見出し画像

初めての人も楽しめるブンゲイファイトクラブ

ブンゲイファイトクラブ決勝戦、今の僕は、北野さんは「刺さる」、蜂本さんは「わしゃわしゃ」ですね。何を言っているのか、わからない^^;

決勝戦が始まった時に僕は上記引用のようなことをツイッターで呟きました。確かに「刺さる」「わしゃわしゃ」の言葉だけではどんな意味があるのかが伝わらないですね。

「刺さる」とは、下記の画像のようなことを言います。

これは神奈川県の金沢区にある図書館の前に設置されている交通安全標語の看板です。
「いちごが好きでも赤なら止まれ」
ぱっと見ただけでも、かわいい、と思ってしまいますよね。しかもそれが看板になっている。僕は金沢区に十数年前に住んでいて、いつも図書館に寄る時にこの看板を見上げては幸せの吐息を漏らしていました。リアルな日常生活の中で、おっ?と思ってしまって立ち止まるような文章に出会うことが、その「おっ?」と思わせることが「刺さる」ということなんだなと思います。

ちなみにブンゲイファイトクラブ決勝戦の北野勇作さんの作品は下記引用のものになります。

意識的にほぼ百字小説の画像を引用して交通標語の画像と一緒にしました。ご了承のほど、宜しくお願いいたします。これらを見比べることで、ほぼ百字小説のことを知らない人でも、初めてブンゲイファイトクラブに来ていきなり決勝戦から見る人も、この短い文章の良さに気づくのではないでしょうか。少なくとも、「これは何? これも小説なの?」とは言わなくなると思います。小説とはこういうものだ、という固定観念をやわらかくする効果が、決勝戦の北野さんの作品にあると思います。


一方で「わしゃやしゃ」という言葉を説明するのは「刺さる」よりもちょっと時間がかかるかもしれません。ちなみに僕は「わしゃわしゃ」を下記のように捉えていました。

これらはアール・ブリュット作家のアドルフ・ヴェルフリの作品、『シオン=ウォーター=フォール』と『聖アドルフ=ブロッガー=小猫=杖と、聖アドルフ=王=太子』から引用しています。アール・ブリュットを正確に説明するのなら少し肩肘を張らなければいけないのですが、要は「わしゃわしゃ」はこの絵のようにぎゅうぎゅう詰めに文字と情報と感情が詰まっている状態のことを言います。ノートの切れ端に、スーパーのチラシの裏に、なんでもいいから思ったことをすぐに「わしゃわしゃ」と書いた感覚が、蜂本みささんの作品に感じられるのです。

亀は店の外にある逆U字形の車止めに、紐でつながれていた。甲羅に手と足と首をぎゅっとしまいこんでいる。「亀だ」「そうなんよ」「クサガメだ」「そうなんや」砂まみれの甲羅維に三本のキールが浮かんでいる。

上記がブンゲイファイトクラブ決勝戦の蜂本みささんの作品『竜宮』の一節からの引用です。ぱっと見でわかるように、地の文の説明のあとに改行しないで、《「亀だ」「そうなんよ」「クサガメだ」「そうなんや」》と鉤括弧の会話文をベタ打ちしています。これが「わしゃわしゃ」技法の基本だと個人的に思っています。
併せて下記引用に見られるリズム感が、「わしゃわしゃ」感を更に増していくのです。

あまりの大きさに笑えてしまい、するとすべてがどうでもよくなったので、わたしはそのまま実家に帰ってしあわせに暮らした。めでたしめでたし。
というわけにはいかなかった。
こうして一行は車に乗り、竜宮へ向かいましたとさ。
それで終われれば楽だったのだが、実際には上流に向かってひたすら河沿いを走らなければならなかった。
竜宮が見つからなかった話はこれでおしまいだ。
しかし話には続きがあって、あきらめきれない宇野さんは亀を連れて帰った。 翌週コーナンで大きな水槽を買いたいと言われて車で手伝いに行き、 なんだかそのままふたりと一匹で暮らしている。

ぱっと見でおわかりのように、上記は終わりそうで終わらない雰囲気を見事に表現しています。まるで子どもが親に向かって、今日あったことを「あのね、あのね」という感じで、次から次へと色々な話を思い出しては繋げる感覚に似ています。もしくは増改築を繰り返した在りし日の香港の九龍城砦のような魅力が、文章の裏面から伝わってきます。あとはこの文章が本当に伝えようとしている物語を、読者はどのように読解するか、にかかっていますね。

今回、僕は、小説を文字の連なりとして図形的且つ絵画的に捉えて、所謂、共感覚的な感覚でブンゲイファイトクラブ決勝戦の小説を読んでいます。小説を共感覚的に捉える先駆者と言えば、作家の鏡征爾さんが挙げられます。

かがみ先生は小説は絵を描く事と仰っていましたが、画像的に来るのですか?それとも映像的に来るのですか?
 
映像でぜんぶ出ます。光の反射の角度やフロアの照り返し、物体スピードがまずあって、その膨大な情報を文字(静止画)で表現するという順番です。自分の場合、文字も曲線と直線の図形的集合にみえるということです。 

上記引用がPeingの質問箱を通じてツイッター上に公開された鏡さんとファンの方のやり取りになります。……ただ、少し考えてみると、リテラシーにビジュアライズの要素を取り入れるということは、小説を読み慣れた人にとっては混乱する可能性があるかもしれません。少し考えてみただけでも、物語を分析することやミステリー小説の謎解きのようなことが、共感覚的な小説批評には適していないことがわかります。 ……そういうことを考えながら、ブンゲイファイトクラブという場で多くの人たちが批評や感想や想いを伝えあっている中で、僕は僕で他の人とは違う役割ができないかと思い、多様性を広げる意味を籠めて、今回僕はこのようなガイドブック的な文章を書こうと思いました。

12月1日午前11時を持って、ブンゲイファイトクラブ決勝戦の勝者が決まります。恐らく、そのあとは、多くのメディアがブンゲイファイトクラブに取材に来ると思われます。その時に初めてブンゲイファイトクラブを見る人もいるでしょう。所謂、一見さんと言われる人たちが、先に決勝戦の勝者を見て、こんな小説が優勝したんだと認知してから、第一回戦から遡ったり、決勝戦だけを見てすぐに帰ったりするかもしれません。

その時に、最終ジャッジの樋口恭介さんの他に、運営さんや今まで関わってきた批評家さんと共に、おまけ程度でこんなことを言ってる人もいたよ、という感じで僕の文章が拾えてもらえれば嬉しいです。

決勝戦の勝者は、北野勇作さんに決まりました。
最終ジャッジの樋口恭介さんの批評も下記リンク先に掲載されています。散文と韻文の両者を尊重する書き出しに心打たれました。その上で、散文の未来を見つめていこうとする樋口さんの想いを、時間をかけて掬い取っていきたい、と個人的に思っています。