見出し画像

『したい』を言葉にすること。

明日で月末。なんとか2ヶ月ぶりに月間200キロを達成しました。繁忙期、天候不純と相まり、130キロ前後と走行距離が低空飛行した6.7月。とりあえず量だけ取り戻したってところでしょうか。

量だけってことは。

そう、質は伴ってないということ。去年の8月は怪我明けの北海道マラソンって季節だった。だから下界(ロード)でのロング走もしてた。今月やってたこと、月6回山に行ったこと。(トレラン4回、登山2回) 短めのジョグをとりあえずしてたこと。 インターバル復帰したけど撃沈したこと。 月間走行距離200キロ達成は認めてあげたいにしても、適切に練習しないと簡単に落ちるを感じた1ヶ月でした。

わたしのすべき練習を考える。

月間走行距離を200キロ達成させるよりも大事なことは、メリハリのある練習をしていくこと。そのためには週一回のスピード練とロング走が必須だと考えてる。時間の作りにくい平日はインターバルをいれて、土日のどちらかでロング走。レースが近ければ、レースペースでの30キロ走とかになるのだろうけど、そこは保留にしたとしても、自分でペースをコントロールして決めた距離をはしる。ってことは大切だと思う。

何のために山に行くか。

山は夏場は避暑地としてはひじょーに素敵なところ。やっぱり、下界で走るのはしんどいし、夏場の長時間行動をするにはやっぱり山に行こうってなっちゃう。わたしにとっての山は、綺麗な景色とか、開放感を感じながら過ごせる場所ってのもあるのかなと。割とわたしにとってはタイムは大切。でもそれに縛られるのもしんどいし、っていう想いから開放させてくれる場所。それでも上手く走れたら楽しいのだろなってなっちゃうし、やっぱり楽しいと思えるくらいの練習は必要なのかもしれない。となると、下界でも山の中でも練習していくことになる。(山ではあくまでタイムを求めたい!という感情よりも、山で過ごす時間を楽しくするための実力は付けたいってところ。)

したいを言葉にする。

言葉にするってやっぱり大切。言葉にすればやろうとするし、筋道が立てやすくなる。そして、仲間ができるっていうのも感じる。同年代トークの中で、私はロードで結果を出したいがはっきりあるなと感じた。やり残してことがあるから、そう1つ例示すると公認サブ3.5。私の場合はコロナの影響で非公認だから。

100キロリベンジもあるけれど。走るに純粋にエネルギーをかけられる今の環境がある、限りある時間のうちに、スピードの高みを追求したいのだと思う。そうして言葉にしたことで行動したい、ただ今具体的な目標を適切な時期に設定できないから、、という苦しさはある。

数字を達成することだけがしたいことではない。そして走ること山にいくことだけが私のしたいことではない。走るはもはや生活の一部でなくてはないものと化している。でないと、ブランクがあっても戻ってこなかっただろうし、走ることそのものはわたしにとって素敵で、必要な時間なのだ。

大切にしたいこと。

走ると走る以外の時間、関係とのバランス。これからどんな人生を送りたい?って聞かれたら、仕事のことを考えるのとおんなじように走るから広がった生活のことを考えそうだ。1人では生き苦しい。それを今までの自分を作ってきた時間や大切な周りにいてくれる人々があるからこそ、そんな自分のチカクとともにどう生きていく?を考えていきたい。チカクに沢山のものがありすぎる、物も情報だったり、機会も、そしてありがたいことに人も。沢山あるから本質が見えないのか、それすらわからない。目の前にはこうしていきたいっていう漠然とした感と、具体的には何もないモヤモヤが存在してしまう。

でもそれが、紛れもなく今の自分の心なのだろう。色んな種類のしたいが存在するし、自分にとってと問われると分からなくなってしまうけど、そんな自分に向き合い続けて、ありたい姿を見つめ直し続けられる自分ではありたいと思う。そして、ありたい姿を具体的に言語化できた時にまたひとつ世界が開けるのでは無いだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?