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『劇場版モノノ怪 唐傘』古池に染まるということ

 「……大奥というのは、古池のようなものだ。川から飛び込んだ魚は、いずれ、その水に慣れねばならん」
 「言っただろう。水が変われば、魚も変わる。変わらなければ生きてゆけぬのだ」

『小説 劇場版モノノ怪 唐傘』 坂下

 モノノ怪 唐傘という物語を最もよくあらわしたのが、小説版で坂下が語った上の言葉ではないだろうか。

 手に職をつけたくて、煌びやかな世界に憧れて、箔をつけたくて、魚たちは濁り淀んだ古池とも知らず、大奥へ飛び込んでくる。その古池に染まるように、魚たちは濁り淀んだ水を飲み干し、大切なモノを捨てる。そうして、姿形を変え、あるいは心の在り方を変えることで、魚たちは大奥に受け容れられるのだろう。
 大奥に受け容れられるうちに、彼女たちは自分をどう生きるかよりも、古池にどう染まっていくかに囚われてしまう。そのうちに、大奥に染まらぬモノを、それが自分を生きるために必要だと感じた大切なモノだったとしても、切り捨てることを厭わなくなっていく。
 大切な物も、人も、自分の心さえも、大井戸へ捨ててしまえば、身が軽くなり次の段へと昇っていける。それが大奥に受け容れられるということ。古池に染まるということ。

 しかし、そうして大切なモノを切り捨てていけば、彼女たちは自分をどう生きていけばよいかを見失い、心が渇いてしまう。
 北川も渇いてしまった。聡い彼女はその渇きに気づき、同時に乾いて力を失った心では生きる意味を、自分をどう生きていくかを見出せなくなってしまったことにも気づいてしまった。彼女は、最後に、古池に染まることに意味を見出せなくなった自分を大井戸に捨てねばならなくなった。
 自分を捨てることが、唯一彼女に残された自分を生きるための道だったのかもしれない。
 北川は捨てたくなかった。けれど、捨てたくないと思った自分を捨ててしまった。だから、渇いてしまった。そして、とても悲しい形で自分を捨てるしかなくなってしまった。 

 歌山も、淡島も、麦谷も、大奥で生きる女性は大切なモノを、それを捨てたくないと思った自分を幾度となく捨て、渇いてしまっていた。
 渇いた者の前に、『唐傘』は現れる。その渇きに気づかせ、今度は彼女ら自身を大井戸へ捨てさせるために。
 そうして、自分を生きるということを見失ってしまった彼女たちを終わらせようとしたのか。
 あるいは、渇きに気づかせ、自分自身を取り戻させるために現れたのか。それが、彼女たちに愛されたモノの最期の役目だったのかもしれない。

 歌山は、古池に染まり切れなかった数多の女性を、大井戸に捨ててきた。きっと彼女も捨てたくなかった。それでも、渇いた心を押し殺した。それが大奥に貢献し、その場所を守ることだと信じていた。
 最期に歌山は自分の渇きを、その渇きのためにモノノ怪へと姿を変えてしまった大切なモノたちを受け容れ、共に大井戸に沈むことが自分の役目だと悟った。その役目を全うすることで、きっと濁り淀んだ古池を終わらせようとしたのだろう。

 アサは大切なモノを捨てなかった。
 これからもきっと捨てない。だからこそ、歌山はアサが濁り淀んだ古池を、本物の海のように美しい場所へ変えてくれると信じて託したのだろう。
 アサは遠くの雄大な海を、そこで幸せに生きるカメの姿を心に秘めながら、小さな古池で彼女を生きていくに違いない。
 また、いつか美しい海でカメに再会できると信じて。

おしまい!

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