「『「日本は同調圧力が凄い」というのは本当なのか?』を読んで」

2021/8/9Mon

「日本は同調圧力が凄い」というのは本当なのか?(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85805)という記事を読んだ。

上記にあるように、周囲と「同調しよう」という意識は、コミュニティを形成して生活している以上は、世界共通であろう。

が、「特定の集団(国、社会、企業、地域、学校、コミュニティ、組織、等)への帰属」という意味での同調しようという意識と、同調させようとする意識を考えれば、どうなるだろうか。

集団の目的や種別によって「あるべき(ふさわしい)」構成員像が、集団に属する大半には浸透しており、経済活動など、特定の目的のための集団であっても、その目的を遂行するために必ずしも必要ではない構成員像が、構成員の中で充分に、あるいは不文律的に共有される。

一度、目的遂行における問題点が発覚するや、遂行するうえでの問題はもちろん、特定構成員の日頃の言動や、果ては集団の目的夜は無関係であっても、特定構成員のプライベートな側面、例えばモラルといった、集団に属するためには無関係の要素まで吟味の対象とされてしまう。

合目的的な言動やプロセスを吟味することは、集団にとって同じ轍を踏まないために重要な事柄であろうが、例えば構成員自身の信条などを吟味することは、本来、集団の目的を遂行する上では煩雑かつ不要であるが、「ふさわしい」構成員であるか否かを問題視するのが、日本の多くの集団にとっての「常識的な判断」であろう。

記事に取り上げられた心理学上の実験は、あくまでも「答えを選択する」までのプロセスをひょうかしているが、ここに持ち出した「集団への帰属意識」について、あるいは日本の多くの集団で、中心的な話題になる「答えを表明した後」に生じる、まさに我々が「同調圧力」と表現している集団の構成員を均一化しようとする心理的圧力を評価できる実験ではない。

最近の日本の教育理念に掲げられている「個性の尊重」は、細かく言えば、意思決定のプロセスは個々人の意思を尊重しましょうという意味では、正にその通りである。

しかし、日本の社会が「息苦しい」感じが蔓延して閉塞感に満ちているのは、個人の意思を表明した後で、「あなたの意見はもっともだと思う」「私も理解できる」と一人称と二人称では何一つ批判的な、あるいは同調を求める意見を述べないが、「でも、みんなはね」「世間はね」など、三人称で表現されるが、特定個人の集団とは異なる、漠然とした存在の主張として、当該個人の意見を明確に否定したり、あるいは否定されることを仄めかすという「心理的圧力」をかけていくのは、果たして世界共通の同調圧力なのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?