2021/8/6

どうもkumanutsです。1年が経ったので日付だけでなく年も書かなきゃいけないようです。
タイトルは8/6ですが、ここ数日のことを書きます。

8/1日曜日
私はバイト帰りに宗教勧誘に合いました。よくあるように駅前でやっていたんです。15時頃だったと思います。声をかけられたので「どういう話をしてくれるのかなぁ」と興味本位で、その後の予定も決めていなかったので、話を聞いてみることにしました。話を聞く時に私が気をつけていることは、興味があるように相槌を打つことです。それから「わかります」と言ったり論理がよくわからない時には質問したりします。言ってはいけない言葉は「なるほど」です。「なるほど」というのはわからない時に出る言葉だからです。大多数の人がそうであるかはわかりませんが、「なるほど」と言ってわかったことなんて全然ないかと思います。私はそういう人なので特に何かを学んでいる時に「なるほど」は使わないようにしています。一通り中身を聞きまして、当然「一緒に〇〇まで行こう」と言われるわけです。「おぉキタキタ」と思いました。私は行きませんと言いました。話を聞きたかっただけでそっからどうこうしようとは思っていなかったからです。「なんで?」と聞かれました(タメ口なのはお互いに年齢が近いことを知っていたからです。特に気にしていませんでしたが、彼らのような人はもとからパーソナルスペースが狭いのかもしれませんだからグイグイくる)。話を聞きたかっただけで、一緒に行くつもりはなかったと伝えました。「ここまで聞いたなら行こうよ」と言われました。少しイラッとしました。「聞いた→行く」という論理展開が意味不明だと感じたからです。それに話しかけてきたのは向こうなんです。でも聞き続けたのは君だよね、と返されます。
とまあそういう押し問答があったりなかったり、話逸らしたりして2時間ぐらし経ちました。「帰ります」『なんで?』というのはずっとしていたんですが(『なんで?』という質問にはもう理由が思いつきませんでした)、その中で「道理」という宇宙の大法則のようなものを説明してくれました。その一例として天動説から地動説になった話をしてくれました。天動説から地動説になったのは、そして今も地動説で通っているのは、実際に地球が動いているからだと。宇宙が動いているからではなく地球が動いているから天動説は覆されてしまったのだそうです。そして地球が動いているのは当たり前なんだと。でも彼らの言うことは違うと思います。そう言いました。それは信仰です。地動説が正しいというのは信仰です。多くの人が納得してて、学校でも教えられて、計算も合ってて、だから地動説は正しいと言われているだけです。だって天動説も覆されるまでは成り立っていたんですから。覆されるまでは多くの人が納得してて、学校でも教えられて、計算も合っていたんです。だから地動説も同じで、いつ覆されるかわかったもんじゃない。だから地動説というのは世界の真理なのではなく、人間の考えた、人間の信じている一説に過ぎないのだと私は思い、そう言いました。彼らがそれじゃ科学は正しくないと言ってるのと同義だぞと言ってきたので、はいそうです。と答えました。科学も信仰です。科学の中で成り立つ論理で説明しているからそれは当然"論理的"でしょうし、"正しい"といってもいいのかもしれません。しかしそれは宇宙の真理なのか、つまり常に正しい、合っているものなのかと聞かれたら私は答えを渋ります。聞いたことがあるだけで知りませんもの。彼らは私を馬鹿だと言いました。それで私は私が馬鹿なのだと知りました。今書いてる時も科学は信仰であるという考え方は私的に気に入っています。ですが社会に出てそんな論を振りかざしても何も起こらないし、どうしようもないので自粛して、科学は正しいという論で社会を生きていくべきなのかもしれないと考えています。一番私の気分が高揚していたのはこの会話の時です。少々話疲れていたしアドレナリンがドバドバ出ていたに違いありません。
約2時間、相手を取っ替え引っ替え(全部で5人)しながら「行こうよ」「行きません」「なんで?」「……(行きたくないのに理由が感情しかない)」を繰り返し、ついに折れました。行くのを躊躇う自分を見つめてみた時に怖いからなのかなと思ったからです。もしかしたら今後も勇気を振り絞って飛び込むということが必要になるかもしれない。そう思うと行きたくないより行ってみようが強くなり付いて行きました。はい付いていきました。当然ですが2時間も立ち問答をしていて彼らも疲れていました。全員で歩いている間、全体として空気が弛緩していたのを覚えています。当然ですが彼らもちゃんと人間でした。救われたい、救いたい、誰かのためになりたい、そういう気持ちが特に刺激されているだけの人間たちです。家庭があり、仕事もこなしています。そして笑顔が多く、幸せそうでした。その日は軽くお経を唱える体験(入信だったかな)をしました。終わったあとにやっぱり離れたい、なんかあまり好きになれないなぁと感じていましたが、帰る前に断りきれずにLINEを2人と交換しました。帰った後父に連絡(父感謝)をとって今後どうすれば彼らから離れられるかを相談しました。名前、住所、電話番号、そしてLINEは教えてしまっていたのでそれらの対策を教えてもらいました。LINEは一言「今後一切の連絡をお断りします」と書いてブロックしました。家前まできたら玄関に出ない。電話がかかってきたら「今後一歳の連絡をお断りします」と言って印象悪めに切る。偶然出会ってしまったら、もう関わらないでくださいと言って走って去る。
それから5日が経ちましたが音沙汰ありませんが父の教えをすぐに出せるよう緊張感を持ってバイトには行っています。

後日。私は怖いのかもしれないと思いました。何を?世界を。世界を変えることを。私たちはさまざまな願望欲望によって世界を変え続けています。ビルの建設取り壊しという社会レベルのものから部屋の模様替えという個人レベルのものまで。私はそういったことを怖がっているのだと思います。私が何かに意図して影響を与えてしまうことを怖がっている。誰かに何かをおすすめしたり、企画のアイデアを発言したりしてもしそれが私の言うとおりになってしまったら、普通の人ならいいじゃんと思うかもしれないですけど、怖いんです。変わってしまったあとどうなるかわからないから怖いのだと思います。責任を問われるかもしれない。だから私は十分に時間をかけて考えたことがなかった。浅く考えるけど、思考の論理に抜けがあるなと思っても放っておいた。真剣じゃなかった。だから何も成し遂げられず、やりたくない、感情で動き続け、自立もしていない。人生に、真剣じゃなかった。そのように思いました。過去形ですけど、今もそうだと思います。
私はお金の使い方の変化を考えました。今までは欲しいゲームがあっても、食べたいものがあっても、ネットショッピングがしたくても、友達と遊びに行くことも多少、我慢してた。お小遣い制ではなく、お年玉のみ。そしてだいたい貯めてた。お金がなかったから、それらは必要不可欠ではないから、そんなもののために親にねだるのは許されないと思っていたから。これからは違う。そういう生き方ではいけない。モテないし、大人じゃないから。自分のライフスタイルを確立していって、そのためには欲しいものは買って(でも全部買うんじゃなくて判断基準をもって取捨選択して買う)、部屋の模様替えもして、脱毛だとか香水だとか服装だとかそういうところにも気を遣ってお金をかけていく。生きていればいい、親の負担にならなければいいという価値判断では今後だめ。親だって先に逝ってしまうんだから。19歳大学1年生夏、精神年齢の発育がゆっくりな私はやっとこさそんなところに辿り着いた。
夏の夜の虫の声が聴こえる。
どうして家族や友達、クラスメイトが部屋の模様替えとか脱毛、香水、服装などなどにお金をかけて気を遣っているのかずっとわからなかったけど、やっと背中が見えた気がする。
昨晩はハチミツの香りがするシャンプーを使った。髪がサラサラで気持ちいい。今日のジェルのノリも良くて綺麗に整った。部屋にも芳香剤を置いた。サーフィンに乗りたいので学びに行こうかと考えてる。お金がかかるやつだ。
↑はあなたにとっては当たり前で、お子ちゃまだと思うかもしれない。でも私は自分のためにお金を払うということを意識してやらなきゃいけない。頑張ろう。
(そうして私は道具によって自分を作り上げていくようになった。削るのではなく、くっつけていくタイプの私と言う彫刻を作りはじめた)(ポエミー)
あと夏に何をやるかまだ決まっていない。周囲は夏にこれをやると決めて情報を集めて予約してと、どんどんやっている。やってないの私だけ。焦る。そんな8/6の夜。
私は今後何をするのがよいのか。そんなふうに考えがちなのだが、「息子、娘、孫ができたときのために今、たくさん勉強して経験しておきたいなと思った」と8/4にメモしてある。「子どもを持つ気はないし、ビジョンも見えないけれど」ともメモしてあった(´⊙ω⊙`)まあ血が繋がっていなくても、話す機会があった時に子どもに何かを伝えられるような大人になりたいということなのだろうなあ。

おやすみなさい。さようなら今日の私。



P.S.
すごい3823字!!
大学の最終課題より書いてる笑

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