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拒絶について

椅子に座る。背にもたれかけて、そのまま脚を伸ばしきる。足首から先の可動域を確かめ、首の後ろを縮めたり伸ばしたりする。脚を元に戻し、背を離して、口元に置いていた左手を左へ、それから後方へと回し、頭の上から元へ戻す。脚は足首で組まれて小刻みに揺れている。左手は繰り返し繰り返し喉元の薄い髭を撫でている。

座っているときに限らない。人といると気づきやすいのだが、僕には落ち着きというものが欠けている。しずかに立っていることも難しく、バイトしていたときは、絶えずどちらか片足に重心をかけて斜めに立ち、注意されてもされても腰に手を当てていたから、本当に印象悪いよ?と何度社員の人に言われたかわからない。意識してみると、キーボードで書いている今、両手がふさがっていて触れないからか、口元が絶えず動いているのがわかる。唇を横に捩じって上の前歯ですこし噛み、戻して鼻先まで上唇を持ち上げる。それから下唇で上唇を沈ませて人中を伸ばす。映画のなかの無為な時間は煙草と煙草の煙のおかげで見るに耐えるものになるけれど、僕は煙草を日常的に吸わないから映像的にはいろいろと悲惨だろう。

頭が忙しいのとも関係がある。あちこち拡散的に思いついたり興味が向いたりするものに、すこしずつ翻弄されていつも疲れている。今日と昨日の具体的な事柄や出来事のつながりがわからなくて霞んでいる。拡散するのも行き過ぎると人格そのものが弾け飛んでしまうからだろうか、反動として安定のための抑鬱に中毒している。一人で悩むためのループを、苦痛や性や死にまつわる抽象的な「思考の言葉」で粉飾して現実の複雑性と不確実性から逃げている。長く書いている僕の文章、これは、出来事が引き金となって溢れ出る悩みの灰汁だ。日記という形式は、明確で固定的な主題が無いことを書く者に許している。外在的な主題に対峙する強さを持たず、持とうとしない者に逃避の余地を許している。このnoteを褒めてくれる人が多くてうれしいけれど、今書いているように、僕がどれほど碌でもない奴なのかということがいまいち感じられないのはなぜかと勝手に心配することがままある。

小池耕との公開文通「二叉路」で「あいまい」という言葉を使ってどうにか肯定しようとしたのは、つまるところ、このみすぼらしい僕の佇まいに他ならない。小池耕の多才と多彩のうちに、僕の多動と逃避を強引に読み込もうとしたに過ぎない。しかし、それにしても不思議なのは、短歌という形式はちっとも多動や逃避を嘲笑しないということだ。教育や労働といった制度や、ある程度大きくなってから参加させられたゲームは、暇さえあれば僕のことを嗤った。そのせいで家族も友だちもみな僕のことを嗤っているのだと勘違いすることだってあったから、というか、そう思い込んでいた時間のほうがずっと長いから、僕は復讐として、絶対にこの愚かしさを捨てるつもりはないのだが、この怨念がそのまま美の燃料になる可能性があるらしい。それも、現実と表象と欲望の関係がぼろぼろに壊れ果てているこの今の、この場所でのみ、可能なことだと考えているけれど。

さて、身体の話を書きたいのだった。昔は身体のことがまったくわからなかった。今も、もちろんわかるなんてことはないけれど、昔はどうしてこんなにも醜くて、いじわるなものが僕を飲み込んでいるのだろうかと困惑していたように思う。

食べることが好きでなく、多く食べることが極端に苦手だったから、食べるのが苦しくて、早く終わってしまえばいいのにと願うこともしばしばだった。どうしてみんな食べてばかりいるのだろうと不思議だったし、今もそれはかたちだけうっすら残っていて、旅行というものが実質的に外食の梯子であるということが、おぞましい夢みたいに感じられる。体躯が人よりも小さいことや、いろいろの外見的特徴も、いつも僕を責めていた。排泄を際限なく不気味で愚かしいもののように思っていた。トイレという場所が大嫌いで、家のトイレ以外で用を足すことに15歳くらいまでかなり強い抵抗があった。便器や床や壁のタイルだけでなく、水道から流れる水まで不潔極まりないものにしか思えなかった。

それらはすべて、具体的な苦痛や恐怖としてそこにあったのだが、次第に、誰もが生活というものに馴染んでいて、そこに快楽をさえ見出しているのだということが、うすぼんやりとわかるようになってきた。それも、感覚として受け入れられるというのではなく、どう考えてもどう解釈しても、この人もあの人もそうだ、という推論によってである。推論を追いかけるようにして、ほとんど拒絶に近いような僕の身体感覚は、すこしずつ薄れていった。そして、著しい嫌悪と恐怖はいまの漠然とした居心地の悪さへと移っていった。僕は、身体が覚えてしまって反復する緊張を、多動によって逃がしつづけているのだと思う。これはただの不安ではない、安心の欠如だ。安心が脅かされるのではなく、無いのだ。

歯ぎしりや肩のこわばりから逃れられないことはすでに書いた。これでも自分のなかでは考えられないほどましになった身体なのだと思っている。オールナイトで映画会をしていて、ほとんど友だちが寝息を立てていても眠れたことがない。耐えているというのでもなく、単に、人がいると眠れないという事実があるのだ。その身体が突然むっくりと起き上がって、眠ろうとして自分を解こうとした僕の身体に対して何か言うかもしれない。僕の頭はその人がどんな人であるかも、しばらく起きないであろうことも知っているけれど、身体は知らないのだ。あるいはまったく反対に、人がいないと泣けない。ずっと、何も感じないことがかなしい、何もかなしくないことがかなしくて、苦しいから、機会がめぐってきたときは、人の身体を、その身体に感じる情念を借りて、自分も泣く。するとすごく安心できたような心地がするのだ。ひとりで泣けるようにならないと、多分、ずっと壊れているままだし、一人になることも人と一緒にいるということもできないままなのだろうと考える。これが、僕の身体だ。





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