場をひらきつづけた、ということ(しょぼい喫茶店最終回前夜に)
2018年6月からつづけてきたしょぼい喫茶店での間借り営業が、あしたで最終回を迎えることになりました。お店の休業に伴ってのことです。
わたしが教育業以外の仕事で一年半つづくことなんてほんとうに稀で、いろんなことがありすぎて、このことが決まった昨夜から丸一日、走馬灯を見つづけているようです。
いいたいこと、思い返したいことは山ほどあるのですが、それは終わったあとにとっておくとして、ひとつだけ。
そもそも、週に一回、同じ場所に場を持ちつづける、というのは、わたしにとってはとても怖いことでもありました。
わたしは身内をつくるのが苦手です。
だれか特定の人たちと仲良くなると、そこに入ってこられないだれかのことをどうしても、どうしても、考えてしまいます。そして、わたしといっしょにいたいと思ってくれる人や、せっかくなかよくなってくれた人よりも、いまそこにいないだれかのほうに、より強い親近感を覚えるようになります。
じぶんがかつて、学校という共同体のなかで、そんなふうに排斥されてきた記憶が、身体から消えていないからかもしれない。もしくは、「いまここにいない、排斥されただれか」に強い親近感を覚えるようになった結果、ニュースで見る自死を耐えがたく苦しく感じるようになったからかもしれない。
原因ははっきりしないけれど、とにかく、わたしという人は、そうなのです。そういうと、潔癖とか、思想が強いとか、そんなふうにいわれることもあるけれど、そんなたいした話ではなくて、ただ、そうなってしまう、というだけ。たぶん、わたしがおかしいだけなんだと思います。
だから、同じ場をひらきつづけて、いつか常連ができて、仲のいい人ばかりが集まるようになったら、同時にわたしはだれかのことを無意識に拒みはじめるかもしれない、というおそれが、つねにありました。
それでも「しょぼい喫茶店」で働くことに決めたのは、そうならない場、閉ざされることのない場をどのように作れるのか、試行錯誤してみたかったからでした。つよいおそれを持っているからこそ自分がやってみたいという、挑発的な気持ち、もしかしたら、自傷に近い動機も混じっていたかもしれません。(余談ですが、わたしは教育という仕事に対しても同じように取り組んでいます)
そして、その試行の場として、「しょぼい喫茶店」という空間、そしてえもいてんちょうさんおりんさんのおふたりが持っている雰囲気やストーリーは、ほんとうにすばらしいものでした。
↑しょぼ喫が取り上げられたニュース
結論から言うと、常連はできました。ところが、常連のひとたちは口をそろえて、
「くじらさんに冷たくされてからが常連だからね」
とかなんとかいって、新しいお客さんが来ると席をゆずったり、ときにわたしのかわりに注文をとってくれたり、買い出しにいってくれたり、わたしが忙しいときに会話から孤立しているほかのお客さんに話しかけてくれたり、精神的にしんどくなってしまって暴れたすえに逃げ出そうとするお客さん(!)をわざわざ追いかけていってなだめてくれたり(!!)、攻撃的なことをいうお客さんが来たときにその人から他のお客さんをかばってくれたり(!!!)するのです。
これはびっくりでした。
わたしが大切にしたいものが説明もしないのにちゃんと伝わっていること、そして、大切にしたいのにわたしの手ではとても足りないとき、まるでわたしを拡張するように役割を果たしてくれること。しかも、「冷たくされて」いるにもかかわらず!
申し訳ないと思う反面で、わたしのひらいている場にわたし以外の力が加わっていくことが、どれほどうれしく、おもしろかったか。
「味方ができる」ということは、必ずしも怖いこと、悪いことではないのかもしれない、と思えたのは、これがはじめてでした。
もちろんうまくいくことばかりではなかったし、感傷的すぎるかもしれないけれど、それでも、毎週木曜日夜のしょぼ喫には、すこしずつひらかれた場が育ってきていたと言っていいのではないかと思っています。
第一に、清潔で愛される空間をひらきつづけてくれたしょぼい喫茶店のえもいてんちょうさんとおりんさんの力。そして第二に、わたしがいちばんおそれていたはずの常連のお客さんたちの力によって、わたしは一年半、たぶん、身内の輪のなかに閉ざされてしまうことなく、場を持ちつづけることができたと思います。
そのおかげで、わたしはじぶんが「閉ざされない」ことを目指す場をひらきつづけることに対して、またもっとおおげさにいえば、この世界のなかにわたし自身の居場所を置きつづけることに対して、しょぼい喫茶店で働きはじめた頃よりも、いくらか希望的にかまえられるようになったのです。
さて、そんなふうに育ってきた場も、あしたの夜でいったんおしまいです。
しょぼ喫に一年半立ちつづけたおかげで、わたしはまたどこかで場所をひらきたいと思えています。だから、これがお別れではないですが、空間が変わればどうしてもまた一から場を育てていくことになるんだと思います。なので、これはまぎれもなく、ひとつのおしまいです。
わたしからたくさんのお礼も伝えたいし、この場のことをどうか、最後に見にきてほしいです。
本当にありがとうございました。
きてね。
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