企業における言論の自由の重要性

2020年のアメリカ大統領選挙では、SNSで過激なメッセージをまき散らすアカウントが削除され、削除された当事者は「言論の自由」の名の下に激しく抗議していました。

言論の自由とは何でしょうか。
誰でも好きな事を言っていい、ということでしょうか。
そもそも「言論の自由」は何のために存在しているのでしょうか

制度やルールは、世の中を良い方向に向けるために作られるべきであり、多くはそのように作られてきたはず、だと私は考えています。

世の中には、独裁者や権威主義的トップによって作られた、とんでもない制度がありますし、民主的に決定された制度であっても衆愚による決定としか思えないものも数多く存在します。
それでも私たちは、幾多の失敗を繰り返し、行きつ戻りつを重ねながらも、基本的には「世の中を良い方向にしよう」として数多くの仕組みや制度を作りだしてきたのではないでしょうか。

基本的人権はその一つですし、言論の自由もそこに含まれます。

なぜ言論の自由が世の中を良い方向に向けるのか。

人は誰しも間違いを犯します。
だからこそ、さまざまな言説、考えの異なる意見に接することで、自らを振り返り、過ちを正す機会が生まれ得るからではないでしょうか。

言論の自由とは
「先ずは、誰もが自分の言いたいことを自由に発言できる」
「その上で、主張の異なる言説が自由に行き交う場から、私たちは学びを得る」
ことだと思います。

でも、ほとんどの人が「言論の自由」を前段に限定しており、後段を見落としています。
「言論の自由」が社会にとって有益であり続けるためには、後段の条件が不可欠であろうと思うのです。

自由な言論が行き交う場から学びを得ようとする態度は、言論が行き交う場を信任し「場に対して敬意を払う」姿勢を持つことです。 
学びの場への敬意とは「自分の意見が絶対に正しい」ではなく「自分は間違っているかも知れない」という謙虚な姿勢を持つことです。(でないと、どんなに優れた意見に触れても学べませんよね)

言論の自由というのは、「自由に発言できる」と同時に「自分は間違っているかも知れない」という謙虚な構えを持つからこそ機能するのではないでしょうか。

企業においても同じです。

企業はヒエラルキー社会であることが多いので、自由な言論が建前に過ぎないケースが多々見受けられます。
ワンマンと言われる経営者が支配する会社では、自由な言論が封殺されていることすらあります。
もちろん、会社は単純な多数決で物事を決める場ではありませんし、100人のうち99人が反対しても前に進まねばならないこともあります。

ただ、決断をするトップやマネジャーは無謬ではあり得ません。

誰しも間違いは犯しますし、社員のミスに比してトップのミスは会社に破壊的な損害をもたらす可能性が高い。
だからこそ、間違いを犯す可能性を少しでも減ずるために、耳の痛い意見やトップへの批判に対しても冷静に耳を傾けて「自分は間違っているのではないか」と考え抜いた上で決定してもらわねばなりません。

最終的にはトップが決断できる(可能性が高い)組織だからこそ、企業においてこそ「言論の自由」が保証される風土作りが絶対不可欠なのです。

そして、そういう風土を作れるかどうかは、まさにトップの資質にかかっているのです。

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