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生きづらさを抱える/手放せる?

先日、ある方がコメント欄で

生きづらさ」ということばはいつ頃から出始めたのか?

という問いを立てていた。

私は「いつ頃かはわからないなぁ」と思った。

そして調べてみた。(わからないことは何でも調べてみる。)

noteで「生きづらさ」について既に書いている方がいた。さすがである。

この方は「エール」という会社の代表取締役の方なんですね。
「生きづらさはどこから来るか」という本から内容をふまえて、わかりやすく解説されていました。

狩猟採集生活では、職業選択の自由はないが、各々の得意に応じた役割分担はあった。足が早い、腕力が強い、手先が器用、どこに何があるか覚えていられる、子育てが得意、など。集団の中で役に立たなければ、例えば狩りに失敗してしまうとか、毒のある果物を採集してしまうなどの危機を招き、集団全体を命の危険に晒してしまう。その時代、集団から追い出されてしまったら、人間は一人では生きていけない。「協力集団の中で、役割を認められて、関わっている」状態でなければ、死んでしまう。
私たちは「協力するようにできている」こと以上に、「協力集団に所属できない」可能性に対し、命がけの危機感を感じるように進化したのだ
「居場所がない」と感じるのは、「自分が理解できる他人がいない」「所属している協力集団がない」と感じているからだろう。
もう一つは、本書の考え方に基づくと、少なくともこの100〜200年は、「生きづらさ」という点では変わらないはずだ。私の若い頃よりも「生きづらさ」の感覚が広まってるとしたら、その要因はどこにあるのか。本書からは読み取れなかった。

「生きづらさ」=「居場所のなさ」ということなんだろうか。

そして生きづらさの感覚は広まっているのか?本からは要因が読み取れなかったそうだ。(いずれ本を読んでみたいと思った)

そしてnoteはこう続いている。

例えば、検索して見つけた内閣府の研究会資料の中に、学校や受験にまつわる「生きづらさ」は、1970〜80年代の厚生白書にも記載されていたことを示すものがあった。

調べてみると確かにたくさんの厚生白書が出てきた。
私が生まれた頃にはもう既に「生きづらさ」ということばがあったようだ。

そしてもうひとつのnoteを紹介する。

私は、生きづらさとは生きがいの獲得の躓きと同義であると考える。生きづらさを考え、そこからの脱却を検討するということは、生きがい感を持ちながら生きる。すなわち「豊かに生きる」という喜望峰を立てることに繋がるだろう。
(田中康雄 2008『軽度発達障害-繋がりあって生きる』金剛出版,p13-15)

おっしゃるストリートさんの記事。こちらも田中さんという方の本を参照している部分がある。
「生きづらさ」=「生きがいの獲得の躓き」なのか?

おっしゃるストリートさんはこの「生きづらさ」ということばのしっくり来ない感じについて述べられている。とてもおもしろい視点だ。


じゃあ、今日はここまで!


に、しても良いのですが、

ここから私が考える「生きづらさ」について考えてみる。

マズローの欲求段階説というものがあります。

(ご存知の方は文章を少し飛ばして下さい。)

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自己実現理論(じこじつげんりろん、英: Maslow's hierarchy of needs)とは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。自己実現論、(マズローの)欲求段階説、欲求5段階説、など、別の異なる呼称がある。(Wikipediaより)
生理的欲求 (Physiological needs)
生命を維持するための本能的な欲求で、食事・睡眠・排泄など。極端なまでに生活のあらゆるものを失った人間は、生理的欲求が他のどの欲求よりも最も主要な動機付けとなる。一般的な動物がこのレベルを超えることはほとんどない。しかし、人間にとってこの欲求しか見られないほどの状況は一般的ではないため、通常の健康な人間は即座に次のレベルである安全の欲求が出現する。
安全の欲求 (Safety needs)
安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故の防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。
社会的欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。
自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。愛を求め、今や孤独・追放・拒否・無縁状態であることの痛恨をひどく感じるようになる。
不適応や重度の病理、孤独感や社会的不安、鬱状態になる原因の最たるものである。
承認(尊重)の欲求 (Esteem)
自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。
自己実現の欲求 (Self-actualization)
以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。

この欲求段階の考え方は、下の低次の欲求が満たされると上位の欲求段階へすすんでいくという特徴があります。

全てがそうとは言い切れないのですが、私はこの欲求の各段階、各ステージにいる人たちによって生きづらさは色合いが違ってくるのかな・・・と何となく思っています。

この生理的欲求と安全の欲求にいる段階の方達は、
「生きづらさ?」「何だよそれ」「こっちは毎日の生活が大変で生きていくのが精一杯だよ!」
と、思っているような気がするんです。例えば第二次世界大戦でも、桶狭間の戦いでも何でもいいのですが、そんな時代に生きていた方達はそんなこと言ってる余裕もないというか、とにかく自分が明日を生きることや戦に勝つ事が第一優先だったりしますよね。

そんな社会の中で「居場所がない」とか「生き甲斐」なんて話は、心の奥深いところには持っていたとは思うですが、表面には出てこなかったり、考える余裕もないというか、出せる雰囲気もないというか、そういう概念があまりなかった人も多かったのではないでしょうか。

今では、例えばホームレスや貧困を抱えている人たち、虐待や孤立で生きていくのが難しい人たちが、上記の時代の人たちと同じような状態であるのかなと思います。

奥田知志さんの著書からまた紹介したい文章があるのですが、

「ホームレス」自分の帰るところ(心)がない状態
「ハウスレス」自分の家(物質的に)が無い状態

両者は違うという内容で、ホームレスの方から「畳の上で死にたい」と相談されて、おうちを提供すると、今度は「俺の最期は誰が看取ってくれるのか」といった「自分のホームがない」状態があらわになるというお話でした。

これは、生理的欲求と安全の欲求がある程度満たされることによって、「隠れていた生きづらさ」が表面化している状態なのかなと個人的には感じました。

さらにその段階によって
「社会的欲求と愛の欲求」:居場所があって受け入れられている
「承認の欲求」:居場所から尊重されて認められている
「自己実現の欲求」:自身のやりたいことを実現できる

ということが個々でかなえられない状況において「生きづらさ」をそれぞれが感じているのかなと思います。

だから、人によっての生きづらさって定義しづらいものだし、本当に様々な種類の生きづらさがあるし、「生きづらさ」についてもやっぱりひとつひとつの物語があるんじゃないかなと思います。

抱えた生きづらさを開放することが、その人の生きる力を背中からそっと押してくれるようなことがあるかもしれません。1人の人が手放すことができたら、他の人が救われるようなこともあるかもしれない。

また、反対に、手放すことで、また新たな違う局面を迎えた生きづらさが追っかけてくるようなことがあるんじゃないかなと思います。

正月から変なお話ですみません。(だいぶ長くなってしまった)

また、何か思うところがあったら、つらつらと書きたいと思います。



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