見出し画像

嫌なことをちゃんと感じて認めると自分がわかる

よく親密な関係になると、呼び捨てにされる。
男性に呼び捨てにされた途端、
なんだかとても嫌な気分になる。

もちろん、呼び捨てにされたい女性も
いるのはわかる。

でも、私は、突然
俺のものだと支配されて、
相手が偉そうになる感覚があり、
とても嫌だ。

そのことに気がつかなかった。
彼女を呼び捨てにすることは普通のことだし、
父が私を呼び捨てにするように、
親しくなれば呼び捨てにされることはよくある。

考えてみれば、子どものころ、
呼び捨てにされることで悩んでいた。
「なぜ兄はちゃんづけで、私は呼び捨てなの?」
ずっと思っていた。
妹も呼び捨てにされていたのが救いだった。
妹がいなければ、私は愛されていないと
もっと深く悩んだだろう。

学生時代からの女友達は
私を呼び捨てにする。
それは全然なんとも思わない。

ただ、それまでさんづけだった男性から、
親しくなると突然呼び捨てにされたとき
「なんで呼び捨てなわけ?!」
と思った。
「呼び捨てにしないでください」
とはっきりと要望した。

それでも、無意識に呼び捨てにする男性は、
私を支配しようとする意識が強いと感じた。
男性特有の女性を所有したい
自分のものにしたい欲望のあらわれだろう。

私はそれに嫌悪感を抱く。
私は誰のものでもない。
私は自由だ!
という思いが強い。

歳上の男性とお付き合いしたとき、
やはり急に呼び捨てにしてきたので、
呼び捨てにしないでくださいと断ると、
なんで? 名前なんて記号だからなんでも同じだとか、
俺を呼び捨てにしてもいいからとか
言われた。
何でも同じなら、私の希望でいいでしょ!
と思った。
俺のことを下の名前で〇〇さんと呼んでほしい
とも言っていて、
すごく夫唱婦随なイメージが
できあがっている人だった。

金子みすゞ記念館館長の矢崎節夫さんが
こんなお話をされた。

金子みすゞ記念館に来館されて
みすゞさんの詩を読んだ方々は
皆さんノートに、「みすゞさん」と書かれる。
記念館のどこにもみすゞさんと書いていないのに、
きれいな詩を読むと自然と
きれいな言葉をつかうようになる。

一般的に作家を呼びつけにするけれど
そもそも、呼びつけにするというのは、
上から目線だから、
みすゞさんの詩の
すべてが同じという意識に立つと
みすゞさんと読んでしまうのでしょうね。

ああ、そうだなと思った。
その、男性からの上から目線に
耐えられなくて、
嫌悪感がほとばしるのだろう。

もちろん、上から目線でない男性もいる。
そんな男性は、呼び捨てにしようとすら
思わないと思う。

女性の味方だと思っている西山厚先生に、
奥様のことをどう呼んでいらっしゃるのか
尋ねてみたら、
ちゃんづけされていた。

やっぱり。

父に呼び捨てにされたり、
先生から呼び捨てにされたり、
そんなとき、
父だからしょうがないというか
先生だからそういうものかとか
そんなふうに頭で考えて、
これは普通のことだと思おうとしていたけれど、
私は呼び捨てにしてもいいとされる
立場の人であっても
私はすごく嫌なのだという感覚に
気づいた。

女友だちの呼び捨てに何とも思わないのは
彼女たちは私を支配しようとか
所有しようと思っていないからだ。

女性であっても、
私を支配しようとする呼び捨てをされたら
反発心が生じる。

それは、呼び捨てにする本人も
無意識なのだろうけれど、
その無意識の支配欲を感じると
嫌な気分になる。

みすゞさんのように
すべてが尊重される世界で
生きようと思った。

みんなを好きに

私は好きになりたいな、
何でもかんでもみいんな。

葱も、トマトも、おさかなも、
残らず好きになりたいな。

うちのおかずは、みいんな、
母さまがおつくりなったもの。

私は好きになりたいな。
誰でもかれでもみいんな。

お医者さんでも、烏でも、
残らず好きになりたいな。

世界のものはみィんな、
神さまがおつくりになったもの。

金子みすゞ童謡全集





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?