見出し画像

第1回ゆる読書会レポート(後編)

【37の原則】

“人を動かす”は、37項目の人間関係ついての原則で構成されている。
読書会は1時間。
1時間で、すべてを網羅することはできないので、全員で気になる原則について話し合う形式をとった。
未読の飛び入り参加もOKとしたため、全原則をA4用紙一枚にまとめて準備し、本を持っていない方にはそれを配布して、気になる原則を選んでもらった。

結果、ピックアップされた原則は3つ。
① 盗人にも五分の理を認める ②ほめる ③議論を避ける、であった


【相手を理解することと、脳科学の返報性】

『盗人にも五分の理を認める』という原則。
冒頭、ある極悪非道な殺人犯のエピソードが紹介されている。
その殺人犯は、逮捕後、処刑されるそのときまで、自分は善良な人間だと信じて疑わなかったそうだ。
自分には人を殺す正当性があったのだという。
このたとえをもって、極悪人ですらそうなのだから、人間は自分がどんなに間違っていようとも、けっして自分が悪いとは思わない生き物だと説明している。
どんな人間でも(たとえ悪人でも)本人のなかでは、筋の通った理屈があり、正当性があるのだという。

本書のなかにこのような一節がある。

『相手への非難は反発を招くだけで、状況の改善には少しもつながらない。
人を非難する代わりに、相手を理解するように努めようではないか。
どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。
そのほうがよほど得策でもあり、また、面白くもある。
そうすれば、同情、寛容、好意も、自ずと生まれ出てくる。
すべてを知れば、すべてを許すことになる』

参加者のなかでも、この一節が気になったという方が多かった。
はじめてこの本を読んだ4年前は、たとえ相手が悪人であったとしても、その心情を理解することに努めた方がいいだなんていう理屈は、とうてい納得できなかった。
間違いは間違い、悪いことは悪い、そこに理解は必要ないし、正当性なんて存在しない。
そう僕は思っていた。
けれど、間違いも悪いも正当性もその時代や社会によって大きく変わる。
よくよく考えれば、自分の思っている間違いや正当性の基準はけっこうあやふやだ。

参加者のひとりで事務職のTさんは、この原則を読んだときに職場の上司の顔が頭に浮かんだそうだ。
上司は、仕事は部下に丸投げで、人の忠告にはまったく耳をかさず、他人に迷惑をかけている意識があるどころか、自分はまわりからイジメを受けている被害者だと思っているような人物だとのこと。
ほとほと悩んでいたという、Tさん。

けれど、この本を読んだことで、『上司の立場や考え。まずはそれを理解してみよう』と思い立ったそうだ。
そうすることで「上司も上司なりに真剣に仕事に取り組もうとしているところがあるんじゃないか」と考えられるようになり、不思議と相手に対して優しくなれて、気が楽になったと心境を語ってくれた。

脳科学では人間の脳は主語を認識できないとも言われている。
たとえば『上司は無能で最低だ』と思ったとすると、脳のなかでは“上司は”という主語が抜け落ちてしまい、『無能で最低だ』の主語が“私は”になってしまう。
つまり相手へむけたマイナスの感情が、自分から自分へと返ってきてしまうのだ。
逆に相手を理解しようとすることで、プラスの感情が自分へと向けられることとなり、気が楽になったり、相手に対して優しくなれるのではないだろうか。

なので、Tさんの話しと合わせて考えてみると、冒頭の『人を非難するよりも、理解するように努めることの方が得策である』という言葉は、的を射ていると感じられた。


【“ほめる”も“叱る”も同じ○○】

心からほめる、まずほめる、わずかなことでもほめる、ほめる、と34の原則のなかで4つも“ほめる”について語られている。

『仮に家族や使用人に、六日間も食べ物を与えないでおいたとすると、我々は一種の罪悪感を覚えるだろう。それでいて、食べ物と同じくらい誰もが渇望している心のこもった賛辞となると、六日間はおろか六週間も、時には六年間も与えないまま放ったらかしにしておくのだ』


これはこの本のなかで、僕が一番印象に残っている言葉だ。

誰でも、人からほめてもらいたい。
本著のなかで『人が“認められたい・ほめられたい”という感情は、希望や待望といったなまぬるいものではなく、“渇望である”』と説かれている。

“ほめられたいという気持ち=渇望”
これは人間の本質だと僕は思う。

参加者からも、常に相手をほめることは意識しているという意見もあった一方で、『ほめることを意識しすぎて疲れてしまった』や『損得の場だと、ほめるという行為に裏があったり、下心が見え隠れしてしまって、なんだかイヤだ』という意見もあった。

さらに『議論を避ける』という原則と絡めて、「相手と議論はせずに、ほめる。たしかにその瞬間は心地よくて、うまくいっているように見えるかもしれない。けれど、相手をほめることに集中して、言いたいことを言わないでガマンし続ければ、のちのち破綻する気がします。相手との関係も、自分自身も」と医療関係者のRさんが語った。

たしかに、そうかもしれない。
というか、実際そうなった経験が僕にもある。
相手をほめることに集中し、言いたいことはガマンして、その場の空気感を第一に考えていた数年前。
いい雰囲気がつくれていると自負していたが、そんなことはなく。
相手には不満がたまっていて、第三者からそのことを聞かされるという苦い経験。

では、『議論はせずに、自分の言いたいことを伝える』ためにはどうしたらいいんだろうか、という話になったとき、経営者のAさんからこんな言葉が出た。

「アイ・メッセージで伝えればいいと思います」

「『あなたはこうだ、あなたは間違っている』といったように“あなたは(You)~”という伝え方だと、相手は自分が非難されていると強く感じてしまい、頑なになってしまうんです。たとえ言葉ではそう言っていなくても、ニュアンスでそれは伝わってしまいます。そこで、『わたしはこう思う、わたしはこう感じた』といったように、“わたしは(I)~”と伝えるように意識してみる。同じ内容だとしても、これは自分の感情や気持ちを述べているだけなので、相手には自分が非難されているようには伝わらない。こうすれば、スムーズに言いたいことを言えるんじゃないでしょうか」

さらに続けてAさんが言う。

「人間同士、どうやっても理解しあえないこともあります。けれど、『理解はできなくても、受容はできる』と思うんです。受容=受け入れる・認める。本のなかで言われている相手を“ほめる”ということも、“認める”と言い換えることができるんじゃないでしょうか。理解はしあえなくても、対話をかさねていき、相手を受け入れる・認めることができれば、信頼関係を築くことができると私は思っています」

それを聞いて自称無職のNさんが、ハッと気がついたように語り出す。
「そう考えると、“叱る”ことも認めるってことじゃないかな。叱るってことは、ほめると同じで自分のことをよく見てくれているってことでしょ。その場の空気に合わせて上辺だけほめられるより、しっかりと叱られたいかな、俺は。その方が、認めてもらっているって感じる。むしろ、叱られなかったら逆に怖い。信頼関係が築けてないなって思う」

“叱る”も“ほめる”も同じ、『認める』ということ。そしてその先に信頼関係が成り立つ。

僕はとっさに、『いや、そんなことはない。叱られるってことは、自分を否定されていることじゃないか。相手を認めてなんかいない』と、内心毒づいた。

だがしかし、だがしかしである。

前述した僕の苦い思い出。そこには、“叱る”ということは存在していなかった。
だとすれば、叱ることがほめることと同じくらい相手に求められていたことで、叱ることが欠落していたからこそ築けなかった信頼関係が、そこにはあったんじゃないだろうか。

信頼関係とは、相手を理解しようとすることで粗削りをしていき、相手を受け入れることで仕上げていくもの。
そう、思えた瞬間、僕の苦い思い出のモヤモヤが晴れた気がした。


【見続けたい“光景”】
主婦のMさん:「本のなかで『人に好かれるには、名前を覚える』って書いてありますけど、これ私苦手なんです。何度か会ったことがある人にでも、初めましてって挨拶しちゃって怒られたこともあるくらいで。大事ですよね、名前を覚えるの」

教師のHさん:「そうですよね。私もその部分を読んでいて、そういえば、生徒に好かれている先生は挨拶のときに必ず『○○さん、おはよう!』って名前を呼んでいることに、気がつきました」

自称無職のNさん:「俺も名前を覚えるのは大事だと思っていて、相手が名札を付けていると、必ず凝視するクセがついちゃっていて。けど、名札の位置がだいたい胸の位置にあるから、凝視していると女性に変態あつかいされるんで、今は顔と名札を交互に見るように特訓中なんっすよ(笑)」

時間の経過とともに、打ち解けてきたように感じる参加者さんたち。
年齢も性別も職業も違う人たちが、“本”を中心に語り合い、打ち解けあう。
そして、それぞれの本を読んで得た気づきが、重なりあって層をなす光景。
僕は読書会でこの光景をみるのが、うれしくもあり、たのしくもあった。

まだこの光景を見ていたいと思いつつも、予定の1時間が過ぎたところで読書会は終了。

参加者さんからは「おもしろかった」、「参加してよかった」と言っていただけた。
つたない部分もおおいにあったが、そう言ってもらえたことで、読書会をやってみて本当に良かったと感じている。
また、課題図書について、『他人を動かし、操るための本』ではなく、『自分が動き、変わるための本』であったという、別の視点に気がつけたことも大きな収穫であった。


【やらない手はない】
これを機に、少しずつではあるが、読書会を企画していきたいと思っている。
この文章を読んでくれているあなたも、読書会を企画してみてはどうだろうか。
一度、マスターに相談してみてほしい。
肩に力を入れず、『ゆるく』、『とりあえず、やってみよう』でもいいはずだ。
これは、僕が自分自身にも言い聞かせていることでもあり、大切だと思っていることでもある。
やってはみたいが、『どこでやれば?』や『参加者はいるのか?』といった不安や心配もあるだろう。
けれど、せっかくブックバー月に開くという、本好きの人間が集まる場所があるのだから、やらない手はないと僕は思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?