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暮らしと頭について

(一)暮らしの近さ

暮らしは続く。暮らしは終わらない。
暮らしは近い。近いけれど、よくわからない。近い「から」よくわからない?

近いという言葉は、甲と乙が触れておらず、そこにあいだ、隙間がある場合によく使う。反対に、接していると、見えない、聞こえない、におわない、味がしない、ということがよくある。それが甲と乙であること、つまり「ふたつ」であることが感じられない。でも当然のことながら、感覚に反して、ふたつのものはふたつであって、ひとつではない。接しているときと離れているときがあるだけだ。

家族というのは、ふたり以上いる人びとのことをまとめて指す言葉だが、しばしば、ひとつの塊としての何かであるように感じられる。それは外からも内からも。家族は物理的にも心理的にも、接したり離れたりするからだ。子と親はそもそも身体が似ているし、子が幼いうちはほとんどくっついていて、人は、半生を、もしくは一生をかけて、この感覚をほどいていくものだと思う。ヒッチコックの『サイコ』(1960年)。きさらぎの雪にかをりて家族らは帰ることなき外出をせよ/小中英之。

暮らしというのも、実は、暮らしているじぶんと、それ以外のじぶんがくっついている。死を思うじぶん、詩や歌を面白く思うじぶん、冷やし中華をおいしいと思うじぶん。このじぶんたちは、夜更かしをしたいし、明日、学校や職場に行きたくない(かもしれない)。

だが、それだから、僕はあした学校に行きたくないのだ、だから、行かないのだ、となるかというと、ならない。もろもろのじぶんがくっついた「暮らしている自分」は学校に行きたいわけでも、行きたくないわけでもないのだ。

ひとつにくっついた自分というもの、暮らしというものは、ひどくぼんやりしている。ぼんやりしているから、よくわからず、暮らしを営むというのはむずかしい。ここで重要そうなのは、暮らしは、放っておいてくっつくこと、こんがらがることはあっても、甲と乙とが離れることは珍しいのではないか、ということ。それが甲と乙だ、と思うことはすなわち離すことだが、くっついていない時間を設けるために、増やすために、意識的に切り離すという行いが、暮らしのむずかしさを和らげてくれるのではないか。

(二)暮らしのむずかしさと頭のよさ

暮らしをむずかしいと感じる人もいれば、まったくそう感じない人もいる。でも、上に考えたように、暮らしというものがよくわからないというのは、だいたい誰にとっても同じだろう。近いということ、そしてよくわからないということを、快いと感じるか、いやだなと感じるか、という傾向の違いが、基本的なところで関係するのではないか。

僕にとっては、暮らしはとてもむずかしいのだが、それはなぜだろうか。

「僕の頭が悪いからだ」こういう答えがあると話は簡単になる。実際、そう言われることもあるし、もっと広く「無能力だからだ」という意味のことを、言われることが多い。言い方が乱暴なのでほとんど聞き流しているけれど、いつでもちょっとだけ真に受ける自分もいる。

しかし反対に、小学校や中学校に通っていたころ、僕は「頭がいいね」とよく言われた。それは成績がよかったからで、よかったのは、覚えろと言われたことを覚えるのが得意で、好きでもあったからだった。

高校に入ると、それが嫌いになり、苦手にもなった。それは第一に、大人に従うのが嫌いになったからであり、第二に、少ないことを覚えて、忘れないように気をつけるよりも、たくさんのことを、少しの間だけおぼえて、忘れるほうが、ずっと味わい深いと気づき、それが好きになったからだった。

さて、「頭がいいね」と言われるとうれしい気もするので、かなり真に受けていた。ところが、とてもおかしなことが起こったので困った。僕は、言うことやること、つまり、思いつくことが、周りの人とかなり違っていることが、今よりずっと多かったらしいのだが、するとしきりに、少しの非難を込めて「変だ」と言われた。

これにはよくむかついたのだが、これとは比べ物にならないくらいむかつく言われようがあった。それは、「頭がいいから、変なのだ」というやつだ。勝手に投げられた非難を、これまた勝手に免罪してやるという意味が籠っている。言われた最初は、信じられないくらいむかついて、言ったやつとそれを平気な顔で聞いていた周りのやつに、思い切り怒ったのだが、ほんとうによく言われるので、次第に怒るのをやめて、むかつくだけになった。今思えばずいぶん傷ついた。今でも「頭がいい」という言葉を聞くだけでむかつく。

(三)頭のおそさ

そういうわけで、僕は、頭がいいわけでも悪いわけでもなさそうだ。どうやら、こういう言葉の使い方は間違っているか、あるいは、少なくとも僕には向いていない。では僕の頭はどうなのかというと、頭がおそい。頭がいそがしい。頭がいっぱいだ。こういうことが言えると思う。これが、僕の場合の、暮らしのむずかしさの理由の一部だ。

僕は、頭がおそい。頭の中で、別の箱に入ったものを繋げる、それをいくつも同時にやるというような、複数の線で考えるということがからっきし苦手だ。

たとえば、スケジュール管理というのがこれにあたる。
別の種類の事柄を、ある一日の一つの線の上に並べる、重なってはだめ、ということを、いくつもの日について考えて、任意の一つの事柄について、その総量が、他人から与えられた目標の値を超えている必要がある、というような。必要があるのであって、超えていても褒められることはほとんどないが、下回っていると怒られるというのは不思議で、これは僕から著しく力を奪う。

反対に、単線的な思考はむしろ得意だ。これについて暮らしの例を出すのはむずかしい、なぜなら暮らしは複数の線でできているからだが、たとえばこうした文章は、単線的な思考というものを使い尽くすものだと言える。ある事柄が当たり前であるということは、それを理解するのが易しいということを意味しない。このことを忘れなければこういう文章は誰にでも書けるわけで、逆に言うと忘れると書けない。複数の事柄の複雑な絡まりについてはすぐに忘れてしまうが、他からの影響を受けにくいようなこうした事柄については、忘れない。原則はまとまりをもって、ほかの項との関係において意味を変化させるが、原理は意味を自立して保有する。

noteで連載した、文通としての二叉路は、これとはまったく反対の方針で書かれた。身の回りの親しくて簡単な言葉について、複数の意味や経験やイメージが強引に織り込まれているのを、よく拡大して見て、それを、しつこく何度も別の仕方で、変奏するということ。つまり、簡単な言葉をできるだけむずかしく使うという試み。概念は、概念史とともにあり、意味を時間をかけて少しずつずらすことによって、言い当てる現実の領域を広く持つわけだが、これとちょうど反対のことをしたわけだ。

(四)頭のいそがしさ、いっぱいさ

僕は、頭が忙しく、頭がいっぱいだ。つまり、頭の中のものがよく動き、頭により多くのものが入る。

これは、昔の人に比べれば、今の人はたいていそうだと言える。インターネット、もしくは、パソコンやスマートフォンというものがあって、これらは、今のところ、(資本主義と結びつくことによって、なのかはよく知らないが)より多くの情報をより速く交替させることを、不変の性質として持っている。二十一世紀に入ってしばらくしてからのこと。

すこし時間方向に視野を広くすると、音声や映像の技術が通信の技術と結びつくと、ラジオやテレビが広まる。すると、普通の暮らしをする人が、一日に取り入れる情報の量がけた違いに多くなった。二十世紀に入ってしばらくしてからのこと。

さて、高度情報社会においても人によって頭のいそがしさ、いっぱいさはもちろん違っているが、「僕はとりわけ」というのを言いたいのだった。こうした情報環境だと、考えや行いの方針は相対的なものにならざるをえない。「人を殺してはいけない」というようなものから「(お金や有用な情報をくれる)人には優しくした方がいい」というように、留保付きの、つまり複線的なものが割合を増してくる。見えない括弧がたくさんつく。

単線的思考を好む場合、固定された答えが欲しくなるから、つまり、原則ではなく原理を見つけたくなるから、見落とした、不足した括弧を補うことによって上のような命題をはっきりさせようとする。そのため、たくさん頭に入れて、よくそれを動かすことになる。しかし、それをすればするほど、部分部分がぼんやりする。逆効果なのだ。固定されるような答えなんてない。かんたんな事実だが、これは事実ではなく初発のマインドセットの問題なので、変えるのは簡単ではない。

(五)頭のやわらかさとその害

ところで、僕はいま国立大学の人文系の学部に通っているのだが、こんなことをしていて一体何の意味があるのだろうかとよく考える。

(四)にみたように、デジタルデバイスが情報の高速な交替を強いるときに、僕らの感覚はほとんど麻痺させられている。簡単に言ってしまえば、70分や90分といった授業をまとまりのあるものとして聞いていられないのだ。これは個人の、と言うより、世代的な、それまで獲得、維持されることが当然のように期待されてきた能力の喪失だ。

デジタルデバイスが働きかける主要な感覚器官は目だ。今日、目は、物理的に置かれた現実に驚くということも、満足するということもない。視覚はほかの感覚とは比べものにならない多彩さと強さに中毒していて、細かな変化に気づけないし、つねにある程度以上の情報量とその変化量を求めずにはいられない。

大学で何を得るだろうか。知識は得られない。まとまりとつながりにおいて有意味であるような、有用であるような知識を身に着けることはできない。人が前に出て話しているのに、全員が自分のディスプレイに目を固定して、インターネットサーフィンをしているのが常態になっているけれど、冷静に見てみるとなんと奇妙なことか。特に人文的な知識について言えば、絶対に知らなければならない分野というのはないが、それは同時に、どんなものもある程度に知っておかないと知識に力をもたらすことができない、相互的に価値づけることによってしか知識に力がないということだ。だから、大学制度としては何一つ暗記するべき事項などないが、学びを有効にするには、どの学部の人間よりも暗記マシーンにならなければならない、という乖離が生じる。

否、人文系でまとまった知識が得られないとしても、さまざまな概念を覚えられるではないか、という考えもあるだろう。しかし、この場合も同様に意味がないと思う。なぜなら、概念もまた、概念の歴史を踏まえないことには使えず、それなしには意味がないどころか、かえって概念に使われることになってしまうのは自明のことだからだ。口をついて出るようになる概念らしきものは、時代精神がその語に与えるイメージに過ぎず、それは概念ではなく偏見であり、概念の死骸と言っていいものだ。

そうすると、大学でできあがる人間は、平板な言葉に振り回されて決断を避け、いたずらな懐疑を振り回す、周辺の人間にだけ穏当な、差別主義者ではないか。つまり、大学に通うのは意味がないどころか、害があるとさえ言えてしまうように思える。単に権威や権力にしたがうのではなく、もちろんそれらに抵抗するのでもなく、それらに従うために知識と言語を動員してしまうような人間がイメージできないだろうか。これが「頭がやわらかい」ということの最悪の形である。

(六)頭をかたくする

頭がやわらかい、やわらかすぎる人が多すぎるし、これからどんどん多くなる。今は頭が(悪い意味で)かたい人もそれなりにいて、それをやわらかすぎる人たちが、好き勝手言っているような気がする。かたい人たちがだんだん元気がなくなっていったり、いなくなってしまったりしたら、どうなってしまうのだろう。やわらかければやわらかいほどいい、と思うのは、一言で言って、どうかしている。でも、やわらかくなるほうが、楽だし気持ちがいいことを知ってしまっているのが、今のわれわれで、そのことが、運の尽きかもしれない。

頭をかたくする方法はあるか。かたすぎるのがもちろんよくないとしても、もう、われわれは頑張ってもかたすぎるというようなのには戻らないから、心配は要らないようだ。




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