064 かくも長き不在と、短き不在の耐えられない軽さ
かくも長き不在を、まずお詫びします。。。って、いったい誰に?
待っていた人などいないだろうに、という自分突っ込みはひとまず置いておいて。。。
いま、店の常連客にも協力してもらって、本をつくっています。って話は前にも書きましたね。
長引くコロナ「渦」に巻き込まれて、政府や専門家もろともに漂流するばかりではいけないと、こんな時代だからこそ内向きになってばかりいず、身近にいる、前を向いている人を取材し合って紹介しようと声をかけたら、何人かが参加してくれました。
その作業が佳境に入っていて、NOTEのことを忘れていました。いや、ほんの少し頭の片隅をよぎることはあったのですが、店は閑古鳥が鳴いていて、ボクももらい泣きしている状態ですが、これが結構忙しいから不思議。
昔、ちょっとインタビュー仕事をしていたことがあるとはいえ、
①事前に資料を読み込んで
②インタビュー依頼
③了解をもらったら、質問項目をつくってメール
④当日、いよいよインタビュー
⑤原稿執筆
⑥取材相手に校正確認依頼
⑦修正点を反映させて完了、デザイナーへ
という作業を、ほぼ十人ほど終えました。
先日、今回協力してくれている常連客の一人から最後の原稿が入って来たので、めでたく最終段階へ。
今週末か来週早々には印刷所へGO!というところまで来ました。
これが、かくも長き不在のエクスキューズになります。
次は、タイトルの後半部分。
これについて書く前に、もう一つだけ「かくも長き不在」についてのエクスキューズを。
と、横文字にした途端、謝っている気がしないのはなぜでしょう。だから、政治家は横文字を使いたがるのか。頭を垂れたくないんですね。きっと。
最近、ボクは5歳から付き合っている親友に、ほぼ毎日、メールをしています。これが案外難しい。くすっと笑わせて、返信したくなるような文面でないといけない。
だから、NOTEに割く時間がないわけですね‐-なーんて、言い訳です。
さて、「短き不在の耐えられない軽さ」について。
スマホが、いきなり壊れました。
今回は、夜眠ってる間に充電していたら、その間に「勝手に」壊れちゃった、、、壊した主語は、「勝手」ですからね。
十年くらい前のことだったか、スマホを壊したことがあります。
この場合の主語は「ボク」。暑い盛りに、田舎に行っていた際に、お袋の代わりに2時間くらい畑を耕して。。。
ほんと、農家って人たちには敬意しかありませんね。
それはさておき、家に戻ってシャワーを浴びる前に、着ていた汗びちょの衣類を放り込んで洗濯機を回しました。
さて、シャワーを浴びる前にスマホをチェックしようと尻ポケットを探ったら、なーい!
あれー?
ボクの手は、スッポンポンのお尻を叩くだけ。
あ~れ~、、、
どうりで、さっきから洗濯機が妙な異物音を立てていると思ったんです。
慌ててスイッチを止めて、と言っても止め方がわからないので、電源コードを抜きました。
止まるまで、数回ぐるぐる回る間に、ガラガラという異物音は続きます。
やっと止まったので、恐る恐る手を入れて、ねじりんぼうドーナッツみたいになってる洗濯物をほどき、やっとGパンの尻ポケットを発見。
ありました、ボクのスマホの亡骸が。。。
何を押してもスイッチは入らず、完全に押し黙ったまま。
現代社会において最大のコミュニケーション・ツールなのに、まったくの沈黙とは、これいかに。
そうだ、水濡れがいけないんだ‐-と思ったボクは、近くにあるスーパーに飛んで行って、乾燥剤を山ほど買ってきました。
流れ出す音楽ではなく、水をふき取ったスマホ様を乾燥剤40個ほどの中に埋めこみました。
葬儀みたい?
いや、もしかして、イエスみたいに奇跡の復活はあるのか? そう期待して待つこと1時間、2時間、3時間。(ほんとは、昼寝してたんですが)
結果は、って?
ダメでした。うんともすんとも言わないんです。でも、この場合の「うん」はいいとして、「すん」はなんなんだ? 気になるぅ~(藤井風ふう?)
あの日、友人にもう畑作業は終わったから、いつでも遊びに行けるぞー、と電話したのは、妻の携帯を借りてでした。
だからでしょうか、なかなか友人からの返信がないなぁと、その日、何度もシャツのポケットに手を当てましたが、そこにはスマホはなかったっけ。
不在の耐えられない軽さ。
おあとがよろしいようで、と、ここで話が終わればいいのですが、つい余計な蛇足を付け「足し」たくなるのが、ボクのNOTE。
「存在の耐えられない軽さ」はミラン・クンデラの原作を映画化した1988年のアメリカ作品ですが、1968年のプラハの春をモチーフにしています。
で、アフター・コロナの春はいつ来るのか?って話をしたいのではなく、イスラエルのことです。
先の大戦であれだけ酷い体験をしたんだから、ガザにそこまで酷いことをしなくても、というのはボクという存在の耐えられない軽さが言わせていることでしょうか。。。
でも、広島や長崎に原爆を落とされても、自分が原爆を持つのではなく、世界から原爆をなくそうと活動している人たちがいます。おそらく、広島や長崎に住むほとんどの人がそう思っているのではないでしょうか。
どんな状況でも希望はある、というのは軽すぎる言い方かもしれませんが、希望を見ることはできると思いたい。ボクはいま、強くそう思っています。
いや、周庭さんの監獄には希望を見つける窓すらないのかなぁ。香港、タイ、ミャンマーほかと、胸が痛い今日この頃です。
花より早く 生まれる茎よ 花より早く 枯れることなき 君を見ており
(田中章義)
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