見出し画像

年をとって、より幸せになったわけ

昨日、またひとつ年をとって61才になった。シックスティーズも2年目に入り、若い時に恐れていた「年をとる」ということが、いやこれ全然悪くないなあと日々実感している。外見の劣化は進む一方だが、それと反比例するように、内面はかつてないほど充実していて、毎日が楽しい。明らかに年をとったほうが若い時よりも「幸せ度」が上がっているのだ。

なぜだろう、と考えたとき、二つの答えが浮かんでいる。

一つめは、「自分で何でもやらなければならない」という思い込みを捨てたこと。これは、フリーランス歴そろそろ20年の私がずっと戦ってきた、超えられない壁のようなものだったのだが、体力が落ちてくるとやりたくてもできないことが多くなる。そして若い人に任せてみると、自分でやるよりはるかにできが良く、早い。アドバイスすることも以前より上手になった。まわりに能力のある若い人が増えてきたことも、「任せる」に拍車をかけている。結果、時間的にも精神的にもとてもラクになり、心の余裕ができた。

二つめは、今話題の「ルッキズム(外見至上主義)」の問題。

「女性はいつも美しくあるべきだ」「痩せてスタイルがいいことが最高」「年齢より若く見られたい」という、永年とらわれてきた呪縛を手放した。動物なので年齢とともに外見が劣化するのは当たり前なのだが、いつの頃からか「アンチエイジング」という思考停止ワードが行動規範となり、若く「見える」ためにせっせと時間とお金をかけてきた。その結果、そこそこ若さは保っていたのかもしれないが、今振り返れば投資に見合うものではなかった。お金や時間より無駄に犠牲を払ったなと思うのは、「思うように美しくなれない」ことに対してのストレスや自己嫌悪、つまり「負の感情」に支配されることだ。これが一番幸福を遠ざけていたと思う。

これを手放せたのは、一昨年の暮れに顔面麻痺になったことだ。すっかり顔が変わってしまい、コンタクトレンズもできなくなりメガネをかけるようになった。世間的に求められる美しさとはほど遠く、「戦線離脱」せざるを得ない状況になったことで、永年背負っていた「美しくあらねば」の重荷から解き放たれたのだ。

「美しくなれば幸せになれる」と考えている女性は多いと思う。でも、美しいとされている芸能人やモデルの醜聞を見てもわかるとおり、「美しさ」と「幸せ」の相関関係は疑わしい。「美しい」はあくまで外的な評価であり、内的な充実である「幸せ」と必ずしも結びつかないのだ。私の場合も、一見不幸なできごとが、結果的に幸せを運んできてくれた。なんとも皮肉な話だ。

「自分でやらずに、若い人に任せる」「美しさや若さに固執しない」

私に幸せをもたらしたこの二つのマインドセットは、根っこの部分は同じだ。

それは「一歩引いて、裏方に回る」ということ。

つまりはこれが人間社会の新陳代謝であり、世の中を健全に保つための自然な流れなのだろう。老いに抵抗するより受け入れるほうが、実は「幸せ」への近道なのである。

とはいえ、長引くコロナや国への不信、気候変動の不安など、かつてないほど厳しい環境で老年時代を迎えることに危機感はすごく持っている。

無駄なことはせず、自分の時間とお金と能力の最大効果が得られることをやる。与えられた役割を全うし、自分で楽しいと思うこと「だけ」をやり、若い人のサポートに回り、毎日機嫌よくいる。時にはルーティンをはずれて挑戦をする。

お気楽に見えるかもしれないが、自分で良しとするマイウェイな生き方を貫けば、幸せを保ちながら、厳しい環境下でもサバイバルできると信じている。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?