SDGs徒然

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 高校教員の知人から聞くところによると、SDGsの取り組みが苛烈化する一方で、年々残り時間が短くなる中で生徒側のモチベーションの維持が難しくなっているという。それはそうだろう。10年後、と言われれば中高生の時間感覚であればあれこれ夢想する余裕もまだあるが、これが2年後、なんかになってしまえば中高生といえども、この授業が空理空論を唱えさせられているのではないか、という疑問は濃厚になるどころではなく確信に変わる。

 SDGsは京都議定書のような特定の物質の国家ごとの指標みたいなものとは質的に異なるもので、倫理的な問題も含めて2030年までに達成しようというものである。17項目の達成目標を見ると、これまで人類史になかったようなドラスティックな改革が必要とされる文言ばかりが並ぶ。
 曰く、飢餓をゼロに・エネルギーをみんなに、そしてクリーンに・働きがいも経済成長も…などという至極もっともな、そして何十年も前から言われていることについて改めて足並みをそろえて取り組もうという。もう2023年である。これを教育現場で子供達に課題として履修させてどうなるのか。

 思うにざっくり四つの典型がありうるのではないか。

 一つ目の、取り組みをそもそも理解しない子はいつの世もいるとして、二つ目に、課題としてこなす事に価値を見出す層があり、彼ら(=they。以下略)は普遍的な賢さ、したたかさで以て在学中授業中に見事にそれをやってのけるだろう。愛国教育が真の愛国者を決して育まないように(戦後一転して民主主義が題目となるとそちらでの得点競争に勤しむことができた人々と同じく)、彼らは会社に入って別の目標が設定されればSDGsとは別の枠組みで懸命になれる。賃金のためにはSDGsなんか果たしてどうでもいい。
 三つ目には、ある程度ナイーブに受け止める層もあるはずだ。彼らはゴールが困難なことは承知であれ、17項目の内容が提起されている、ということの世界的な動機付けの意を汲んで、今後の生活においても、個人としてある程度それを念頭において暮らしていこうと思うかもしれない。青年期にこれを注入されることの適度な効能はここにあるかもしれない。おそらく当の2030年が来てしまったら、国連は数値的な分析を幾つか明かしながら、ゴールをもう一回設定し直すだろう。それが敗北宣言にならないために必要なのは意識調査において多くの指標で2015年よりも良い回答が出てくることだ。そのためにはこの層が一番重要である。
 二つ目と三つ目の層が一番分厚くなってくるのだろうな、と思われる。前者の一部は資本主義にSDGsを新たなモチーフとして取り込んで、後者の一部はSDGsを資本主義に組み込もうとするだろう。

 そして、最後の四つ目が一番懸念している層である。この、間違いなく不可能なものの間を埋めるための方策を真剣に検討する者である。自分がそういう子であったらと想像して、その展開をたどってみる。
 先ず彼はこの題目群の重要性を深く脳裏に刻む。体が熱くなる。そして数日するあいだにちょっと冷静になり、これらすべてを同時に、は到底不可能ではないかと気づく。しかし達成しなければならない。使命感がたぎってくる。この問題を解くには17項目の相互に序列があり、ある一つの項目の達成には他の項目の達成が前段階としてあるはずだ、と看做すことが適切であることに思い至る。貧困をなくすことが経済成長の前提だ、とか、平和と公正の前段階にはジェンダー平等の達成が不可欠だとか。こんな感じで一見フラットに書き立てられている17項目の中に枢要な1項目(ないし2項目)があることを発見する。これの達成のためにはあと数年しかない。仕方あるまい2030年代でもよかろう、しかし強烈なアクションが伴わなければこれを達成できず救えるものが救えない。だが、今までこのような取り組みが叫ばれてきながらなぜ事態は悪化する一途をたどってきたのか。どうも根本的な阻害要因があるとしか考えられない。
 それは◯◯だろう。
 この窮地から一気呵成に跳躍するためには阻害要因を取り除く必要がある。迅速かつ徹底的に行わなければ、事態の悪化の速度に打ち克つことはできない。

 これは見ての通り破壊思想であり、彼および彼と志を同じくする幾人かが、どれほどのレベルかは不明であるが、何かを実行するのだ。しかし、この論理の内側では極めて合理的なのだ。動かすべき変数をないか見出し、それを無きものとすれば式は端正になり、解に辿り着ける。

 話は逸れるが、旧日本軍の末期の破滅的な戦闘を分析する近年の研究では、彼らは「合理的であった」と結論づけられている。決して戦闘の内容を正当化する文脈ではなく、合理的であったがために、勝利を期してその戦術を繰り返し適用したのだと。昭和戦後において語られてきたのは、彼らの非合理であったはずだ。勝ち目の無い戦いに対して狂信的に突撃する天皇主義者。しかし、米軍の戦闘報告を読み込むと、彼らば絶望的な中で「合理的に」戦い、おびただしい死者と地獄のような末路を自らにもたらした。何が合理なのか。つまり圧倒的な戦力差と取り戻しようのない形勢から勝利を導き出す関数において排除されたのはまさに人命なのである。今のロシア軍もそうかもしれない。
 勝利への方程式は、特に人命を尊重しない限りにおいて極めて簡素なものとなるのだ。

 過去、過激な手段に訴えた者たちはその最中にはどんなに脆弱とはいえ合理性を抱えている。動き出すと、矛盾はむしろより起きないことになる。無意識に視界から排除され、矛盾を指摘する者も排除されるからだ。

 SDGs教育が無理な思考を子供に強いているのは、ある程度生活を重ねればわかるはずだ。僕らはエコだエコだと言っては水筒を新規に購入し、化学繊維製の袋を買っている。電子機器を使わなければ希少金属の採掘による土壌の破壊と賃金労働者(低所得者でも購入できる価格を維持するために)を生み出し、彼らの中から不可逆的な労災を蒙るものを生み出す。水資源は80億人が分かちあいきれるのか。これを間に見える期間内に解決する方策は考えるだけでもおぞましいことであるのは少し考えれば明らかだ。
 北朝鮮の1人当たり二酸化炭素排出量が世界130位(2019年基準)というが、その生活を甘受できる人間を、涵養するのか、選別するのか、あるいは全員に強制するのか。

 状況は絶望的だが、これを変えることを個人の努力に委ねてしまっても、危険で稚拙な解がはじき出されるだけではないだろうか。

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