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停滞について

書けたものはもう書けないのだから、書きたいことは、書かないのが一番いいのだ。そうして、ここに、ああ、あるなあと感じるだけの時間は楽しいだろう。粒々の自分がそこらに漂うような感覚。けれども、書きたいことは、どうしても書きたくなったらすでに書いてしまっている。それで名残惜しいから、見つかったあとは同じところぐるぐると回るのだ。欲望の大きさと結びついた、そういう、自分の愚かしさは、どうしようもないもので、では、はて、どう褒めてみようかと考える。

口ごもる。顎をしきりに触る。立ったり座ったりする。愛想笑いと真顔のどちらにも吸い寄せられることなく顔の肉を緩ませ軋ませる。そういうのは、ただの停滞にみえる。停滞どころか、無、停止、死だ。ゼロにみえるし、ゼロだと言われもする。でも実際のところ、何かがやってくるのを待っているのだ。待つというのは、この場合、すこしだけ能動的なことだ。動いていないけれど、休んでもいない。集中はしていないけれど、放心もしていないのだ。どうやったら、この源泉としての無力さを延命させられるか。どうにかして、変形をあたえつつも、この無言を、無益を、死を、生き延びさせることは、できないだろうか。

人は身体的エネルギーと心的エネルギーとを絡め合わせて動きつづける運動体としての自分を用意している。僕の無言は、停滞は、その絡め合わせ方にすぎないけれども、崩壊と破壊のスピードをなにより優先するこの世界は、緊張と動を要求する。ならば、僕はいっそうのこと、破壊や、達成や、緊張を、自分のリズムで求めるのもやめたほうがいいのかもしれない。動でありつつ静であるような、そして静が優位であるような、その状態の研究に徹したほうがいい。

停滞、口ごもりは、単に速度が遅いということではない。僕の身体の、僕の心の気づきは、必ずその場にいる誰かをうんざりさせるほど遅いが、気づいたとき、僕は必ず変わっていってしまう。遅いとして、気づきが確実に変化を与える。人よりも必ず変化が大きい。つまりこれは言ってしまえば、気づきというものは、遅くないと気づきではないのだ。遅さというのは最高の速さなのだ。遅さというのは最高の美質なのだ。

書くことについてのみ言えば、終始ぐずぐずしながら、あれでもないこれでもないと煮詰めることが、いま、気持ちがいいと感じる必要があるようで、スカッとしないための落し蓋のようなものとして、何か用意できはしないだろうか。体験として鮮明に捕まえたものを、揺れながらアイロニーで縫うのがこれまでの文体だったとして、その達成は、せいぜい自分が気持ちがいいだけだ。何を言っているかわからなくていい。否、何を言っているかわからないほうがいい。そう自分に言ってあげないと、そんなに器用でもないのに、おどける自分と否定する自分との二人を自分の中に住まわせつづけることになる。ほんとうのことを言うと、わかる文章でも分からない文章でもどっちでもいいけれど、わかるとかわからないとか難しいといった言葉たちは曲者なのでその薄膜を注意深く破った方がいい、囚われているとするなら。

明確な主題がない文章というものがある。書き始めることだけが確信されていて、それでいて何が書かれるのかを自分が一番見たいと思っているような文章。それを書くとき、うすぼんやりとした主題があるからもちろんそれを書いているわけだけれど、自分の像、自分との関係の結び方を主題と錯覚して、みずからをぐるぐると舐めまわしているような気がしてならない。一度舐めつくされたのちも、どんどん同じまま新しくなっていく自分の顔、それはもっとも大きなレベルでの停滞の姿だ。

僕の変化というのは、おそらく、大主題が固定されたまま、それにまつわる小主題を飛んで飛んで行くというもので、それとは別に、無主題性と主題性とを行き来している感覚がある。自分の感覚と実際のそれとは多分かなりずれがあって、実際を想定して尊重するようにして自分を運ぶやり方があるような気がする。それはまた、著しい気分の波と一体となっているから、生きるのを頑張りましょうという単純極まりない一点に、凝固する。







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