6月9日


3年ほど通っている病院から、障害者手帳を取得できる旨の案内が届いた。精神疾患で6ヶ月以上通院している人が申請することができ、さまざまな優遇措置を受けられるようだ。
精神疾患、と言われても正直ピンとこなかった。私は寝たり起きたりが他の人よりも少し下手なだけで、あと外出時に時々嘔吐してしまうだけで、鬱や統合失調症ではない。生活は豊かではないけれど、それは疾患のせいではなくて己の無能と怠惰によるものだし、そんな人間がバスや地下鉄を無料で利用しても良いのだろうか。ちょっとズルのような気もして、判断は先送りにした。

親切な人が、母親のことをずっと考えて落ち込んでしまうのはトラウマによるものではないかと教えてくれた。確かに、実家での出来事を突然思い出して仕事中に何時間も泣いているような人を、自分以外に見たことはなかった。そのことを病院で医者の先生に話したところ、「お母さんについてどう思いますか」と聞かれた。すぐに「嫌いではないです」と答え、その後、「嫌いではないですが、もう関わりたくないです」と言った。私がそれきり沈黙したのを見て、医者の先生は「次に来るときは、紙に書いてきてもいいですよ」と言った。

母親のことで、最近よく思い出すことがある。
私が大学4年生の冬のことで、母と私は、ファミレスの駐車場に停めた車の中にいる。運転席に座った母は助手席の私を何十分も罵倒し、時々思い出したように手を上げ、最後にほとんど叫ぶようにして「ずっと死にたいと思ってた」と言った。母は声を上げて泣いていた。どうしていいかわからなかったので私は黙って座っていた。母は、ハンドルに額を預けたまま、「あんたたちが幸せになってくれれば、私が生まれてきた意味もあるかと思って……」と言った。

自分自身の製造秘話を聞かされた時、母の私に対する異様な厳しさと不自然な執着の全てが腑に落ちた気がした。

母の希望する大学に合格できなかった時、「お姉ちゃんがああなんだから、あんたにしっかりしてもらわないと困る」と言われ、1年浪人して再び大学受験をすることになった。当時は学費などで金銭的に厳しいのだろうと、あまり深く考えていなかったのだが、おそらく「あんたが私の希望するレベルの大学に合格して、私の考える幸せな人生のルートに乗ってもらわないと、私が生まれてきた意味がわからなくなってしまうから困る」という意味だったのだろう。

母がどういう理由で、私たちを産んでいても構わなかった。だけど、知りたくなかったと思った。母はただ不器用なだけなのだと、母が私に与えたいものと私が母から貰いたいものがズレてしまっているだけだと自惚れていたかった。
母を捨てて家を出た自分の決断は間違っていなかったと今でも思う。あのまま、同じ場所で暮らしていたら、私はきっと母を殺していた。


香川に住んでいる友達がくれた美味しいうどん

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