言論の自由について

昨今、政治系の雑誌広告が新聞などに頻繁に掲載されています。
それらを見ると、思想的に反対の立場にある人たちを遠慮会釈なく罵倒する文言が並んでいます。

テレビの討論番組などでも、発言者が保守かリベラルかに関係なく、自分と異なる意見を持つ相手を小馬鹿にし「何でこんなことが分からないのか」と言わんばかりの上から目線での発言が飛び交っているので、最近は見る気が失せました。

ごく一般の人々によるSNS等での発信においても、少し政治絡みになると「こんなことも分からないのか」と言った、上から目線で相手を馬鹿にする語法がまかり通っています。

「言論の自由」は憲法で保障された基本的人権の一つですが、そもそも「なぜ言論の自由が大切なのか」・・・言論の自由が拠って立つ基本原理を私たちはあまりにないがしろにしているのではないでしょうか。

「言論の自由」はなぜ大切なのか。
それは、人々が自由に意見を交わし、異なる意見に耳を傾けて議論を重ねていくことで、より良い考え方に収斂していく可能性が、そうでない場合よりも高いからだと思います。

親兄弟でも意見が異なることは数えきれないほどあります。
ましてや他人同士であれば多様な意見が生まれるのは当然のことで、自分と全く異なる意見を持つ人も決して少なくない。

だからこそ、情理を尽くして自らの意見を述べると同時に、立場や意見の異なる相手の話にもしっかりと耳を傾けて互いの意見をじっくりと吟味する。
そうすることで、より良い考え・より優れた意見に到達する可能性が、そうでない場合よりも高いはずだという信念こそが「言論の自由」に意味を持たせているのではないでしょうか。

「言論の自由」が成り立つのは、誰もが好き勝手な事を言っていい自由の存在ではなくて、言論が自由に行き交うことで結果的に社会がより良い方向に進んでいくはず、という「言論の場への信任」があってこそだと思います。

会話する喜び、コミュニケーションすることの喜びは、自分が思いもしなかった考え方やアイデアを他人から得られることであり、自分とは異なる感受性を通して違う世界を知ることにある、私はそう思っています。

私が、このブログなどを含めて、できる限り丁寧な言葉で感情的にならないように文章を書こうとするのは、私に反対する意見の方々にこそ読んで頂き、できれば「お前の言うことにも一理ある」と思って頂ければ幸いですし、「いや、それは違うよ」という場合には、理路整然とした反対意見を聞かせて頂くことで自分自身の考えを吟味していきたいと考えるからです。

異なる意見・立場の相手に私の意見を届け、同時に相手の意見にも耳を傾けるためには、私が上から目線での発言をしていては望むべくもありません。
情理を尽くして、丁寧に自らの意見を述べると同時に「自分は間違っているかも知れない」という謙虚な気持ちを持ちながら相手の意見に耳を傾ける、そんな姿勢があってこそ、より良い議論・コミュニケーションが成り立つのではないでしょうか。

社会をより良くするための手段であるはずの「言論の自由」が、その役割を正しく発揮できるためには、私たち自身が「言論が行き交う場を、真っ当なカタチで活性化することが社会を良くするはず」という「言論の場への信任」が必要なのですが、それなしで「自由」だけが独り歩きしているのが、民主主義国家と言われている(日本を含む)多くの国々で行われていることのような気がしてなりません。

民主主義が危機に瀕している、という論調を時々目にしますが、その理由の一つが、人々が言論の自由の何たるかを理解していないから・・・
私はそんな気がしてなりません。

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