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酒井 奉季とは?

こんにちは、よんごひんごです。

今回は、初めて南九州に下向してきたとされる酒井 奉季について、深掘っていこうと思います。

まずは、系図の注釈文を確認してみましょう。

奉季
 修理所拯 始友親
⚪︎実斎院次官掃部頭藤原親能他腹舎兄たりといへとも、
 委細有て親父不快而岩清水八幡善法寺縁座たるを以て八幡に居住す、
 然に大隅正八幡宮執印草部光頼正宮えの参詣を諫によつて下向の序、
 安芸厳島明神江詣て滞在之際、神霊夢を蒙こと唯非一再、
 其霊妙の尊きことを感、当家氏神と崇敬する者也、
⚪︎大隅州桑西郷に下向して後帰洛せんことを願といえとも、
 執印光頼が奔走に任せ聟に成り、二子を設て妻女死去す、
 後光頼計ひを以て酒井奉直が聟に成して季時を設、
 奉直一子有といへとも早世す、
 因茲奉直継子と成て譲所領、当家を連続する者也、
⚪︎執印光頼の進めを以て始て任修理所職、於当郷奉崇敬正宮須更も無怠、
 終身まて抽神忠者也、

正八幡宮氏人牛丸酒井氏併修理所職系図

書いてある内容は次のようになります(多分)


奉季(ともとき)は、修理所(鹿児島神宮の営繕部所)の丞(補佐官)で、始め友親と名乗っていた。

⚪︎斎院の次官をしている掃部頭(かもんのかみ:掃部寮の長官)藤原親能の腹違いの兄であるが、父親が快く思わず岩清水八幡の善法寺に縁があることから八幡に住んでいた。
大隅正八幡(鹿児島神宮)執印 草部光頼が正宮(伊勢神宮)へ参詣することに対し意見を言ったことによって洛外へ下向することになった際、
安芸国の厳島神社へと詣て滞在することとなった。その時に神霊鮮かな夢を一度と言わずみたことから、
その霊妙で尊いことを感じ入り、当家の氏神として崇敬することにした者である。

⚪︎大隅国の桑西郷(くわさいごう)に下向した後は、京に戻りたいと願い出ていたが、
 正八幡執印光頼に可愛がられ、光頼の娘との間に2子をなすが、妻とは死別することになる。
その後、光頼が計略を以て酒井奉直へ婿入りさせることに成功し、季時を授かることになる。
なお、酒井奉直には男子が一人いたが、早逝しており、奉直の継嗣として所領を譲り受け、酒井家を継ぐこととなる。

⚪︎執印光頼の勧めもあり修理所職を任されることとなる。
 また、桑西郷に於いても正宮を崇敬することを方時も忘れることがなかった。その一生を神に仕えた信心深い人物である。


と、現代語風に訳してみたものは良いものの、正しいかどうかは不明。
なお、私は理系ですw

ちなみに要約すると以下の通り・・・

藤原 親能の腹違いの兄弟らしい
② 元々は藤原 友親 というらしい
③ 正八幡執印 草部 光頼 とは鹿児島に来る前からの関係
④ 氏神は厳島の明神様?
⑤ 草部氏の娘と結婚するも死別
⑥ その後、酒井氏へと婿入り
⑦ 舅(しゅうと)の酒井奉直の男子が早逝したので、そのまま酒井氏を引き継ぐ
⑧ 正八幡執印光頼の勧めもあり、正八幡の修理職に就任
⑨ 超信心深かった

まず、藤原 親能とは、『鎌倉殿の13人』にも出てきた中原 親能のことで、大江広元の兄にあたる。

諸説あるが、中原親能の実父は藤原光能で、母親が中原広季と再婚したことから中原姓となる。
なお、藤原光能は藤原道長の六男長家を祖とする御子左流(みこひだりりゅう)で、藤原定家など有名な歌人を輩出している家にあたる。

さて文章をそのまま信じると、中原親能と同父違母の兄弟 藤原 友親酒井奉季である。
が・・・
藤原 友親 なる人物が 藤原 光能 の子どもにいたという史料は見つからない。
「子として認知されないほどの不快を買っていた。」
ということなのでしょうか?

まぁ この出自をめぐる話から、
『隈元家の祖先は中臣氏』
の話が生まれてきたと想像されます。
とはいえ、奉季は酒井氏に婿入りしているわけのなので、
酒井氏本来の祖が藤原ではないので、ルーツ探しのゴールはまだ先。

それよりも、中原奉季 & 草部光頼 のコンビ、ご先祖さまなので悪くは言えないが
なかなかの権謀術数を張り巡らすコンビだったのでは?と、思ってしまう。
意図したのか、結果的になったのかは「?」ですが、
酒井家を、乗っ取った形です。
『光頼計ひを以て酒井奉直が聟(むこ)に成して』
と書いてあることから、
意図していたのだろうと思います・・・。

というわけで、隈元さんちのルーツですが、
・出自の一つとして、藤原氏説がある。(信憑性は・・・?)
・家(酒井氏)のルーツとしては、まだまだ調べないとわからない。
という状況です。
とはいえ折角なので、次回は1st隈元さんから中臣鎌足まで、どのように繋がっているのか調べてみたいと思います。


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