矢代さんの美しさとはなんなのか考えてみる

 矢代さんは何故美しいのか?
 もちろんBLの受様だからです、と言ってしまえば身も蓋もないわけですが、実をいうと、とくに1巻あたりの矢代さんって、わりとニヒルな感じが強く前面に押し出されてて、所謂ヨネダ先生の綺麗な男、って感じではないんですよね。
 ヨネダ先生ご自身も、囀るで一番色気があるのは久我で、矢代は意識的にそうなってる部分がある、とおっしゃってるし。
 もちろん、漫画は記号でもあるので、美しい男、という設定をかぶせてしまえば美しい男になっちゃうんですが、とくに最初の方では、百目鬼の視点から見たときの矢代さんだけが、意図的に美しく描かれていたような印象を受けます。(あ、立ち姿とかが美しいとか、タバコを持つ手が美しいとかいうシーンはあちこちにありましたが!)
 巻が進んでくると、怪我してる色気と、百目鬼を意識し始めた色気で、色々ダダモレになってくるわけですが、、、

 じゃあ、百目鬼は、矢代さんの何を美しいと思ったのか、というのが、実は最初から気になっていたんですね。しかも、姿を見ただけの、会話をする前から!
 確かに美しい男設定ではあるけど、百目鬼ほど、まるで心酔するみたいに矢代さんの美しさを感じているキャラは他にいないわけですよ……
 ということは、百目鬼は、なにか、他の人には見えないモノを見ていた、ということになってしまう。

 それがなんなのか、ずっと考えていて、別ブログでやってる二次創作を書き進めている間に、あっ、と気づきました。
 気づいてみれば、実に簡単なことだった。たんに、私が一番矢代さんを美しいと思ったところ、でいいのか! って。
(というわけで、ここから先は、非常に個人的な意見であって、決して矢代さんの普遍的な美しさを検証したいわけではありません(笑))

 私が矢代さんが美しい人だ、と思ったシーンは、葵ちゃんのために人肌脱いであげたとか、部下を守って自分のケツひとつで松原組との衝突を避けたとか、百目鬼に井波の悪口雑言を聞かせないためにキスして黙らせたとか、いろいろあるのだけれど、つきつめれば、2巻の病院のベッドの上で影山に呟いた言葉なんですね。

「走馬灯っつーの? 良いことが一つも出てこねーの。あんだぜ? ひとつやふたつや……みっつや……よっつ……」

(ヨネダコウ「囀る鳥は羽ばたかない」2巻232P 大洋図書 )


 もう、これ見たとき、「エッ?!!」って。
 走馬灯で、あれだけひどい過去を見せられて、その感想が、これなのか?!
 なんというか、もう、これだけ運命に痛めつけられて、理由もわからず鉄砲玉3発も食らってるのに、手の中に、数えるほどしかない幸福の記憶を大切に握りしめて、自分にもこんなによいことがあったんだ、って回想するとか……
 普通、自分の運命を呪いませんか?!!!
 こんな酷い目に遭っても頑張って前を向いて生きてきたのに、なんでまた更に酷い目に遭わなくちゃいけないんだ、って。
 それなのに、まさに、運命に左頬散々張り飛ばされて、なお右頬差し出す、みたいなことを、こんなに弱り切った場面で、まるで呼吸するみたいにやってのける。

 もう、この人は、聖人か?! と思いましたわ……(涙)


 どれほど運命に翻弄されても、あらがうでもなく、腐るでもなく、淡々と毎日を生きる。それでいて、ちゃんと、その歩みの中に、幸せの種を見出す優しさを持ってる。

 そして、その性質を持っているから、あれだけの被虐体験や絶望の経験があっても、その後ちゃんと自分を立て直して生き抜くことができたんだ、って、ものすごく説得力のあるシーンなんですよ。

 そういう性質というのは、もちろん生まれながらに備わっている部分もあるけど、それだけではやはり困難に出会ったときに穢されてしまう。
 矢代さんがすごいのは、大変な困難をくぐり抜けて、なおまだその純度を保っている、というところなんですよね。

 で、そういう性質、というのは、わかる人には、見ただけでわかっちゃうんですよね……。
 なんというか、雰囲気や、表情や、いろいろなものに、滲み出てしまう。
 見る方も、必ずしもきちんと言語化して分かるとは限らないけど、どうしてだか目を惹かれる、好ましい、と思ってしまう。それを、無理矢理言葉にしようとすると、「綺麗」としか言えなくなってしまうんですよ。

 1〜2巻の頃の百目鬼の、まるで信仰のような憧れを加味すると、結局、百目鬼が矢代さんに最初に見出した美しさ、というのは、その矢代さんが持っていた「聖性」だった、ということになるんだと思います。
 だからこそ、「そばにいるだけ」でも良かった。

 ところが、そばにいて、矢代さんの行動を見ているうちに、百目鬼は矢代さんも苦しみを内面に抱えた人間であることを知るわけですね。影山への片思いをずっと心に秘めている。そして、日々淡々と前を向いて歩く姿の中に、幾千もの飲み込んだ涙があることを知るわけですよ……。

 そうなると、聖人は、一気に百目鬼と同じ人間の域に降りてくる。その瞬間から、百目鬼にとって、矢代さんは、ただ崇拝する対象ではなく、守りたい、支えたい、もっと欲が高じて、自分だけに守られてほしい、自分だけを頼ってほしい、と願う対象になってしまった。ここから先は、もう人間同士の恋愛ですから、何を見ても美しいとしか見えないですね(笑)。


 これは私の勝手な想像ですが、おそらく、影山も矢代さんに同じ美しさを見ているんじゃないかと思います。今は腐れ縁かもしれませんが、すくなくとも、高校で最初に会ったときには、それを見たんじゃないか、と。
 で、矢代さんは、ドMのネコ、幹部の公衆便所、とかいう異名にごまかされず、見た目の容姿にも惑わされずに、矢代さん本人の在り方、生き方を美しい、と思ってくれる相手には、非常にガードが甘い、と思うのです…。
 そのへん、七原にもちょっと通じるところがありますね。あまり部下をとりたがらないっぽい矢代さんが、七原を拾い上げたのは、やはり、七原が矢代さんのそういう美しさを見抜いたからだ、と思います。杉本はどういう経過で部下になったのかわからないので、よくわかりませんが、、、

というわけで、結論。

矢代さんの美しさとは、「聖性」である。
そして、それが、ただ天から与えられたものというだけでなく、彼自身の努力によって純度を保たれている、ということを理解したときに、その美しさに対する崇拝が、強烈な愛情に転化する危険をはらんでいる。

というわけで、百目鬼に限らず、数々の婦女子が沼にハマって身動きとれなくなっている、ということなんだと思います!

おわり!


8/4追記。

聖性、という言葉が、ちょっと洋風なイメージが強くて誤解を招きそうだな、と思って、色々考えていたのですが、、、
twitterでフォローさせていただいている方の菩薩画を拝見して、あっ!!と思ったので、追記します。

聖性、というより、、、
ちゃんとそれそのものの言葉が原作に出てきてましたね!!!
道心会会長の言葉「浮世離れしている」
まさにコレ!!!!
ヤクザという殺伐した世界にありながら、浮世離れしている。
仙人とか。
そういう感じの混じりけのなさというか、泥水に侵されない感じの聖性です。

ただ、仙人というのは、人間界の些事にはこだわらない存在ですが、矢代さんはそうではない。ちゃんと部下の心に気を配り、身の安全に気を配り、自分の中の傷ついた部分にも触らないよう気を遣ってる。
そういう癒しの部分は菩薩的だな、とか。

実は、もともとは、矢代さんの、己に降りかかってくる運命や自分の近くにある大切な人の事情を、ただあらがうことなく受け入れる姿勢、そしてそれを自分の内部で、これまでに培ってきた経験や感性で癒す、というプロセスにどこか聖母的なものを感じていたので、「聖性」という表現になりました。
まあ、たぶん超絶照れ屋なんじゃないかと思いますが、部下のために見せる優しさは、たいてい乱暴な言動にコーティングされているので、まったく母性的には見えないんですけどね。でもその気の使い方が。
和風に言えば、菩薩的、となるので、囀るの例えとしては、こっちの方がよかったかもしれない。
とくに、癒す過程において、こと自分自身の傷に対しては、かなり癒し方が稚拙というか「それ方法間違ってるよ!」ってな感じのものもあるんですけど(乱暴なセックスとかね)、それでもその状況に文句を言わずに黙々と自分の出来ることで癒す、というあたり、求道者っぽいところもあるから、菩薩的、の方が合っているかも。

いずれにしても、あんなに頭がキレてカッコよくて、言葉も足癖も悪くて、やるときには怖いヤクザの矢代さんに、時折何故かふっと女性的な感性を感じるのは、そういうところなのかな、と思っています。


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