小野不由美作品と理不尽との共存

 最近小野不由美作品を一気読みしたので、ちょっと思ったことを。

 なぜこれほど小野不由美の描くホラーに惚れ惚れするのだろう。「しっかりと怖い」以上の何か、一言では表現できないものが秘められているように思う。

 私が小野不由美のホラーに出会ったのは、小学生の頃。漫画化されたゴーストハントを友達に貸してもらったことから始まる。ゴーストハントの漫画が完結したときにはそれに代わる小説や漫画を探し回ったが、結局ゴーストハントロスを慰めるほどのホラーに出会うことはできなかった。
 ちなみに、20年前十二国記の「黄昏の岸 暁の空」を読み終わったときも同じように十二国記に似たファンタジーを探し求めたが、ついぞ出会えなかった。
 小野不由美作品にとらわれて空いた心の穴は、どうやら小野不由美作品でしか補うことができないらしい。

 その理由の一つが、登場人物が、いかに超常現象という理不尽さと対峙し、そしてその理不尽と共存するために一歩踏み出していくかというところにあるのかもしれないとふと最近思った。

 理不尽とは嫌なものである。けれども、世の中には結構理不尽が溢れているようだ。ただ生きているだけのはずなのに、辛い思いをしなければならないことがある。
 とりわけ、思春期の頃には理不尽だと感じることが多かったように思う。好きで勉強しているわけじゃないのに、大人はわけのわからない理屈で怒ってくる。好きなことばかりしていると今度は将来が不安になる。友達は好きだけど、怖いときもある。もっともっと多くの理不尽を感じて生きていたように思う。
 大人になると、理不尽に対処する力がついてくる。対処できなくても割り切り呑み込めるようになっていく。子どもの頃ほど理不尽だと感じることが少なくなった。
 それでも、きっと理不尽はいつでも足元に転がっている。

 小野不由美作品の登場人物は、超常現象という理不尽と出会う。そして自分の力で、あるいはゴーストハントのSPRや営繕かるかやの尾端ら専門家の力を借りながら、理不尽に対抗していく。
 その激しい理不尽をくぐり抜けるときに、強烈に胸に刻まれる哀愁。そして、それと共にまた一歩強く踏み出していく。

 特に営繕かるかやは、お祓いによって理不尽的に現れた幽霊を排除したりはしない。生きている側の知恵と勇気によって、共存できるようにしていく物語だ。
 もしかしたら私も、割り切って呑み込んで苦い思いをしなくても、足元に転がっている理不尽と共に強く生きていけるのかもしれない。
 そんな替えの利かない勇気を、小野不由美作品はいつも私に与えてくれるのだ。

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