音大に行かなかった理由。

ぶっちゃけ、母が音大出身だったからだ。

あまりこの理由を考えたことはなかった。

50何年生きていて、はじめてかもしれない。こんなことを書くことはもう一生無いかもしれない気がするので記しておく。

1965年生まれのわたしは、幼少期からヤマハ音楽教室を経て、中学入学からは母も習っていたH先生に師事した。

子供向けのクラシック的なレコードに加えて小学校4,5年生くらいからラジオを聴き始め、クラシック以外のいろんな音楽に触れるようになり、テレビやラジオで流れる音楽を耳コピしたり、クラシック以外の面白い音楽があることに気づいた。

自宅には父がソニー・ファミリー・クラブで購入したポピュラー・ミュージックのカセットテープもあり、そういったイージーリスニング系の音楽も聴いていた。

そんな環境の中でピアノを習っていたが、H先生はわたしがいわゆる音大のピアノ科向けのラインに乗りえない人だということを早々に見抜いていたようで、中2くらいからドビュッシーやショパンでも正統派ではないラウンジ的な曲を課題として与えられた。それはそれで正解だったと思う。

そもそもレッスンの課題は前日くらいしか弾かず、もっぱら月刊明星の歌本を見ながら当時のニューミュージックやらビリー・ジョエルやスティーヴィー・ワンダーを弾いていた。そして作曲をしてヤマハのポプコンにテープを送ったり、スター誕生など、高校1年くらいまではいろいろなオーディションに挑戦し、悉く落ちた。テレビやラジオで流れる音楽はジャンルを問わず聴いていた。学校帰りはレコード屋や貸しレコード屋に毎日のように寄って、お小遣いで買ったカセットテープに録音して学校の行き帰りに聴いていた。あの頃Youtubeがあったら間違いなく藤井風さんのようにカバー曲の弾き語りを投稿していただろう。

音大の声楽科出身で、大学卒業後はアルバイト的に銀座のヤマハで黎明期のエレクトーンのデモ演奏をしていた母はそんなわたしを苦々しく見ていた。彼女はわたしを音大に進ませたかったようだった。

ただ、音大に進んだ後にどうなるという将来が見えなかった。

母をディスるつもりは毛頭ないが、音大を出た母やら他のピアノの先生の活動ぶりを見て憧れるということがなかった。H先生に教わる前、小学生の頃に習っていたS先生もポップス系には比較的明るい方だったが(1973年にヤマハ音楽教室の地区合同演奏会で井上陽水の「心もよう」を合奏させてわたしはドラムを叩いた)、母にしてもS先生にしても”あんなふうになりたい”と憧れる存在ではなかった。

今でこそポップスの世界でも音大出身者が多数いらっしゃるが、当時はそういった情報もなく(羽田健太郎さんが桐朋学園音大出身ということは大人になってから知った)、ポピュラー・ミュージックの世界に進んだ後の世界も想像できなかったし、関連する仕事というのも知らなかった。

同じ芸術系で美術系へ進むことを考えたが、残念ながらそちらの才能はなく、関西の女子大の文化系の学科に進学し、音楽とも美術とも関係ない関西の企業に就職し、上京し、結婚し、子供を産み、離婚し、履歴書の記載欄に書ききれないほどの転職を経て、ここ25年くらいは文化とは真逆な会社で文化なんか全然関係ない仕事をしている。

1980年代前半の地方在住の女子というのは、親と学校から与えられる環境と、雑誌やメディアからの情報、運が良ければ兄姉や友人知人からの情報、それしかなかった。兄も姉もいないわたしには雑誌やメディア経由の情報しかない。お小遣いが少ないので得られる情報も限られている。

時代やら、情報が少なかったことは言い訳にしない。同年代で地方出身で音楽の道に進んだ方はたくさんいらっしゃるのだから。

だけど若い頃の自分を否定したくはない。否定したら、あまりにもかわいそうだ。それなりに毎日毎日を一生懸命に生きていたんだから。自分くらいは、自分を認めてあげるひとがいてもいい。

これから何ができるかわからない。

幸い今は、情報がたくさんつかめる環境にある。若い頃にできなかったことを少しずつ蓄え、当時考えていたことや思ったことを、時代の証言者として記憶に残る限り残していこうと思っている。

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