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何で隈元を名乗る様になったのか?

今から700年ほど前の酒井為助さんが、1st隈元さんだったと判明した前回。
しかし、あなぜ本姓である酒井を名乗らず、隈元を名乗ることになったのか?

そこで、今回も鹿児島県史料にお世話になりつつ謎を究明していくことにします。(解けるのかな?)

ことの発端は、大隅国に初めてやってきた酒井奉季(ともとき)まで遡ります。
 ※奉季…別資料では「友季」と書かれる場合もあり。
まずは系図を見ながら確認してみましょう。

酒井氏系図抜粋

奉季は2回結婚しています。
最初、正八幡(現:鹿児島神宮)の執印、草部光頼の娘と結婚し二人の男子を設けます。この草部氏の血をもつ系譜を①としておきます。
しかし、残念なことに奥さんは亡くなってしまいます。
そのため、草部光頼が奔走して、酒井奉直の娘と結婚(酒井氏に婿入り)することになります。そして、この酒井氏の血を引く系譜を②とします。

なお、系譜①も系譜②も共に酒井氏を名乗る訳なのですが、正直なところ系譜①には酒井氏の血は全く入っていません。
その後、それぞれの系譜は続いていく訳なのですが、
①は、正八幡執印との結びつきを生かし、修理職を世襲していくことになり、
一方の②は、国方の御家人として守護との結びつきを太くしていきます。

さて、奉季の後を継いだ季宗(系譜①)が無嫡子で死去してしまいます。
後を継ぐことになった助宗は、季宗の弟(四郎)の子供(系譜①)。
しかし、四郎は酒井ではなく岡本を名乗っており、助宗自身も岡本を名乗っていました。
この時点で、酒井氏には系譜②の季時がいるにも関わらず、強引に系譜①内で相続を進めてしまいます。これは正直、系譜②にとって面白くない状況です。
なんだか、家を乗っ取られた感じがしますね。
この相続劇が火種となり、為宗道吉の代に守護や岩清水八幡宮を巻き込んだ係争に発展します。

さて、結果ですが・・・
道吉(系譜②)に軍配が上がり、溝辺・在川を所領として認められます。
一方の酒井氏(系譜①)は、用丸と隈城に在居することになりました。

その後、両系譜とも酒井を名乗り、
宮方御家人・国方御家人という二面性を生かして繁栄していきます。
(島津さんの活躍で見落とされがちですが、それなりに大隅地区で頑張ってました。)
一族が増えていくに伴い、次第に居住する地名を名乗り始めます。
系譜①からは隈本・用丸
系譜②からは溝辺・有川・栗野・西郷
を名乗る家々がでてきました。
なんと、西郷さんも酒井氏が出自のようです。びっくりです。
そして隈元を名乗り出したのも、一族内での混同を避ける為・・・
藤原さんちの「安芸藤原⇒安藤」「佐渡藤原⇒佐藤」に通じるものがあります。
ん!?「隈城の酒井」ならば「隈酒」になってたかも?

さて次回は、1st南九州人となった酒井奉季について、もう少し深掘って行こうかと思います。

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