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『牛車』呂赫若

「文学評論」には今月五篇の小説があり、私は其々を興味ふかく読んだのであったが、呂赫若氏の「牛車」は、植民地作家の作品として、前々号の「新聞配達夫」をも思い起こさせた。作品全体の効果という点から「牛車」を見ると、描写は細部をも形象化するための努力をもって行われているが、読者の心を打つ力では、一見より未熟な手法で書かれていた、「新聞配達夫」が勝っていたと思われる。けれども「牛車」によって深く感銘を受けた点は他にあった。これら植民地の人々は……〔十六字伏字〕数十年来苦痛の歳月を経つつあるのであるが、現実は皮肉であって、今やこの嘗てひとのものであった国語は植民地大衆の言葉となってより広汎な勤労大衆の胸に伝波しつつ発露するに到っているという事実である。ウクライナ文学の発展の足どりをも思い合わされ、我々は、心から植民地における進歩的作家の擡頭をよろこぶのである。

宮本百合子『新年号の「文学評論」その他』


牛車

呂赫若


「バカ、黙っとらんか。」

 癇癪玉が破裂し我も泣きそうになった顔を歪めて木春は弟の頭を殴りつけた。すると弟は「あーん」と一層咽喉の破れるような声を張り上げて地面に寝そべり、じたばたと手足を動かして油缶をひっくりかえした。

「こいつ……」木春はこぶし﹅﹅﹅を握りしめ上体をかがみ込んだ。「又ぶつぞ!」しかし急に、振り上げた腕が力を失い木春は声を和げて云った。

「バカだなあ、泣いてどうするか。お母ちゃんはすぐ帰えるよ。着物がよごれるぞッ。」

 後この家の中で又演ぜられる場面が、恐怖の場面であることを憶いだしたからだ。もはや木春は完全にそうしたものに脅かされていた。来る日も来る日も夕方仕事から帰った二人の親たちはすぐ口論を始め、末は掴み合いをやった。九つになる木春は寝台の蔭に隠れてそれを眺めた。弟の方は大きな声で泣くのだった。「木春、お前人形かッ」と母は歯をかんで呶鳴った。「こら、兄ちゃんと遊びに行こう」、寝台の蔭からこっそりと抜け出ると木春は弟をとっ掴むようにして外に飛び出した。そして田圃道で腰を下してよく弟に云って聞かせた。「阿城、お前怖かないか? あんな時に泣いて――」

 割れ目の見える食卓の上に上って木春は飯桶の中に手をつっ込み、ざらざらと底の粒をかき集めて円めるとそれを弟の手に掴ませた。

「さあさあ泣くのを止せ。これをお食べな。泣いとるとお母ちゃんが帰ったらひどい目にあうから、よ、阿城。」

 すぐに泣き止んで弟は美味しそうに小さな口で噛んだ。鼻汁と涙とが一つになって飯と一緒に流れ込んだ。

「おいちいだろ!」

 兄弟は冷飯に馴れていた。朝工場への出がけに母がお昼の分だと云って残した飯が、昼には冷えかえり水気があった。親が居らなくなると自由に留守番をしながら思いついた時にそれを飯桶から掴んで食べた。兄弟はそうして成長した。そしてお腹がだんだんと膨れて孕み女のように大きかった。けれども病気したことがなかった。

 一日中遊び暮らした疲れが出てうとうとしていると、表の竹扉が嗄れた音を立てて耳に響いて来た。木春ははッとして眼を大きく開いた。「お母ちゃんが帰ったぞ!」傍の弟を揺り起して門口に出て見ると、帰って来たのは父親の楊添丁だった。

 木春は一日の留守を訴えるような、又父親の気嫌にすねるような口調で口を開けた。

「お父ちゃん――今日早いね。」

「ああ――」楊添丁は子供の方に向き直って答えた。

「お前のお母ちゃん、もう帰ったか。」

 牛小屋に入れた黄牛に刈草をやりながら、彼はボタンを外したまま立って竹の子笠で胸に風を入れていた。

「まだよ!」

「そうか!」父親は軽く頷いた。「腹が減るか?」としばらくして訊ねた。

 木春は頭を縦にふって見せた。

 日はもう暮れかかっていた。血を流したような赤い夕空に、白鷺がガアガアと鳴きながら列をつくって飛んだ。風が吹かなく、重苦しい蒸し暑さがヂヂヂヂと身体を抑え、蚊が行手に群れて鳴いた。額からジメジメした汗が滲み出るのであった。

 楊添丁は甘庶枯葉の束に火をつけて竈の中に抛り込んだ。そして立ち上り、鍋に水を入れてゴシゴシ洗った。

「木春、飯をつくるんだ。お前のお母ちゃんが未だ帰っていないから……」

 竈の火を覗き込んでいる子供に、楊添丁は泣かせないように優しく云った。

 そこへ裏の畑をまわって母親の阿梅が帰ってきたのである。

 彼女は夫にも口をきかないで笠と弁当箱をそっと置くと再び台所に姿を現わし、小さい方の子供を引っ張ってきて体中をジロジロ見てから、「お前又ねころんだね。こんなに着物を汚しちゃ、洗えなくなるぞ――」と叱言とも似つかぬことを云った。気配に脅えて木春は竈の蔭に体をちぢこんだ。

「どうしたのか? え、遅いのは――」と楊添丁は妻をまともに見ながら云った。「馬鹿な女だな。早く帰らないと子供が可哀そうじゃないか――」

「ふん、可哀そうだって……」阿梅は夫の手から鍋を奪いとるように掴むと、米桶によっていきなり蓋をあけて覗いた。

「お前にそんなことが分っていたら子供も冷飯を食べないでいいし、俺もこうして町の工場まで出かけないでいいだろうよ意久地のない男がなにを云うのだ?」

「なにッ。又お前が――」二三歩竈を離れかけたが、衝かれたように楊添丁は立ち止った。

「そうさ。何時でも何回でも云うよ。一日中駆け廻わって三十銭も儲からない男が意久地なしでなくてなんだ。そら、米桶は空っぽで泣いとる。明日の米は天から降ってくるかよう――。」

 阿梅は桶の底板をこつこつと故意にたたいた。

「そうしたら、お前、俺が怠けたせいとでもいうのかッ」楊添丁は理不尽に衝いてかかる女を見ると、急にむかむかとして来た。

「これでも俺ァ一生懸命だぞ。怠けたことが一瞬だってないんだ。夜もろくに寝ないで朝っぱらから出かけているのをお前だって見とるだろ!」

「あ、聞きたかない。――外に出たら、おれ知るもんか。考えてみりァ誰だって分ることだ。米のうんと高い昔にゃ楽に暮せたのに、米の安い今日が米に困るなんて、こんなとぼけた話ったらありゃしない。」

「そ、その通りだ。昔は呑気に構えて一日一円は手に入ったが、今じゃ方々を駈け廻わっても三十銭は入らぬのだ。その理をお前、知っとるか?」

 楊添丁は向き直ってせき込んだ。

「なにが知っとるかだ? 逃げおわっても知っているよ。賭博打ったか、怠けたか、女かに入れたでなくてなんだ……」

 視線を外らしたまま、阿梅は竈を中心に忙がしく動いた。

「いや皆違う。食うことにも間に合わない俺にそんなこと出来るか。雇う者が少なくなったからだ。」

 楊添丁はきっぱり答えた。

「ふん、自分を棚にあげてね、雇うも雇わないもお前一つだ。真面目に頼んで凡てよくしたら雇わないことがあるか。意久地なし人が……」

「馬鹿ッ!」カッとなった楊添丁はそう叫びながら近寄って、女の髪を握りしめてぐいと引張った。阿梅は悲鳴をあげてのけぞり、手近にあった茶碗を掴んで男に投げつけた。小さい方の子供が声を上げて泣き出した。

「貧乏するのも運だ。この阿女は――」

 掴み合いは何時ものことだ――と瞬間思い出して、楊添丁は血走った眼で女房を睨んだ。

「――なんで、あくまで俺が怠けて儲けないと云うのだ?」

 いくら愚図の楊添丁だって、近年だんだんと貧乏のどん底に突き落されてゆく自家を感知していた。親ゆずり﹅﹅﹅の牛車をとろとろと黄牛の尻叩いて、危なかしい狭苦しい保甲道を歩いた時分は、ポケットには何時も金があった。家の中でぽかんとしていても、米を運んでくれ、甘藷を運んでくれで四五日前から争って頼みに来るのだった。それが保甲道が六間幅の道路になり交通が便利になると、このようにこちらから頼みに出かけても見向きもせずうまく行かなくなったのである。果ては女房までが子供を家に置き去りにして、甘藷畑へ鳳梨鑑詰工場へ出掛けないと、明日の飯に困るようになってしまった。真面目さが足らなかっただろうか――と楊添丁は自問自答した。いや、昔よりは百倍の真面目さを出してやっているのだ、一日として怠けたことがない。考えれば考える程、女房が怠け者だ、意久地なしだと毎日衝いてかかるのが、短気な彼だけに癪に障り女房を打ち殺したい気もした。併し、それも生活のための心配事からだと後で静かに考え直すと、憎らしい気持は消えてしまうのが度々であった。あくまで生活の上に何か自分たちとかけ離れたある目に見えない圧迫と戦っていかなければならないことに心が焦れた。

 夜が明けると、ころころと空牛車の進む音に耳を賑わしながら楊添丁は黄牛の傍について歩いて行った。

 夏の田舎の朝方は凉しかった。雑草の露は未だ重く、歩く度に蹠を濡らして冷たいものを感ぜしめた。田圃にはちらほらに百姓と牛の姿が泳ぎ廻わっているように、道路から眺められた。自転車やリヤカーが後からぐんぐんのろい牛車を追い越して、その度に楊添丁の顔をひょいと見て通り過ぎる。

 町はやはり朝寝坊だった。田舎から押し寄せて来た百姓の群に始めて揺り起される。だがそれでも町の中央の二階はまだ深い夢の陶酔に陥ち入って居り、町外れの汚ならしいトタン屋根の下の市場と破れかけた板壁とだけが、揉合い、喧騒に溢れていた。人々は起きたばかりの顔で何かしきりに叫びながら、朝の空気の中を駆け廻ったりしていた。そこに心配事、競争、怒号、歓喜が渦巻いているように思われた。

「スウ、ス、ス、ス、……」

 下町の万発精米所の前に、楊添丁は牛の鼻筋を軽く撫でて車を止めた。彼は笠を車の上に置いてからのっそりと精米所の入口をくぐった。部屋の中には電動機が唸っていた。

 百姓が四五人坐ったまま話をしていた。

「よう、早いな」

 朝っぱらから事務卓にかじりついて算盤をはじいている精米所の主人に、楊添丁は声をかけた。

「陳さん、今日は一つ何か……ンないですか。」

「あ」とこの米屋は顔も上げず軽く返事ともつかぬ声をだした。しかしそれっきりで、次を続こうともせず黙ったままで算盤に熱中していた。楊添丁は土間に立ったままそれを眺めた。

 先から煙管を出してポカポカやっていた皺の老爺が、何か喋っていたが、楊添丁は今始めて聞き取ることが出来た。

「こんなに米が安くなったのは、俺ァ生れて始めて見た。百姓ちゅうのは米をただで作ってやるようなものだな。それにここでやる籾摺賃も加算したら、いくら米を売ったって一銭も儲からぬ! 阿呆らしい話だ。」

 聞いていた歯糞だらけの一人が、

「そりァ、老頭、お前さんが自作で売る米を持っとるから、あんなことを云う。俺を見い。食う米でさえ満足にない俺は安いのがいいんだよ。」

「ふう。お前一人のいうことだろう。米価が高いと景気がよいと云うてなあ、誰だって高い方をねらっとるだよう――安くなっちゃ、お前、もう終りだぞ。」

 煙草をポンと叩いて老爺は力を入れて云った。

「なるほど!」唾を飲み込んで百姓達は耳を澄ました。

「そうかい。俺にしたらどっちも同じだ。つまりなんだね……」

 歯糞が続けるのを押えて、

「阿呆たれ!」

 と老爺は口角に泡を飛ばして呶鳴った。

「あ、出来たよ。八円五拾台銭だ。皆合わせて――」

 算盤を壁に掛けて、米屋が老爺に云った。老爺は眼玉を丸くして、

「ほら、ほら」と先の百姓に顎でこの通りだというように示した。

「陳さん、今日は――どうですかね。」

 楊添丁はもじもじしていたが、時を掴みせき込んで訊ねた。

「あ、お前か」如何にも始めて気付いたように米屋は楊添丁の顔を見た。「運ばねばならぬ籾が沢山あるんだがね――」

「じゃ、この俺が、あの一つ――ンで。」

「だがね。貨物自動車にしたんで、相憎だが駄目だ。」

 むっつりして楊添丁は突っ立ったまま、じっと米屋の顔を見つめた。

「でも、陳さん、自動車の行かれないところへ一つ俺の牛車を使って呉れたら――」

 生活の必要を控えているだけに、彼ははあ左様ですか――とそうそうはそのまま外に出られなかった。

「それもそうだけどね。添丁、お前も考えて見な。それに間合わすためにリヤカーを三四台も持っている俺が、又車を頼む程商売も大きくないし、それかといってお前の牛車を使うのも考えものだしね。――まあ、昔からよく運んで呉れたお前だから考えないでもないんだが、今じゃ牛車は使えないからね。他処へでも行って見ることだな。」

 椅子の上から米屋は親切な口調で駄目をおした。

 皺の老爺が成程と頷いて、米屋と楊添丁を交わり交わり見ながら口を挟んだ。

「今時に牛車じゃなあ。誰だってこんな商売をやりァ、いや、山の人だってちゃんとリヤカーを持ってるし、のろい牛車よりか得だからね。俺が小さい時は随分牛車が多かったが、今じゃあまり見当らぬ様じゃないか。何しろあの速い貨物自動車とリヤカーには叶うまいよ」

「ウン、何と云ってもこんな不景気だ。俺も他人様のことばかり考えてるわけには行かなくなってね。やはり商売も金欲しさで、昔通りにのろのろと牛車で役立たすことも出来ぬようになったんだ。」と米屋は苦笑して云った。

「ああ、俺も牛車稼業は辛い――」

 急に力が抜けて楊添丁は気紛れにぐっと番茶を飲み干した。

 皺の老爺が突然何か思い出したように煙管を肩にかけて、

「牛車ばかりじゃない。清朝時代からあったものは、こんな日本天年﹅﹅﹅﹅には凡て駄目だ。俺はもと家の籾をみんな、ほらあの放尿渓の水車だ、あいつに頼んだがね。ところがこんな精米機が出来てからもうあれでは遅くて話にならんし、どうせ同じ位の工賃ならでこいつにしたんだよ。そうしたら、俺ばかりじゃない皆がやはりそうと見えて、今じゃあすこの水車は姿さえも見えないようになったじゃないか。日本物﹅﹅﹅はとかく恐しいもんだ。」

「そうだなあ」

 百姓達は聞きとれて、ぽかんと口を開けたまま老爺の顔に見入った。百姓達は文明の利器を凡て日本独特の物と思っていたのである。

 自分のことを云われているような気がして楊添丁は嫌気がさした。然し自分と似た者がここにも居るのを始めて聞き知り、彼は好奇心に燃えてじっと突っ立った。

 もう街路はすっかり明け離れて、陽光が輝いていた。乗合自動車は喧ましく警笛を鳴らして客を拾いながらよく走って通った。

 店の中からそれを眺めていた背の低い三十男が振り返って皆の顔を眺めて云った。

「俺もね、そう云われると思い出すんだが、あの自動車の奴のためにどれだけ苦しめられたか知らないんだ。隣と公共して百姓の暇盗びに轎を担いでお金を少しでも拾い集めたがね。ところがあいつ奴がどこの道でも遠慮なしに走しるようになると、商売がとんと駄目になって何しろ稼いだやつが税金に丁度間に合う位だったからな――」

「ハハハハ、阿呆な骨折じゃな。」老爺が大声で笑った。

「あれでも生きて来た理だな。」と米屋も珍しく一緒に笑った。

「そうだよ。全く阿呆な話だった。そこで早速止めて畑に精を入れたんだ。もうかれこれ三年位は経ったがね」と三十男は指折って、感慨無量につぶやいた。

「日本天年にゃ、やはり清朝時代のものは合わぬからね。さっさとそんなものは片づけて、百姓でもしたが得だよ。」

 うるさい牛車に手をやいたか――こう云って米屋は楊添丁の顔をチラリと見た。

「俺もこんな牛車稼業よりか、百姓がどれだけいいか知れないんだ。併しね、そこが……」

 巧いことぬかしやがっていらぬ世話だ――楊添丁は憤ッとなって万発精米所を出た。

 だが牛の背をピシャリ叩いて牛車が動き出すと、これからの行先が又案ぜられて来るのであった。町ではもう何処へ行っても使ってくれぬ――楊添丁は前から知り過ぎる程このことが分っていた。町の商人は無情だ、と彼は心に怨んだが、生活の必要を控えているだけにそれを顔に表わさなかった。使ってくれぬところを無理に枉げてもらって、せめて十回に一回位は――と心にきめかけても誰も雇ってくれぬ時に、彼はこうして町の古巣を訪ね廻わるのだった。

 裏町の石ころ道をことことと通って田圃に出ると、そこの河岸に鳳梨缶詰工場があった。楊添丁は青いペンキを塗った事務室の前に立ち止った。――

 貨物自動車が工場の傍でプウプウ警笛を鳴らして走り出した。

「おい、いらぬ! 駄目だ。駄目だ。」

 事務室の中から眼鏡をかけた偉らそうな男が彼を見付けて、一口も云わずに、手を振り廻わしながら最先にこう呶鳴った。

 相手が洋服の男であるだけに、楊添丁はぽかんと突っ立った。いきなりそう呶鳴りつけられて彼は空いた口が塞がらなかったのである。

「いらぬ、いらぬよ――ええい!」

 仕方なく彼は又別の製材工場、米屋、却商店等の前に立った。が、一として雇ってくれる者もなく、体よく断わるのであった……

「町で儲ることは愈々駄目かな。――ああ、やはり百姓のお金しか貰えなくなったんだ。」

 牛車の上で揺られながら楊添丁は眼をつぶって考えた。



「やあ、楊添丁、いいところで会った。」

「ああ、阿生さんか、どちらへ?」

 車の上から楊添丁は頭を上げると、前十歩の処に村の百姓王生が此方を見て居た。彼は角張った顔を無表情のままつかつかと二三足歩み寄って立った。

「近頃忙がしいかい。」

 近づくと、王生はこう云いながらひょいと牛車に飛びのり、楊添丁と並んでうずくまった。

「いや、その反対だよ」

「ほう。こいつは――俺から見りァお前はとてもいいと思ってるのだが。第一この牛を歩かせたらお金が入るからね。全くいい話だ」

「フン、そんなごちそう﹅﹅﹅﹅があるもんか。百姓がどれだけいいか知れんだ。」

 首を垂れたまま楊添丁は考え込んだ。

「百姓も骨折だぞ。――ところで、明日車は空いてるかい?」と、王生は車板をコツコツ叩いて訊ねた。

 突然或る嬉しい予感に襲われて楊添丁は坐り直した。

「あ、空いてるとも。何か、使ってくれるんですか?」――

 翌朝、楊添丁は一番鶏の声が聞えるや否や起き上がって提灯に火をつけた。真暗な部屋は、急に煙がたったようにぼんやりと明かった。タオルを出して頭に巻きつけてから、一寸眠床の中を覗くと阿梅も子供達も手を投げ出して寝入っていた。楊添丁は口早に云った。

「もう行ってくるぜ!」

 外はコールタールで塗ったように黒かった。彼は牛小屋に行って黄牛に乾草を一束与えてから車を引かした。夏ながらも冷い風が首をすくめさし、裸足は濡れていった。車がガタガタと揺れて進む度に、蝋燭の黄色い火は痙攣のように顫えて消えかかるのであった。ガラガラッ! 縦貫道路の敷きつめた小石が車輪を擦りつけられて悲鳴をあげ、それが闇の中で一層哀れに大きく響いた。

 約束の場所に着いて見ると、王生は未だ来ていなかった。今朝竹籠を積み込んで名谷芭蕉市まで送る約束がしてあった。楊添丁は牛車を止めて腰を下したまま、空を仰いだ。

 月もなく真黒で、ただ逃げ後れたような星が数えられる位に元気なく瞬いていた。道路近くの農家から、紙を突き破る勢で鶏の鳴声だけが相呼応して耳をついて来るのだった。こんなに早い中から働きに出る者は――と楊添丁は思った――俺みたいな者だけだろう。人がすやすやと好い気持で寝ている時に俺はここで仕事を待つ。そして突然楊添丁は暗い心持になった。――なのに妻はこれでも俺を怠け者、意久地なしと云う。ああ、――と楊添丁は溜息を吐いた。一体俺の妻は何という女だ……。又それはそうとして、こんなに働いてもお金が入らぬとはどうした世の中だ。神様も盲目になってしまったのか。一時に彼は働ける自分を認めてくれぬ神様を怨んで、悲しいこそばゆい気に襲われるのであった。

「おうーい。居るかッ。」

 闇の中から突然、太い声が無気味に響いた。急に今の心持はすっかりけし飛んで、楊添丁は大きい声で永く待ったことを答えた。立ち上って提灯を高くあげて見せた。――

「もう何時かな?」

 王生だった。ドタン! と担いで来た竹籠を牛車の傍に下すと急いで縄を解きかかった。家族らしく一人の娘と二人の少年がやはり担いで来ていた。娘は笠をかぶり、朧気な提灯の蔭でせっせと手を動かしていた。少年達も頭を下げたままだった。

「二時頃だろうな。一番鶏が鳴いて間もないから――」

 さっさと竹籠を積み込みながら楊添丁は答えた。今眼の前にものにありついた嬉しさが咽喉までこみ上がり、勇気百倍で彼は力を出した。やっと助かった――という晴々した心の中で、有難い有難いと叫びつつ相手に感謝するのだった。

「おい、貧乏人を助けるのはやはり貧乏人だけだな。」

 町の人達は雇ってくれぬばかりか犬を追い出すように衝いてかかるのを思い出しながら、楊添丁は親睦の感に声を危うく震わして、時々、四十男の王生に顔をむけた。

「なあに! そんなことが……」と王生は一応否定した口調だったが、すぐに楊添丁の言葉の裏を感じたらしく「俺もね、始めは家族連れで担いでゆこうかと思ったが、何しろ遠方だしどうしても駄目だァ。リヤカーなら一番いいんだがこれも貸して呉れる者は居ないからね。だからお前に頼んだだよ。」

 箱を簡単な牛車に積み込むのに十分はかからなかった。

 家族に何かを云い含めて帰らせてから、王生は牛車の傍を歩いた。

「芭蕉市までは今までどれ位かかってゆくかね?」

 歩き出すとしきりに時間のことが気にかかって王生は訊ねた。

「まあ、ざっと三時間余りですな。五時過ぎには着きますよ。大丈夫――」

 楊添丁は時々振り返って相手の顔を見た。

 暗い道路の上を岐路からゴトゴトと音を聞かして、提灯が揺れながら二つ三つやって来る。それが同じ牛車仲間だと楊添丁はすぐ感づいた。彼等はこうした早朝には、大抵隊を組んで出かけるからである。

「よう――」はっきりとお互の様子が分ると、向うから先に声をかけた。「お前も早えなあ、名谷か――」

「あ、芭蕉市までだァ。久し振りじゃな。」

 轢轆が賑わって、牛車が三四台長く列んだ。一種愉快なお祭みたいな感じが王生の心を揺ぶる。先頭を歩く者が、老人らしい声で何かひそひそ議論していた。

 黄牛に一鞭あてて楊添丁は云った。

「どうかい? 景気はいいか?」

「景気! アハハハハ」すぐ前の四十男が笑って振り向いた。

「今頃こうして此処を歩いてるから考えても分るこったァ。景気がいいなら、こんな時にゃ、眠っているんだぞ。」

 成程だなァ、俺もだ――楊添丁は心の中で寂しかった。

「もうあんな話はよそうぜ。お互に分り切っとるから……」

 そして四十男はさっさと歩いて、嗄れた大声で歌い始めた。

   陳三一時有主意
   五娘小姐………
   …………………

 彼の歌声は暗い闇を突っぱって流れた。誰かが鼻音でそれに和した。

 楊添丁は流石そんな真似は出来なかった。生活のために歌が歌えない程、楽しく出来てない自分の心を今更発見して吃驚し、朗らかに歌っている者が羨ましく思われて来るのであった。

 牛車は道路の中心を進んでいた。

 突然、四十男は歌を止めて車台の側棒を引き抜き、列から離れて路傍に寄っていった。

 提灯に照らされてほんのりと石標が、そこに立ってあった。

「こん畜生ッ」気合と共に彼は石標を叩き倒しかかった。だが、カッと音がしただけで、いくら殴りつけても石標はびくともしないのだ。彼は若々しく呟いた。

「チェッ、野郎――」

「よしッ――きたッ。」

 飛び出した男が、すぐ大きな石を探がして来た。二人で持ち上げて力一杯に投げつけた。二三回繰り返すと、石標は難なくぶっ倒れた。

「ざま見やがれ!」

 田圃に拋り込んでから、二人は大声で笑いながら戻って来た。

 彼等は日中よく石標の傍を通る度に、むかむかと反抗心が湧き上がるのであった。こいつをぶっ倒してやると常に考え、機会をねらっているのだった。石標には――道路中央四間牛車不可進行――と書いてあった。平坦に小石を敷きつめた道心は自動車が走るからである。

「俺だって税金は納めてるだぞ。道路はお互のものだ。自動車が通るとこを、俺達が通っていかぬことがあるもんか。」

 だが、そう思ったものの日中は大人﹅﹅が怖いだけに、そこを通る勇気がなかった。うかうか道心でも通って見付かったら、それこそ科料の上に頭をこつんと叩かれることを知っていたからである。――といって道心がだんだんよくなってゆくのに引き換えて、路傍の牛車道は通行困難になっていた。黄色い土面は堅い車輪に溝を空けられ、ひどい凸凹の皺を見せた。そのために車は進まず、車輪が深溝にはまって、よく骨を折らした。それでも手入れは一向にされず、益々激しい山と谷が出来ているのだった。

「こんな道が通れるかい!」

 彼等は誰も居らぬ早朝にはそんな道を通らなかった。平坦な道心を、我物顔に振舞い、遠慮なしに溝をつくって行くのだった。――

「自動車奴の泣き面を見たいもんだな。こんな時にゃ、牛車様に叶うまいよ。ハァ……」

 先の四十男が、楊添丁の側にやって来て一人で朗らかに笑った。

「ほんとに自動車奴、憎らしい曲者だ。」

 楊添丁は同意して云った。

 近年益々不景気のどん底に突き落されたのは、自動車奴に押されたからだと、いくら無学の彼等だって知っていた。機械奴、畜生ッ、俺等の強敵だ。日本物ッ――心の中から敵愾心が燃え上がっているのだった。

 轢轆と混って、又歌声が暗闇をつっぱった。皆想い想いに歌っていた。鶏があちこちでよく鳴き、時々犬が吠え出すと、暁が迫って来ることが感ぜられる。

 路傍の甘蔗畑から人影が一つ飛び出て来た。それが丁度王生の身辺だったので、王生は軽く吃驚して眼を瞠った。

 だが直ぐに先頭の牛車ひき﹅﹅﹅﹅だと分った。彼は小脇に一束の甘蔗尾﹅﹅﹅を抱えていた。そしてすたすたと小走りに行って、若葉をむきながら牛に食わしている様が、朧気な提灯の光の中で見られた。

 王生は傍の楊添丁にそっと囁いた。

「おい。あんなに甘蔗尾﹅﹅﹅を切っても大丈夫か? 捕まったら大変だろう?」

「なに、捨てるじゃないんだから――」と楊添丁は投げ出すように云った。「黄牛に食わすのだからね。それに今時じゃ俺たちの世界だ。全部切り倒したって誰だか分りっこがないんだよ。」

 又しても、こんなに早い中から仕事に出るのは俺だけだ――の考えが楊添丁の頭を掠めた。

 仕事を終えて名谷芭蕉市を出たのはもう八時近かった。

 よく晴れ上って、太陽が街路を灼きつけていた。

「あ、助かった、四十銭だ。米が四五日買える!」

 楊添丁は心の中で打算した。不思議に不眠の疲れもなく、只管にお金を得た嬉しさ、お金の使い途が旺盛に感ぜられた。

「嬶の奴、もうこれで小言は出せるまい!」

 別の、妻に対する心持が変に晴々として来た。充分に今度こそ妻を悟らせる自信に、彼は何度となく微笑んだ。

 町外れの汚ない家並は砂埃に埋もれていた。板やトタン屋根が落ちかかり、鶏や七面鳥、鵞鳥が路上で騒ぎ廻って糞を垂らした。此処には自動車は滅多に寄りつかなかった。所謂台湾人町と称して、役所が不衛生な本島人の巣窟とて匙を投げた町である。

 路樹の栴檀の下を楊添丁は黄牛に鞭打ちながら足を運んでいたが、急に立ち止って「やあ――」と云った。瞬間、彼の眼は烈しい驚きに輝いた。「お前、いま……」

「ハァ……。久し振りだった。まあまあええ。」

 手を振りながら笑って彼の眼の前に立っている男――それは同じ牛車仲間の林老であった。賭博でよく豚箱をくぐって来た男で、楊添丁は前に彼が窃盗をやって刑務所に送られたと聞いていた。それが今ひょっこり眼の前に出て来たので、それだけに彼の驚きは大きかったのである。

「お前、いま煉瓦城﹅﹅﹅(獄の意)に入っとるじゃないのか?」楊添丁はもう一度叫んだ。

「おっと」林老は鋭く睨んだ。人指し指で自分の口を押えて相手を制してから、辺を見廻わして小さな声で云った。

「そうなんだ。お前も知っとるのか。暫らく入ってた。」

「暫く?」

「ん、六ヶ月だよ。人殺しじゃあるまいしね……」

 二人は町から離れて田圃の方へ歩き出した。

 鉄道線路と並行している煉瓦製造工場からどす黒い煤煙が空気を濁し、通行人の顔を横向かせる。

「たった六ヶ月だけ? 盗んで……」と楊添丁は首をかしげて吃驚したというように呟いた。「たった六ヶ月! 俺は二三年かと思った。」

「ハァ……。まあまあええ。ところでお前は相変らず真面目だね。」

「真面目だって? お前、これだよ……」

 楊添丁は飯を食う手真似をして見せた。そして思い出して、

「今日、お前も出たかね?」

「いや、もう廃業だよ。牛は売っちゃった。阿呆らしい。今時に働くのは阿呆だからね。遊んどいた方が利巧だぞ。」

 林老は楊添丁の顔を覗き込んできっぱり云った。

「何だって?」楊添丁は眼玉を円くした。

「そうだ。働くのは阿呆だぜ。日本天年はな。金のうん﹅﹅と儲かる仕事は皆…………奪い取ってしまったからね。俺達ァ働くのは阿呆だぞ。」

 投げだすように云って、林老は車台の上に飛び乗った。

「しかし、お前、お腹を一杯にせねばならぬじゃないか。」

「ふん、働いたって、一杯にならぬぞ。そうだろ!」と林老は呟いた。「汗を流して四十銭、五十銭と苦心して儲けるよりかねぶらぶら遊んでいて、一回こう転がして十円二十円と入って来るのがいいぜ。」

「転がす?――」思わず楊添丁は唾を飲んで、相手の口に見入った。

「そうだ。そしてね、負けたら一夜でも出稼ぎして、金になる奴を失敬して来たら大丈夫――又お金になる。捕まったって一年そこらだ。その間は養ってもらえば結構――」

「養ってもらう?――」楊添丁は眉を顰めた。

「うん、煉瓦城﹅﹅﹅の中で養ってもらうんだ。俺なんか、どうにもならぬ時にゃ、わざわざ養いに行って来るんさ。怖いことなんかありゃせん。看守なんかもう友達になっとるぜ。」

「そうか? 俺は非常に恐っしい処だと思っていたが……」

 楊添丁は感動したように目をぱちぱち瞬いた。



 髪をふり乱したまま阿梅はずんずん歩いていった。泣き腫らした目のふちには赤い輪ができ、頬は濡れていた。小さい方の子供は脅えて母の腕の中で小さくなっていた。

「誰が聞いたって、分ることだァ。」

 後の方から、楊添丁は血走った目でついて歩いた。二人の親の姿を交々眺めながら木春は見隠れに追った――

 夫婦は仕事から帰えると、又金のことで掴み合いをやったのである。それが永い間続いて来たことであるだけに、楊添丁は遂に我慢し切れず爆発したのだった。

「これでもお前は――どうしてそんなに理分らずやだッ。」

 力強い男の前では女は豆腐のように弱かった。阿梅はさんざん痛い目に遭わされると、彼女も彼女で頭が真赫に詰まり、男の弱点を衝いて喚いた。

「出て行け。うちは俺のものだ。意久地なし男奴、出て行けッ。」

 楊添丁は招夫﹅﹅であったのだ。家の戸主は阿梅であった。――

「やあ――」

 田圃の中から百姓達が二人を眺めて不審に声をかけた。

「どうしたのか。又か!」

 楊添丁は聞えない振りをして、声の方を見向こうともせず俯向いた。阿梅も取りすましていた。彼等夫婦の喧嘩は、誰でもが知り渡っている程村では有名だった。流石にこれには楊添丁も嫌な気持がし、会う人達を避けたかった。

 夫婦は口争いを止めずに続けた。一米幅の保甲道は田圃の中をくねくね曲がって、その終点に保正﹅﹅の家があった。夫婦はその家に入った。

 保正の家は立派であった。赤屋根が夕日に映え、真白に塗った壁が庭樹の葉の間から見られた。門口には電灯が二つ輝いていた。村中切っての大地主で、保正は十年近くも官選といっても過言ではなくやって来ているのである。

 営養のいい丸々と肥えた犬が飛び出て吠えたてた。阿城はぎあっと叫んで母親にしか﹅﹅と抱きついた。

 保正は夫婦の口から一々聞き取った後、六十近くの皺だらけの顔に微笑を浮ばせて云った。

「あ、ん、そうそう。だがね、夫婦喧嘩というものは気が鎮まったら、又仲よくなるもんだ。心配はいらぬ。家へ帰ったらもうけろりと忘れてしまうよ。考えてごらん。」

「いや」楊添丁は力を入れてすぐ続けた。「こい奴はね。俺を夫とも思っていないんだよ。いくら景気が悪いからと云っても聞かんだ。賭博か、妾かこいかってね。こんな妻が他にあるか! 今に出て行けってね……」

「畜生ッ。偉い事を云って、――それが本当だから仕方がないじゃないか。おれがこんなに苦労しとるのも知らんで……、出て行って呉れ。」

 阿梅は直ぐ様呶鳴り返しながらしゃくり﹅﹅﹅﹅上げていた。

「このことはもう分っている。添丁の云うことが本当。今世の中ァ不景気だ。それに牛車じゃね。」

 保正は何でも分っているような声で云って、夫婦を見下した。

「とても生活は難しかろう。そこは夫婦がね……」

 そこで保正は夫婦和合協力の必要を懸命に説きたてた。

「不景気、不景気だって、働いとるのに金が入らぬことがあるもんか。それが食う米に困るなんて、誰がしたことだァッ。家のことを考えぬ男奴、畜生ッ。」

 阿梅は腕を振りまくって喚いた。

「この野郎、又――」男気がカッと立つと、傍若無人だ。

「あ、まあ、よしよし。成程だァ。お前の考え方には一理がある。不景気でもね。真面目になれァ何でも苦しいことがないんだ。つまり、そこがね、金持になるのと乞食になるのとの堺ちゅう理さ。どうかね、添丁。」

 保正は探るような眼差を楊添丁に向けた。

「真面目ちったら、俺はもう度を越しとる。これで不真面目と云うなら、俺はどんなものが真面目だか知らぬ。あ、もう分らぬ!」楊添丁は唸った。

「それに今頃になって出て行けって……それが夫婦なのか!」

「お前こそだァッ。夫婦の情もない男奴。」

 保正は考えていたが、如何にしたら追い帰してやれるかと直ちに解決をつける積で云った。

「ではなあ、こうしたらいい。お金が入らぬなら牛車稼業を止めて、夫婦共稼ぎで百姓をやれ。そうしたら、夫には賭博、妾かこいをすることも出来ぬし、妻にも夫の真面目さが分るだろう。又百姓は至極生活無難だ。」

 楊添丁は突然眼を輝かした。「お、俺も前からそれを望んどる。俺から見りァ百姓がどれだけいいか知れぬだ。」だが一瞬、彼は力を落して続けた。「けれども――俺は今百姓でさえやれない程貧乏だ。小作には磧地金﹅﹅﹅が要るだろう?」

「当り前だよ。磧地金無しじゃ小作は出来っこない!」保正は笑った。

 楊添丁はふぅーっと溜息を吐いた。そして突然思い出したように保正に三拝四拝するのだった。

「あの、保正伯、一つこの俺に小作をさせて呉れぬか。磧地金は御同情で……」

 これを聞くと保正はううううと唸って、飛んでもないという顔つきをした。

「じ、冗談よせい。そんなことは出来ぬ。同情なんて、世の中は凡て金だァ」

 保正はもう夫婦にこれ以上云わせなかった。椅子から立上ると、俄かに口調を変えて云った。

「もう帰って考えたらいい。家に着いたら仲直りしとる!」

「いやだ。こんな男は出て行け。家は俺のものだ。」

 阿梅は子供のように意地張った。

 これまでだ――と怒気を含んで保正は阿梅を睨らみつけた。

「そうしたらここで待て! 保正伯はな、お前達二人だけの保正伯じゃないぞ。大人を呼んで来るから、その時に大人に話したらいい。いくらでも冷飯が食える!」

 夫婦は恐ろしくなって真暗な藁屋に帰って来た。マッチを擦って灯火をつけ、隅っこの椅子をひき出して腰を下すと楊添丁はそのまま眠床に寝込んだ妻に静かな声で云った。

「なあ、飯を炊こう!」

 子供は親の気配に小さく温順しく縮まっていた。腹が無性に減って来るのだが、黙って見ていた。阿梅は答えなかった。

 夫ははっとして緊張した。いや、もう喧嘩はやるまい――楊添丁は妻のこうした態度に急にむかむかとしたが、生活だ、生活だ――で我を押え、妥協的に妻に向い直った。

「俺は考えたんだがね。日本天年にこんな牛車稼業じゃとても駄目だ。お前とも大分喧嘩したが、全くこのためだ。で俺は、保正伯がおっしゃったように百姓をしようと思っとるんだ。その方がいい……」

 阿梅は身一つ動かなかった。それでも楊添丁はじっと見守ったまま続けた。

「お金を蓄えよう! 磧地金になるまでね。そうしたら車でも売払って百姓するんだ。なァ、これからだ。お金をうんと溜めよう――」

 妙な興奮と決悟が彼の胸で真赫になった。今までにない、清々しい希望が明るみ出たように彼は感じた。

「ふん」

 阿梅は始めて寝返りを打って、此方を向いた。楊添丁は度を抜かれたようにきょとんとした。

「お金を溜める? お前の骨を溜めるのだろう!」

 口の悪い妻に楊添丁は優しく、「何故か?」ときいた。

「食ってゆく金でさえろく﹅﹅にないのに、溜める? さあ、何処から溜めるのさ。」

「いや――」楊添丁は成程と思ったが、何か意味を含めて言い放った。

「そこだ。お前も考えて見な。暫くの間だが、我慢してお金の入る方法でやるんだ。俺は俺で、お前はお前で……」

「方法? お前はいつも阿呆なことばかり云って――それで金が入るなら、苦労はせぬ筈だ。何を弱音吐くのだッ。」

 阿梅はぷいと中の方に向いてしまった。

 暫くそれに見入ったが、やがて楊添丁は力なく立上って眠床に寄り、気遅れを感じながら妻に云った。

「暫くだから、いや、暫くでいいだ。あの…………………でもいい。俺は金が入るならかまいやしない。」



 真赤に灼けた鉄板を上からおしかぶせたような夏の暑い日ばかりだった。

「ほら、あの女ね、何がさ――阿梅だよ。」

 何時の間にか、部落の人達は牛車屋一家のことに噂を立て出した。

「そいつがね。えらいもの﹅﹅になったぜ。あれ﹅﹅だよ」

「え? そりァ――」

 皆顔を見合わせてくすくすと笑うのだった。

「成程、金は入るなあ。添丁は知っとるかい?」

「さあ――、近頃見えないがね。何処か行ったそうだ。然し耳があるからには、勿論だろうな。」

 呆れた顔に憎悪の色を浮べるのであった。耳をそばたてて四五人が一所に集っていた。

「おい。幾歳だったかね?」と若いのが性急に割り込んだ。

「阿呆! 馬鹿!」誰かが叫んだ。

「ふふ、お前、行くのかい。三十女だぞ。好い加減にせ!」

 可笑しくて堪まらないように今度はどっと笑うのだった。

 だが阿梅は素知らぬ顔で、部落を通っては知人とも言葉を交わし、一向にそれらしい容を見せなかった。彼女にとっては、今噂よりも命を繋ぐ「金」の方が大切であったのだ。

「畜生ッ。噂を立てたのは、奴等だな――」

 或時には阿梅は町の魔窟で居合わせた顔見知りの部落の男達を一々思い浮べて、腹が立った。それも金だッ、生活だッということが蘇ってくると、彼女にとっては何でもなく、只聞えぬ振りをしさえすればいいのだ――と思うのであった。

「母ちゃん……」

 夜遅く阿梅が家の門に足を入れると、子供がそう叫んで抱きつき、後はすねるように母親の顔を見守るばかりだった。近頃何時になく母親が町から夜遅い中に帰えるようになったのを子供達は感知していた。それは子供にとって、寂しく不平であった。

「腹が減るか? 眠むいだろう。」

 子供達の顔を見ていると、不意に目頭が熱くなって来るのだった。灯火を消して親子が真暗な眠床で一緒に寝てからも、阿梅は大きな目を開けていた。裏町での情景がまざまざと胸に湧上るのである。

 三十女でも、初めてであるだけに図太さもなくなり、不自然にそわそわした。

 顔見知りのない男が、野蛮に力一杯背を抱いてきた時には本当に泣き出したかった。しかし手に金を握らされた時は助かった! という軽い気持もした。そして門口に頑張ってる主人の老婆にいくらか金をやって家路につくと、後悔の念にも襲われるのであった。ひどく悪るいことをしたように感ぜられて、彼女は一時に夫にあてこすりたい気がむかむかと起るのであった。

 凡てが嫌に暗く感ぜられたのは、この近日来だった。

 二三日おき﹅﹅に帰って来る夫に阿梅は悲しい声で云った。

「何とかせよう――嫌なことばかりだ。お前は男でもそんなに意久地がないのかッ。」

 つんと他方に向いては遂に涙をこぼす。

「ああ、金だ。金さえあればなあ。畜生奴、金だッ。」

 楊添丁は日に焼けた頭を振って喚いた。

「俺も山芋を運びに行ったがね。やはり駄目だ。山道は険しいし、牛がへたばるし、金も三十銭そこらだ。俺があそこで食うのを差引いちゃ、もう問題にならない。」

 夫婦は首垂れた。

「無理もない。子供が可哀そうだ」

「夜遅くまで子供二人ぽっちだよ。何とかしよう――」

「ああ」と吐息して楊添丁は妻に詫びるように視線を落した。

「どうだい。お前の金は……」

 女房が体を叩き売った金は、一家には宝だった。

「何を云っとるのよう――、米屋の借金を埋めても足らぬだ。鳳梨工場が近日中に閉場したらどうするか。」

「仕方がない――」

 楊添丁は如何にやっても同じく苦しく押えつけられるのには、これから先どうしていいか分らなく茫然となるのだった。

 こうした一家が再び立ち上がることが出来ないような致命傷を受けたのは、それから四五日後だった。


 青い空に唾を吐き散らしたような白い雲がふわふわしていた。暑さが遠慮なくヂヂヂヂとからみつく。両手を拡げて抱え込むように迫っている山は、その腹のところどころに赤肌を見せ、それが陽光でまぶしくさえ思われた。竹藪も、相思樹林も、甘蔗畑も、凡てが沈黙し、真赫な陽に映えて溌溂としていた。

 麓から林がずっと低く傾斜して続き、石ころの川一つ隔てて此方に、鳥秋オーチュウや蝶蜻蛉等が上を飛び廻わっている田圃があった。百姓が一足踏み誤れば墜落しそうな階段になっている田で、植えて間のない若苗が不動の姿勢をとっている。そしてこの田圃に挟まれて、白い道路が小石を敷きつめて通っていた。

 自動車やリヤカー等がガラガラッとその上を走った。

 顔を顰めた百姓達が一人、或は二人、三人と前後して歩きながら喋っていた。竹の子笠を被り、旧型の傘をさす等、中には頭丸出しで両手を後に組んだまま、落ちる汗に無頓着という様子であった。

「今日、いくらだい?」と後の者がきいた。

「豆粕じゃ、また騰りやがったさ。十何銭もよう――」と前に居た者が答える。

 すると皆「ほーう!」というようにじっと耳をすまして聞き入るのだった。

「肥料は高いし、米は安いし――俺はどうも困る」と首をかしげた。

 栴檀の下の方では、行く行く道路から田圃を眺めていた一人が仲間に注意を促すように田圃をさして、

「この辺の水田は石ころが多いなあ、水も不足しとるようだぞ!」

 と云うと、相手は「成程」と頷いて、今一層仔細に見るために眼玉を光らせた。そして話は自分の経験から発展して水田のこと﹅﹅できりがつかないのである。

 水色の乗合自動車がエンジンの音を唸らして彼等を追い越し、濃白の霧がかったような塵煙をばら撒いて通った。

 百姓達は顔をそつ向いて、それをよけながら歩いた。

 楊添丁は車台の上に坐ったまま微かに目を開けて見た。黄牛は何も知らぬという風にのろのろと先を歩いていった。堅い車輪が時々凸凹の道にめり込んで、板にのっている彼の頭が痛む程激しくゆれた。それでも彼は立膝を組んで熱い陽光を浴びながら、とろとろと呑気に居眠をするのだ。

 楊添丁はもう考え疲れていたのである。金のために、生活のために、彼を追いつめた圧迫が始終彼の頭にこびりついて彼を悩ますのだった。それもこれを切り開くために妻にまで獣道に落したのだが、どうもうまく行かず、前世からの因縁じゃないかとも思わせられた。町に失望してから彼は山手の部落に目をつけ、あちこちと頼まれて山芋を運んで行商した。然し山手にも金の一片さえも落ちて居なかった。彼の心を満すような現実ではなかった。それが今日帰途につくまで十日ばかりの間だったが、その儲けた純利として、今ポケットに八拾五銭持っているのである。

 十日に八拾五銭――これでどうして暮らせるか。楊添丁は妻と子供を考える時、暗澹とした気持に襲われるのである。もう一切が分らない。生活、金、妻、畜生ッ、牛車――が常に頭の中で繰り返えされる時彼はむしろニヒルになって、それよりかと思い、車台の上で居眠するのであった。――

 確かに、人が近づいてきた気配を感じた。楊添丁はげそっとして眼をあけたが、それと同時にハッとした。「しまった」と突差に叫んで車から飛び下り立った時は已に遅かった。

 彼の眼の前には――大人が怖ろしい顔で此方を睨んで立っているのである。

「こらッ。カンニンラウプ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅!」

 大人の太い腕が動いたと思うと、あっという間もなく彼は頬を張られた。

 熱がさっと上ったような顔を感じながら、楊添丁はぶるぶる震えた。

「車にのっていかぬことが分らぬかッ」大人﹅﹅は真赤な顔をして呶鳴った。

「え、俺は――」

 何を云っていいか分らず口をもぐもぐさしていると、楊添丁の頬はもう一度ピシャッと音をたてた。

「この牛車、お前のかッ。」

 大人﹅﹅はポケットから手帳と鉛筆を抜き取ると、かがみ込んですらすらと車台の鑑札を見て書き始めた。

「大、大人。一回、赦す、よろしい――」

 楊添丁は泣きそうな顔をして大人を拝む振りをした。鑑札を写されたら、後でどんな処罰にあうか、彼は疾によく知っていたからである。

カンニンラウプ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、チャンコロ奴」

 手帳と鉛筆をしまい込んでから、大人は拝むようにしている楊添丁を見下してさんざんに油を搾り呶鳴り飛ばすと、自転車にのって行ってしまった。

「あ、運が悪い。どうしようか!」

 それを見守っていると、処罰のことが胸にこみ上げてきて、楊添丁は心配の気持で一杯だった。


 科料二円! ヌク派出所の紙片を甲長﹅﹅が持ってきたのは翌日の夕方であった。

「明日の午前九時だぞ。いいか!」帰り際に甲長は強く念をおした。

「明日?」楊添丁はひどく狼狽した表情で甲長を見かえった。生活に困窮している現在において、明日までに二円の金を出せる筈がなかったのだ。彼はうんうん唸った。ひどく周章て出したのである。

 その夜、夜露を踏んで帰ってきた妻を捉えて、彼は最先にこのことを持ち出した。

「なァ、お前、今云ったような理だ。我慢して二円になるように足して呉れ!」

 くどくど弁解がましく云った後、楊添丁は哀願するように妻を見上げた。最近妻に対して抱いていたひけ﹅﹅の感情が、何事にでも妻に対する態度をそうさせていた。

 着物を着更えていた阿梅の薄ぼんやりとした顔に、一瞬、怒気がさっと漲った。

「あ、駄目だッ」それを見てとった楊添丁は反射的に失望を感じた。

「俺、知らぬ、金はないよう――」

 阿梅は果して、激怒の余り、かえって冷淡な声で云った。彼女の顔は今むしろ嘲るように見えた。楊添丁はこの時程、妻を憎らしく思ったことがなかった。

「まァ、そう云わぬで――相手が大人だから、ぐずぐずしとると、又ひどい目に会うんだ。なァ、頼む。」

 努めて我を押え、楊添丁は、妻の歓心を買うような口調をこめて云った。

「頼むって、お前、俺に金を呉れたことがあるとでも云うのかい。金がないのに、頼む、頼む、ってどうなる――」

 阿梅は夫を真正面に見ながら、腹立たしげに叫んだ。

「そんなことはない。今まで町で何をしたか――明日までだ。なァ、分ったかッ」と楊添丁はいらいらして云った。

「明日までだから、喧嘩しないで出して呉れ。お前は、俺が大人にいじめられてもいいと云うのかッ。」

「知らぬ、お前のような男はかまうものか。……家がこんなに苦しんどるのに、呑気に牛車の上で居眠なんか出来たものね。家のこと考えとるとは口だ。」

 絶望に叩きつけられたように、彼女は涙を浮べて大きな吐息をした。夫が真面目になると云ったのは、自分をだましたのだと合点すると彼女は口惜しがった。

「家のためだと辛い思いをして、あんなに身を売ってきた俺は馬鹿だッ。」

 口惜しさが昂じて、阿梅は遂いに泣いた。

 妻の云っている意味を感づくと、楊添丁はがらりと態度をかえた。

「畜生ッ」と楊添丁は憤ッとなって叫んだ。

「分った。俺よりか町の男の方が味がいいんだッ。」怖ろしい形相を妻に向けて彼は荒々しく立上った。「明日まで二円がなんだッ。易い話だ。もうお前の世話にはならぬ。こうなりァ――」

 そのまま楊添丁は外に馳け出し、真暗な闇に姿を消した。


 太陽はまだ登らなかったが、夜はもう明け離れていた。

 一夜歩み続けた両足がぐったり疲れを覚えて、棒のように固くなっていた。ざらざらした赤い皮膚が露にしっとり濡れた。徹夜で頭ががんがん鳴り出して重かった。

「畜生、畜生、今に見ろ!」楊添丁は歩きながら、心の中から衝動にかられて呟いた。そうすることが一番彼に多く満足感を与えるのであった。

 天秤棒の両端にぶら下った麻袋は、腸詰のように膨らんでいた。鵞鳥がぎっしり中に入ってあるのだった。

 時々、窒息しそうな苦しみからか「グワ、グワ」と嗄れた鳴声をはり上げて、鵞鳥が暴れるのであった。森と冷く静まり返った空気の中で、それが唐突に大きく響いた。その度に楊添丁は、心臓を握りしめられたような席惧と混乱に襲われた。蒼く小さくなってしまった自分の顔を感じて、周章て気味になるのである。

「これじゃいけない、もっと落ちつけ、済まして――」

 彼は武者振いして自己を叱責し、鼓舞し続けてぐんぐん歩いて行った。

「ドッコイ!」

 強いて平然と装いながら彼は肩換えをして、甘藷畑を突き抜けていた。

 黒く浮んでいた山が次第に明くなって行った。竹、相思樹、芭蕉、甘蔗――が山腹にくっきり姿を現わし始めた。煙幕を張ったような雲が、次第に空から消えていった。

 山が光を浴びてゆくと、麓にある西芸街の屋根が白く見え出して来た。そして瞬く間に、所々から煙が立ち上がっているのがはっきり見られた。やがてマッチ箱を蹴散らしたような街の家並が眼前に展望された。

 顫えて来る自分を抑えながら、楊添丁は超然として街に足を入れた。彼は目標を定めているように、市場に歩いて行った。

 市場からどんちゃん騒ぎの声が聞えてきた。山の人、田舎の百姓等が罵しり、叫んでいるのだった。オンライ、李、筍、蔬菜、薪――が市場の入口まで氾濫して列をつくっていた。

 楊添丁は左右を見まわしながら市場に入った。

 何歩も行かない時、後から「おい!」と呼ぶ声がした。彼はぎょっとして振り向いた。

「あっ!」

 いきなり彼は担ぎ物を抛り出して馳け出した。走りながら後から靴音やガチャガチャの音がだんだん近づいてきたのを感じた時、急に彼は着物を掴まれてしまった。

「大、大人――」

 彼は断末魔のように一声叫ぶと、後は何もかも分らなくなってしまった。


(終り)





底本:「文學評論」ナウカ社
   1935(昭和10)年1月1日発行
※旧字体は新字体に、旧仮名遣いは新仮名遣いにあらためました。
※「すぐ大きな石を探かして来た」は「すぐ大きな石を探がして来た」に、「と思うのであった」は「と思うのであった。」に、「見守るばかりだった近頃何時になく」は「見守るばかりだった。近頃何時になく」に、「襲われるのであるもう一切が」は「襲われるのである。もう一切が」に、「楊添丁はこの時、程妻を」は「楊添丁はこの時程、妻を」にあらためました。
入力:它足
2024年4月24日作成

今日では不適切とされる表現がありますが、底本のままとしました。

『台湾写真帖』,台湾総督府総督官房文書課,1908. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/992907 (参照 2024-04-23)


若云進化終極,必能達於盡美醇善之區,則隨擧一事,無不可以反唇相稽。彼不悟進化之所以爲進化者,非由一方直進,而必由雙方並進。專擧一方,惟言智識進化可爾。若以道德言,則善亦進化,惡亦進化。若以生計言,則樂亦進化,苦亦進化。雙方並進,如影之隨形,如罔兩之逐影

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