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【8月は事務月間】 9月にマンガ再開/「言葉のきれいな不作為」/240811日

こんばんは
定期更新の時間です
今日は現代の軋轢案件の被害者が直面する、「言葉の綺麗な不作為」について書き残しておこうと思います

ネットでの発信をしていると、こちらが難しい案件の被害者であることに気がついたり、その暴力性や軋轢に耐えきれなくなったりした人が、「言葉のきれいな不作為」に入るのをよく目にします。

例えば
「平和」
「穏健に」
「時間が解決する」
「コンプライアンス」
といったものです。

これらの言葉は、現場にとっては非常に厄介です。加害者への抑止や、被害者の救済を含まない言動は、現実には、問題解決の役には立ちません。むしろ阻害要因になります。

しかし見た目は言葉がきれいで穏健であるために、その問題点がわかりにくい。その発言の生む悪い影響や、二次加害性が覆い隠されているのです。

これらの言葉を口にする人は、争いごとを好まない、やさしい人たちなのでしょう。悪気などないと思います。


しかしこれらのきれいな不作為の言葉は、加害者の行為に黙認の許可を与えます。その一方で被害者へのモラハラになります。

またその発言が習慣化すれば、もう少し態度が強引になります。言っている方は、自分たちは正しいことを言っていて、被害者が従わないのが悪い、被害者にいうことを聞かせなくてはと考えているのかも知れません。

しかしその人たちは、自分たちが問題解決から逃げていること、被害者に問題解決を丸投げしていること、被害者をコントロールすることで、問題解決に繋げようとしている点に気がついていません。


過去はどうだったか知りませんが、現代の日本のネット世論では、加害者を責めずに被害者に英国紳士並みの振る舞いを求めるという無茶苦茶なことをしています。

これには、ネット空間で醸成された、振る舞いテンプレートも関係しているでしょう。何かというと「距離を取る」。なんでもかんでも「炎上や晒し行為とみなし」過剰反応をする。問題解決より「純白のコンプラを守りたい」。

問題を抱えた当事者にとっては地獄のような世界です。

これらの振る舞いテンプレートは問題解決を遠ざけ、また当事者を苦しめています。また、この民主社会を形作ってきた根幹を軽視していると思います。

問題は、共有し、向き合い、解決するものです。
軋轢があるからとないことにするのは、隠蔽や二次加害と一緒です。また未来に加害の成功体験という根深い禍根を残します。

またこの人間社会において、起きたことを書き記し、共有することは、社会のシステムを作る根幹の行為です。その重要性があまりに軽視されていないでしょうか。

ネットのお決まり仕草で思考停止をしていないでしょうか。問題解決の現場でで行う本筋の行為は、問題を共有し、解決することなのです。

出羽の守と言われそうですが、海外では起きた問題のドキュメント作品はすぐに作られます。しかし日本はどうでしょうか。大手メディアは報じず、10年ほど経って中小の出版社から体験記を書くことが許される。またはほとぼりが覚めた頃映像化される。

この差は、問題に向き合う真摯さと覚悟の有無だと思うのです。

私はこの十数年間、この事件で誰がどのように行動してきたかを見てきました。そして誰が真摯で誠実だったかについて、自分のステレオタイプなものの見方を変えました。

本当に社会に責任を負うということがどういうことなのかについても、ずいぶん考えました。

9月再開のストーリー漫画ではいいたいことがたくさんありますが、このステレオタイプの話や、現代風の行動の型など、マジョリティの当たり前が生む理不尽についても描いていこうと思います。

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