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12月のこと

1.他者は存在するか?

この日記では数か月に渡って、死について、他者について執拗に考えてきた。それは主に二つの切り口による。a.もう二度と会えないかもしれず、そうだとして今言うべきことは、やるべきことは何か。この時間を止まったままもう少し吟味したい。時間が継起として、滅しつづけるものとしてあることへの拒絶感と、純粋な意図や行動の夢想だ。b.人のことを理解したと思ってもそれは勘違いだ。勘違いだと断言できるのは人によって事情が違うこと、そしてその全体を把捉しようがないことによる。事情とは、事=何を経験したか。何が起こり、その背後で働いていた要素は何であるかということ、情=その経験から何を見落とし何を特に強調し、全体として何をどう了解したか。これはもちろん自分についても言えることで、何を経験したかは分からないし何を了解したかも分からず、ただその二点に前提づけられて何らかを欲望し意志するのみであること。

こうした思考は、感じることも知ることも行うこともできない、徹底的な外部のみを対象としていて、複雑な現実としての現場を欠落させる代償に、知と他者と死とを一つの混乱の相のもとに置いてしまっている。すべてを切迫した局面において問うこと、それが倫理として確信されていたと思われる。

ではこうした僕の視点の全体、他者性という問題系を、ここでは外的に説明することをもって茶化しもせず浅くもせず別様に展開させてみようと思う。

他者と死との、二つの外部という表象が強く結合しているわけだが、この外部性は異なる不可能性に基づく。他者においては共有不可能性。言いたいことが伝わらないこと。死においては、知覚・対象化不可能性。死んでいるときにはすでに主体が消失してしまっていること。コミュニケーションにおける不全感が先行していて、それが自他の死という問題を惹起しているように思う。うまく意思疎通が図れない。他者というイメージ、あくまでイメージとして機能させるしかない他者という項を対象化できない。どうもぼんやりする。この対象化できなさが死の対象不可能性を引き寄せて、響き合う。

ではこの結合仮説をもとに出口を探っていこう。

意思疎通、共有可能性というものをある角度から考えてみる。まず、わたくしの意図・欲望を内的に・最初に置くのを辞めてみる。このことは、上にみたように、事情の不可解ゆえに、事情を追求する熱意があればあるほど主体にとって自他の図式そのものが揺らぐ危うさを持つからだ。

では何を最初に置くか。共有というものを、教養の交換として考える。
教養。一言で規定するなら、普遍的でなく、かつ、文化学習的な知識のまとまり。

「彼氏―彼女」という関係ならばクリスマスには電飾の降ってくるような道を歩く、「野球ファン」ならば選手別応援歌やそれにまつわるジョークの複合。提示と反応との結合が交換される過程で、顔や表情や声、服装などの、お互いの非言語情報を、教養と一体に収集する。この一体性が自然であること、混乱が起きていないこと。これが仲がいいという主観的状態であり、地縁的な・血縁的な・利害的な性質を問わず集団において起きていることだ。

僕が外部という表象に執着しているのは、特殊知識の学習に誰よりもコストを割いてきたために、逆説的に、一般的な報酬に個人的な満足を覚えなくなったことが関係していると思う。

実に、僕は誰よりも空気を読んできた。教室においては、非常に限定された教養を裏切るような反動的な発言をすれば容易にウケる、ということが大きい。教養が示唆するタスクをその通りに実行すれば集団における達成は容易だ。

でも、それだけだ。

空気を読むことに習熟しても空気に添えるだけであることに飽いて、飽いていることにも飽いてきて、まったく仲良くなっている感覚もなく、何かを達成している感覚もない。

そうすると、無内容の、あるいは超内容的な会話が構想されてくる。それが外部だ。会話の外部でありつつ、例外的な会話。内的な外部、外的な内部。それが他者に、死に、神に託される。

神は存在するか?あるいは存在しないとはどういうことか?
こう強く問うことになる。しかしこれは、上のような共有図式から考えればきわめて異様な問いであると言える。どういうことか?まず、どんな教養の交換も会話も、何らかの神についての述語であると言える。ーーはaである。ーーはbである。ーーはcである。このときーーがなんであるか、そしてーーは存在するかということは問われない。説明が加えられることもない。問われる必要があるのではないか?否、問われてはならない。むしろ逆に、ーーが自明であり固定的であって初めてaやbやcといった規定が可能になるからだ。未規定であることは基礎である。逆に、ーーを規定できるならばそれは他のもので代替できるということになる。なぜ主語がーーでらねばならないかということには根本的な理由がない。つまり絶対性が相対的に説明できるならば、それは絶対性ではなくなる。コミュニケーションは成立しなくなる。

神は存在するか?そう問うことはいかなる存在をも、どこへも連れて行かない。神は存在するか?ではなく、「ーーな神は~~である」それは本当か?と問い、そういう神は実のところいないのではないか?と問うべきなのである。

「教養」は言葉の傾きを考慮しないならば「妄想」とも言い換えられる。

今年の日記の大半は、この教養=妄想が僕を追いかけてきたこと、そして、どれほどまで自由な行いや言辞を妨げてきたかということの解析だった。たとえば「家庭」たとえば「テレビ」たとえば「教室」、これらをまとめて人生と呼んだりもしてきた。

僕のなかで教養=妄想の共有とコミュニケーションとが一致していないのは、その結合は自明ではなく成立には条件があるということである。一言で言うならば、それは固定性と絶対性の一致である。神的な存在がその位置を動かないことと、実際に神的に働くこととの一致。社会の複雑性と流動性がある限界を超えて上昇すると、絶対性は失われ固定性だけが存続する。すると、固定性の存続のためには人格の物格化が不可欠な要素となってくる。神の働きが集団の一体性や個人の間の相互性を供給してきたことから反転して、絶えざる抑圧が名辞ばかりの神格に捧げられる。集団がかたちを保つためにコミュニケーションが犠牲にされつづけるのだ。

僕は、僕とあなたが不当に玉座する妄想に圧死させられるのを許せない。
だからこの場で話をする。話だけをする、ということに努めてきた。
人間を人生から保護する。僕は確信をもってそれをやる。

2.内閉/拡散

教養=妄想の共有とコミュニケーションとの不一致。その原因としての複雑性・流動性の上昇と、その結果としての人格破壊・集団崩壊について具体的に見ていく。

前々から取り上げていて興味のある事例はいくつもあるが、ここでは二つを取ってサークル以上企業未満の規模の集団について考える。週刊文春が報じた松本人志の性加害(疑惑)問題と、東海オンエアのメンバーのパニック障害発症と休止の問題。どちらのどの部分についても真偽は問わず、あくまで提出されたテーマや問題について現実と分離して考える。ここでは共通する「ホモソーシャル・コミュニケーション」と「性欲」について。a.面白いことをして面白いと感じることb.性愛的に幸福であること、の達成。

まず、これらを考える前にわれわれの社会における感情的・政治的モード=流行を抑えておこう。(1)「他者に踏み込むことは人を傷つけかねない」という防衛的な認識が広がっている。(2)コミュニケーションにおいて、一元的な応答が期待できず、コミュニケーションの行方や他主体の受け止め方を予測しづらくなっている。
(1)と(2)の複合により他者に踏み込むこと自体が否定的に捉えられる傾向が強くなっている。

aについて。松本人志(ら)と東海オンエアは、共通して、笑いを生み出すシステムの中心に「イジる」という方法を明確に持っている。
「イジる」が堅持されるのは、上のモードに反する、面白さをめぐる動かしえない思想があるからである。すなわち、「踏み込むことをやめれば面白さなどありえない」。属人的要素こそが笑い=価値の源泉であって、それとかかわらずに表層的なコミュニケーションに留まることは、世間話ではあってもお笑いの空間ではない。

モードへの対応は両者で分かれる。
松本人志(ら)は、流動性=人の回転の速さを止めない。そのぶん「面白い(と同意できること)」は不透明になるが、それを自らの能力でカバーする。あるいは、ホームベースとなる番組を確保してノリを売っていくことで、そして、自らのキャラを先鋭化して視聴者を含めた大勢にそれを前提させることで不透明性をある程度回避する。外に向かって、権威性を帯びつつ強固なイジりを発信しつづけることになるので、各所にヘイトは溜まっていく。

東海オンエアは、視聴者にキャラを前提させるのに加えて、流動性を止めることで徹底して不透明性を回避する。コラボをせず、どこにも出かけず、ほとんどスタジオで動画を撮り続けるのがそれだ。「面白さ」の供給のための瞬間的な労力が減る分持続的かにみえる。しかし他方で、バリエーションの不足という問題があり、成員一人ひとりへの負担が増える。属人的要素が度を越えて酷使されるのだ。「イジり」の内閉的な過剰であると言える。そしてメンバーの一人の人格が実際に壊れた。

bについて。補足的に考えるに留める。一般的な問題として、短期的には、面白いと感じなくても大丈夫だが、性愛的な満足を得られなくては幸福でないという人は多いだろう。性愛的な満足の多くについて他者の存在が不可欠であることを前提すれば(不要である人もいる)、aよりもbの満足のほうが、「他者に踏み込まざるをえない」つまり他者を回避するのには限界がある。すなわち、上のモードを併せるならば、社会的な次元で問題化しやすく叩き/叩かれやすい。

さらに前提を付け加えるならば、aとは異なりbの場合は、単に関係が開放的であるというだけで問題になりやすい。「不倫」「乱交」バッシングがそれである。実際そこに不当に不幸にさせられている人がいるかどうかが重要であるのに、という問題はここでは横に置くとして(広義の仲間内でこれを回避するのにもまたa的な踏み込みが必要であるという問題も横に置くとして)、とにかく、aに比べ内閉的に対処せざるをえないパターンが圧倒的に多い。つまりaの東海オンエア的な問題が極めて起こりやすい。

bは、回避しづらく・人格を壊しやすいがゆえに、問題化しやすく(松本人志ら)、aと併発しやすい(東海オンエア)。

3.「言うこと」を妨げるもの

ここまで、人と妄想、人と集団の関係におけるコミュニケーションについて考えてきた。

妄想は、人間が主体的に・合理的に選択しようとすればするほど活性化し、記憶を「正しく歪める」ことによって意思を無理に調達する機械であり、内的に作用するいわばウイルスのようなものだ。集団は拡散すればするほど自壊へ近づき、凝縮すればするほど成員の人格破壊へ近づく。そして妄想と集団のどちらも、存在自体は社会や文化にとって必然的なものである。

これに対して、実体的に・構造的に・歴史的に、そしてそれゆえ強力に働くものがある。すなわち、企業であり国家であり、ある特殊な国家/企業の系であり、それらの複合的世界秩序としての戦争/抑圧機械だ。

ここでは人と企業との関係に絞って考える。特にテック企業。

2.においてすでに見た「踏み込めなさ」とは別のものとして、しかし、結合して相補的なものとして、「個人が言いたいことを言う」のを妨げられている、という問題があると思う。特にXという大きなプラットフォームがそれだ。旧TwitterからXへという移行は、Xという文字の用法からして、単なる改名ではなく名前を含めたあらゆる実質の剥奪のように感じられる。

時に仰々しく立派なことを言い、時に(ほとんどつねに)ろくでもないことを言うこと、その内容、そしてそうした僕やあなたの存在のままならなさは、情報以上の何物でもない状態に貶められている。ポストとは内容ではなくキーワードの箱であり、キーワードとはすなわちリンクのことだ。

急上昇ワードという括り方は僕らの声を拡散的なまま掬い上げるという名目を捨てている。リプライやエアリプライという関係性の多重もまた、ほとんど意味を成さなくなっている。翻訳機&AIによるハックによって、言葉の隙間を子猫や子犬が駆けていくようになり、一定以上拡散されたポストにはリンクやリンク紹介が付くようになったからだ。

拡散されるポストの要件は、不安を、コンプレックスを煽り機械的な対立を再生産するための感情のフックが備えられていることであり、そうしたポストが「おすすめ」を流れていく。上から下へ、上から下へ。言うことそして言われたことについて何か言うという連鎖は、このタイムラインという重力によって地味にしかし確実に弱められていると思う。

何かを言うことは、大きく言うならば、宣言すること・要請することに分けられるけれど、さらに、自律的に情報を記録し組織することを付け加えておきたい。

ポストと空リプのあいだ、エアリプとリプライのあいだ、さらには、スクロール=スルーといいねのあいだを、作っていきたいと思う。作るというのは、単に境界的な作法を反復することではなく、その作法に記憶と意思を与えて形式にまで高めてやることだ。


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この一年間考えたことは以下。9月、10月、11月が特に面白いと思う。

3.の元となったノート

何か言う「収集」ベスト3

「右体」はこれから。よろしく。

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