見出し画像

「アルジャーノンに花束を。」 ダニエルでしょ

ぼくわこのごろよくねむれない日がつづいている。ねむろうとしているのに三じかんしかねむれない、しんぱいごとがあるからだといわれて店のことかあさんのことをおもいだすがどうすれば、うまくねむれるようにできるのかえらいはかせにおしえてもらいたいとおもている。今よりりこうになりよくねむれて毎日たのしくすごせたらいいものだ。

 ずっと気になっていたが、いつかいつかと想ううちに月日が過ぎてしまった。初恋のひととの再会か〜い、とツッコまれそうだが、「アルジャーノンへ花束を」への思い入れはそれほど深かった。
 しかし、なぜか映画化の主演男優を ダニエル・デイ・ルイス と思い込んでいて、最後に「アルジャーノンに花束をわたしてくれ」とのたまうダニエルを想像し、数十年間もずっと萌え❤︎ だったのだ。あほやん(恥)      

 話はそれるが、小説を読むときは前情報をなるべく入れず、読み終わってから、あれこれ調べるのが私なりのマイルール。著者ダニエル・キイスのダニエル妄想でダニエル・ディ=ルイスと連想した私だったが、若い時見逃した映画「マイ ・レフトフッド」(脳性麻痺男性の実話)への思慕も関係してるのかもしれない。これは両方の映像とも見ておかなくては。

(以下、ネタバレふくみますので小説未読の方はご容赦を)

画像1

画像2

 物語は、CHA”R”LYの”R”ですら正しく書くことのできない知的障害をもつ男が脳手術により「超知能」を得て、数か国語の言語や数式の法則やピアノ演奏などを理解し、知らないほうが良かったことまでわかってしまう、天才に変貌する。賢くなった自分をみて褒めてもらいたい一心だったチャーリーは”とうさん・かあさん”に会いたいと願うが、知能が上がるにつれ”父と母”との再会が恐ろしくなり、いざ再会がかなうと”マット”も”ローズ”も天才チャーリーを認識できないのだった。愛を乞うのに愛を得られないチャーリーも悲しいが、人間は老化や退化するもの、私にはその時間の残酷さが切なかった。

 この小説には目次がない。あとがきもない。
 前文が数ページあり、そこに著者の想いが記され、そのままチャーリーの独り言がはじまる。3月3日の「経過報告書」は幼児の日記風だったが、知能指数が高い時期には博士論文風になり、キニアン先生への分裂症気味の告白にもなり、11月に唐突に終わる......。彼の気持ちを時系列に記録する形で書き記され、読者は彼と同じ時間軸を、ちょうど春から冬の到来まで生きる、その構成があっぱれ、なのだ。


 登場人物中もっとも存在感を放っているのは、言葉を発しないネズミの「アルジャーノン」だ。人工迷路をゴールに向かって果敢に走りつづけ、やがて「特別なネズミ」として走り続ける意味を求めて苦悩し、自らを痛めつけるようになり、ただのネズミとして庭に埋葬される。
 チャーリーはアルジャーノンを憧れの対象とし、彼に勝ちたいとライバル意識を燃やし、知能が上がるにつれて同志となり、最後は憐憫の情で密かにかくまり、亡骸を葬る。親を超えていく子供の成長になぞられる。
 一方、登場人物中もっとも哀しいのはキニアン先生だ。彼女の心中は描写されていないため想像するしかないが、出会いから別れまで8ケ月間。その葛藤は計り知れない。二人の密接な関係をすべて忘れ去ったチャーリーの、無垢な姿がかなし過ぎる。せつなくて、読後数時間沈んでしまった。

 さて、本作を図書館で手に取るきっかけは、サザヱさんの読書録だった。

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」
を読み終えたあと、まるで続編のような、一人称SF小説の本作を読んだ私。
 この小説が60年代に出版されたことに驚いたが、いま読んでもまったく色褪せておらず、科学と人間性のありかたについて考えさせられる。
 自分自身も介護を経験することにより、少しは成長できたかなと思う、たぶん迷路一区画くらいは、きっと。

#アルジャーノンに花束を

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?