですが、この三増地区に両軍合わせて4万人がひしめき合っていたと思うと、三増峠に全く以って兵がいなかったというとちょっと疑問ですね。

三増峠の麓(三増トンネルの麓)では武田家の浅利信種と北条家の北条綱成が激闘を演じ、浅利信種が戦死しています。
この激闘の渦から逃れた敗走兵・逃亡兵が、津久井方面へ逃れるために三増峠の旧道を越えようとした。特に北条軍は北条家の支配下にある津久井城へ逃れる可能性は大いにあります。戦略としてではなく、偶発的に兵が三増峠にいた、ということです
現に、三増合戦の敗残兵と逃亡兵の「伝説」は、津久井地域にもありますし、遠くは橋本駅周辺やヤビツ峠にまであります。
三増峠にそよかぜが吹いていたことはなく、傷ついた兵が峠を踏み越えたことはあり得るし、峠を越えられずに命を落とした兵もいるかもしれませんね。

となると、三増トンネルに何らかの「侍的な霊」がいてもおかしくないです。しかも、ミツウロコの北条家の「侍的な霊」です。

ま、霊が存在すれば、ですけどね

でも、三増合戦は450年以上前の話ですから
霊の鮮度としてどうなのかな。

と、ともに

動画の笑い声は女の人だよね・・・


三増トンネルで調べるとこんな記事が出てきます

違法競走型暴走族の活動が盛んだった1990年代初頭には、ローリング族が暴走に使用する道路となった。三増トンネルの北西側は急峻なカーブの連続であることから、付近では、ローリング族による交通事故が多発し、死亡事故も散見された。若年層で形成された彼らは”三増トンネル最速の会”と称する徒党を組み、暴走行為を反復継続した。同人らは通行者・近隣住民・官憲に対しては反発の姿勢は見せなかったが、同じローリング族に対しては対抗意識をあらわにし、過剰な暴走行為が繰り広げられ、それは当時のバイク雑誌でも喧伝される事態に陥った。同所は、比較的交通量の少ない道路である事、路面が新規の施行で荒れていなかったこと、近辺に住宅が無く迅速な警察通報がなされなかったことなどによりローリング族の参集を助長した。一方、三増事件と俗称されるローリング族同士の正面衝突による2名死亡、2名重症という重大事故も発生。事故の真相は公表されていないが、一説には仲間割れに起因するものとされ、周辺住民などの猛烈な批判にあい、これに呼応して神奈川県警察の交通取締も強化された。それが功を奏し、ほどなくローリング族は同所から姿を消している。

交通事故か・・・



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